第18話:かもしれない
土曜日の朝。
目が覚めて、天井を見つめたまま動けなかった。
昨日のことが、一晩経ってもまだ消化しきれていない。
ベンチのおばあちゃんを北口まで案内した。天草さんを置いてきた。走って戻った。そして——
『大塚さんが声をかけた時の横顔、すごく優しくて』
あの言葉が、胸の奥に刺さったまま抜けない。
痛いのではない。温かいのだ。
こんな温かさを感じたのは、いつ以来だろう。
布団の中で腕を組んで、自分に問いかけてみる。
——なんで、あんなに嬉しかったんだ?
褒められたからか? いや、会社で上司に「よくやった」と言われても、こんな気持ちにはならない。
元カノに否定された部分を肯定されたからか? それはある。間違いなくある。
だけど、それだけじゃない。
もっと単純で、もっと手に負えない何かが、昨日から俺の中でずっと暴れている。
スマホが鳴った。
天草さんからだ。
『おはようございます! 今日、おこげと公園行きませんか? 昨日のお礼に手作りサンドイッチ持っていきます!』
十秒で返信した。
『行きます』
送信してから、昨日のおやつだってお弁当のお礼で買っただけなのに、なぜ天草さんがお礼のお礼を持っていくのかという疑問が浮かんだ。
だがもう送ったものは取り消せない。
それに——正直に言えば、今日は天草さんの顔が見たかった。
理由はまだ、言葉にできないけれど。
◇
午前十一時。
近所の公園のベンチに、天草さんが座っていた。
黒縁メガネ。ワイドパンツ。
そして、Tシャツには筆文字で——
『肉まん』
温かそうだ。
でも、日ざしが強くなってきた今の時期には、ちょっと季節外れな気もする。
「……肉まんですか」
「はい! 兄の最新作です。秋冬コレクションらしいです」
「夏もまだなのに、季節の先取りが激しいですね」
足元のおこげが、俺を見つけた瞬間にダッシュしてきた。
尻尾がちぎれるのではないかという回転数。膝にぶつかって、そのまま腕の中に突っ込んでくる。
「おこげ、元気だなぁ」
「昨日、大塚さんに買ってもらったおやつ、すっごい勢いで食べてましたよ。一瞬で」
「味わえよ……」
天草さんが広げた保冷バッグの中には、タッパーに詰められたサンドイッチが入っていた。
卵サンド、ハムチーズ、フルーツサンド。見た目も綺麗だ。
この人は本当に料理が上手い。弁当のタッパーで慣れたが、改めて手際の良さに感心する。
「いただきます」
「どうぞ!」
卵サンドを一口。
マスタードが効いていて、ちゃんと大人の味だ。
「……美味い」
「よかったぁ!」
天草さんが嬉しそうに目を細めた。
おこげが、足元でサンドイッチの破片を狙って忍び寄っている。
◇
腹がいっぱいになった後は、芝生でおこげと遊んだ。
ボールを投げると、おこげが全力で追いかける。
天草さんがリードを持ってとことこ後を追う。
「おこげ、そっちはダメ! ……きゃっ」
おこげが急カーブを切り、リードがぴんと張って、天草さんがよろめいた。
俺が慌てて手を伸ばし——
「……大丈夫ですか」
「はい……すみません。足元がもつれちゃって」
天草さんが照れ笑いを浮かべた。
慌てて手を離したが、ちょっと気恥ずかしい。
その時、芝生の端にいた小さな女の子が、転んで泣き出した。
母親が駆け寄ろうとしているが、ベビーカーにもう一人子どもがいて身動きが取れない。
「あっ」
俺が動くより先に、天草さんが駆け出していた。
「大丈夫? お膝、痛かった?」
しゃがんで女の子の目線に合わせて、優しく声をかけている。
女の子が泣きやまない。天草さんはポケットからハンカチを出して、膝の砂を払ってやった。
「ほら、もう大丈夫だよ。すごいね、泣かないで偉いね」
おこげが空気を読んだのか、女の子の前に座って「わふっ」と一声鳴いた。
女の子が泣き止んで、おこげに手を伸ばした。
「わんわん……」
「この子、おこげっていうの。触ってもいいよ」
母親が「すみません、ありがとうございます」と頭を下げると、天草さんは「いいえ」と微笑んで、何事もなかったかのように戻ってきた。
——俺は、その一連を見ていた。
金曜の夜、俺がベンチの老婦人に声をかけた時と、同じだった。
目の前で困っている人がいたら、考えるより先に体が動く。
天草さんも、同じなんだ。
会社では「押しに弱い」「断れない」と自分を卑下していたが、それは違う。
彼女もまた、困っている人を放っておけない側の人間だった。
「すみません。おこげが勝手に……」
「いえ。……天草さんって、昔からそういう人ですか?」
「え? そういう人って?」
「困ってる人に、すぐ駆け寄れる人」
天草さんはきょとんとして、それから少し照れたように頬を掻いた。
「……そうかな。でも、私はそれがちゃんとできてる気がしなくて。大塚さんみたいに、自分から声をかけるのって勇気がいるじゃないですか。私は、押しに弱いだけなんです。頼まれたら断れないだけで、自分からは……」
「そんなことありませんよ」
俺は思ったことをそのまま口にした。
「さっきだって、俺より先に動いてたじゃないですか」
天草さんの目が瞬いた。
言われて初めて気づいたような、不思議そうな顔。
「……そっか。自分では気づかないものですね」
彼女は小さく笑った。
◇
夕方。
公園の端にある河川敷の土手に、並んで座った。
西の空が、オレンジ色に染まっている。
住宅街の向こうに沈んでいく夕日が、雲の裾を赤く焼いていた。
おこげが、二人の間に割り込むようにして丸くなった。
さんざん走り回った疲れで、ぐっすりだ。
しばらく、無言の時間が流れた。
虫の声がする。遠くで電車の音が聞こえる。
「……大塚さん」
天草さんが、夕焼けを見たまま、ぽつりと呟いた。
「私、大塚さんみたいな人になりたいんです」
「……え?」
「困ってる人を見て見ぬふりしない人。こんなに話すようになる前から、大塚さんが誰かの助けになっているところ、何度も見てたんです。それで、いろんな人に信頼されてて」
そんな大層なことをした記憶はない。
助けるどころか逆効果だったこともあるし、後悔だってしてることもある。
だが、天草さんは続けた。
「私は会社だと、愛想笑いで誤魔化してばっかりで。困ってる人がいても、自分が巻き込まれるのが怖くて……早乙女さんの時だって、大塚さんが声をかけてくれなかったら、私はずっと笑って誤魔化してたんです」
彼女の声が、少しだけ震えた。
「だから……大塚さんのそういうところ。すごいなって。ずっと思ってました」
夕日が、天草さんの横顔を染めている。
黒縁メガネのレンズに、オレンジ色の空が映り込んでいる。
俺は、何と答えればいいのかわからなかった。
どんな言葉を返そうとしても、思っていることを表現できない気がする。
だけど、天草さんの声が、胸の一番柔らかいところに触れているのだけは分かった。
「天草さんは、充分すぎるくらい優しいですよ」
声に出していた。
「さっき公園で転んだ子にすぐ駆け寄ったの、俺より先でした。お弁当だって、毎日余分に作ってくれてる。……少なくとも、俺はそう思ってます」
天草さんが、こちらを見た。
目元がうっすらと赤い。夕日のせいだけじゃない。
「……ありがとう、ございます」
かすれた声で、そう言った。
風が吹いた。
太陽が帰り支度をして、少しだけ冷たくなった風。
おこげが寝返りを打って、天草さんの膝に頭を乗せた。
その横顔を見ていたら、胸の奥で何かが決壊した。
堰を切ったように、一つの感情が溢れ出してくる。
ああ。そうか。
俺はこの人のことが——
理由なんか、もうどうでもよかった。
この人の隣にいると、俺が俺のままでいいと思える。
それだけで、もう充分だった。
◇
エスポワールの灯りの前で、いつものように別れた。
天草さんはおこげを抱えて、小さく手を振った。
『肉まん』のTシャツが、エントランスの温かい光に照らされている。
「じゃあ、また」
「はい。また」
オートロックのドアが閉まる。
俺は数十メートルの帰り道を歩きながら、空を見上げた。
星は見えない。薄い雲に覆われた、ぼんやりとした空。
だが、胸の中は澄み渡っているようだった。
アパートの部屋に入り、靴を脱いで、電気もつけずに座り込んだ。
暗い六畳間に、自分の呼吸だけが聞こえる。
「好きかもしれない」
口に出してみた。
六畳間に落ちたその言葉は、思ったよりもずっと自然で——
そして、思ったよりもずっと、怖かった。
怖いのに、胸が温かかった。
矛盾しているのに、その矛盾ごと抱えていたいと思った。
スマホが光った。
『今日は楽しかったです! おこげもベッドで爆睡してます(笑) また明日ですね』
俺はスマホを枕元に置いて、暗い天井を見つめた。
また明日。
明日は日曜日だ。
月曜日が来る前に、もう一度くらい——この気持ちの名前を、確かめたかった。




