第17話:言葉
金曜日の退勤後。
駅の改札を出たところで、天草さんが待っていた。
ジャケットの下は白いブラウス。仕事帰りでも隙のないコーディネートだが、唯一、肩にかけたトートバッグの中からタッパーの蓋が覗いているのがご愛嬌だ。
「お疲れ様です、大塚さん」
「お疲れ様です。すみません、待たせちゃいましたか?」
「いえ、今来たところです」
お互い、驚くほど定番の台詞が出る。
待ち合わせの理由は、付箋の最後に付け加えていた「おこげのおやつを買いに行きませんか」だ。
毎日タッパーのお弁当を恵んでもらっている負い目があったので、そのお礼も兼ねて、隣駅の商店街にあるペットショップに行く提案をしていた。
天草さんは最初「そんなの気にしなくていいのに」と遠慮していたが、「おこげへの貢ぎ物です」と言ったら嬉しそうに頷いた。
アーケード街を並んで歩く。
金曜の夜の空気には、一週間の戦いを終えた人々の安堵が漂っている。
居酒屋の看板が温かい色で光り、路地からは焼き鳥の匂いが流れてくる。
「今週のお裾分け、全部美味しかったです。特に昨日のほうれん草のおひたし」
「本当ですか? あれ、ちょっと茹ですぎたかなって心配だったんですけど」
「全然。ちょうどよかったです」
天草さんが「よかったぁ」と頬を緩める。
会社では完璧でアイドルのような人が、料理の出来を気にするのだ。
そのギャップにも、もう慣れた。
慣れたことが、少しだけ嬉しい。
◇
ペットショップまであと二、三分、というところだった。
交差点の手前。
街灯の下のベンチに、一人の高齢の女性が座っていた。
小柄な体。杖を手に持っている。秋口の肌寒い夕方に、薄手のカーディガン一枚。
きょろきょろと辺りを見回している。表情が不安げだ。
俺の足が、止まった。
「……大塚さん?」
天草さんが、半歩先で振り返った。
——見て見ぬふり、ができない。
昔から、そうだった。
困っている人を見つけると、足が勝手に止まる。
「急いでいる」「関わるな」と思っていても、もう一人の自分が「本当にそれでいいのか」と問いかけてくる。
この性分のせいで、迷子の男の子を助けて彼女とのディナーに遅刻し、結果としてフラれた。
お人好し。損をする側の人間。
一瞬、脳裏をよぎった。
元カノの声。
『なんで私だけを見てくれないの?』
あの時もこうだった。
大事な予定があるのに、通りすがりの誰かを放っておけなくて、結局全部を失った。
学習しろよ、俺。
ここでベンチの老婦人に声をかけたら、天草さんを待たせることになる。ペットショップは閉店時間が迫っている。また同じ過ちを繰り返すのか。
だが。
老婦人が、不安そうに辺りを見回している。
その目が、助けを求めている。
「……すみません、天草さん。ちょっとだけ」
俺はそう言って、ベンチの方へ歩き出した。
「あの、大丈夫ですか? 何かお困りですか?」
声をかけると、老婦人はホッとしたような顔で俺を見上げた。
「あの……息子が車で迎えに来るはずなんだけど、場所がわからなくなっちゃって……。ここ、北口でいいのかしら?」
「北口はこの先の階段を降りたところですね。ここは東口です」
「あら……そうなの。ごめんなさいね、最近この辺も変わっちゃって。方向音痴な上にスマホも持ってないものだから」
困ったなぁ、と老婦人が眉を下げた。
杖を突いて歩くのも、少し心もとない足取りだ。
「北口まで一緒に行きましょうか? すぐですから」
「いいの? 悪いわねぇ」
俺は老婦人の荷物を持ち、ゆっくりとした歩調に合わせて北口への道を歩いた。
背後で、天草さんが小さく何か言ったような気がした。
俺は一瞬振り返り、頭を下げた。
顔は見られなかった。
どんな表情をしているのかを知るのが怖くて――。
◇
北口に着くと、息子さんの車はまだ来ていなかった。
老婦人が「少し待てば来ると思うんだけど」と言うので、俺はそのまま隣のベンチに腰を下ろした。
「お兄さん、お急ぎだったんじゃない?」
「いえ、大丈夫です」
大丈夫じゃない。
ペットショップの閉店は七時。もうあと二十分もない。
天草さんを置いてきた。連絡の一つもせずに。
胃の底に、鉛を飲んだような感覚が広がっていく。
元カノの時と同じだ。
迷子になった男の子の手を握りながら、レストランの予約時間が過ぎていくのを眺めていたあの夜と、全く同じ状況。
歴史は繰り返す。学ばない男、大塚勝利。
だが、老婦人が不安そうに身を縮めているのを見ると、ここを離れるという選択肢が消えた。
五分後。
銀色のワゴン車が北口ロータリーに滑り込んできた。
運転席から息子さんらしき男性が降りてきて、「母さん、東口って言ったのに!」と少し呆れた声を上げた。
「この若い方が連れてきてくれたのよ。ありがとうね」
老婦人が丁寧に頭を下げ、息子さんに支えられて車に乗り込んだ。
ワゴン車が去っていくのを見届けてから、俺は時計を見た。
午後六時五十五分。
「……終わった」
ペットショップ、間に合わない。
それより、天草さんだ。
俺はスマホを取り出した。LINEを開く。
——と、その前に足が動いていた。
東口へ走る。
階段を駆け上がり、商店街を抜け、ペットショップの前まで一気に戻った。
シャッターが半分降りている。閉店だ。
そして、その手前に。
天草さんが立っていた。
小さな紙袋を一つ提げて。
「……天草さん」
息が切れていた。
彼女の前に立つ。
謝罪しなければならない。言い訳なんてしない。待たせた。置いていった。約束を破った。
「すみませ——」
「おばあちゃん、無事にお迎え来ましたか?」
天草さんの第一声は、それだった。
言葉が出なかった。
怒っていない。呆れてもいない。
それどころか、少し心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
その視線は、俺に対してというよりも、俺の後ろにいた「誰か」に向けられているみたいだ。
「……はい。息子さんの車が来て、無事に」
「よかった」
天草さんが、ふうっと胸を撫で下ろした。
「大塚さんが声をかけてるの見えたので。追いかけようかなって思ったんですけど、邪魔しちゃ悪いかなと思って……。それで先にお店に入って、おこげのおやつだけ買っておきました」
彼女が紙袋を持ち上げた。
「閉店ギリギリでした。ふふ、ファインプレーでしょう?」
笑っている。
嫌味でも皮肉でもなく、本当に嬉しそうに笑っている。
俺は奥歯を噛んだ。
喉の奥が熱くなっていくのを必死で抑えた。
「……天草さん。怒らないんですか。俺、置いていったのに」
「怒る? 何でですか?」
天草さんは不思議そうに首を傾げた。
「だって大塚さん、困ってた人を助けてただけじゃありませんか」
何でもないことのように言った。
「大塚さんが、ベンチのおばあちゃんに声をかけた時の横顔……すごく優しくて」
彼女は照れたように視線を落とした。
「そういう人が近くにいてくれるの、嬉しいな。私は」
◇
帰り道。
並んで歩いているのに、俺はしばらく言葉が紡げなかった。
脳裏で、二つの記憶が交差する。
——『なんで私だけを見てくれないの?』
元カノの言葉。
あの時の自分は、確かに悪かった。大事な日に遅刻した。連絡もできなかった。彼女を傷つけた。
だけど。
困っている人を助けたという行為自体を、否定された。
お前のその性格がダメなんだ、と言われたのと同じだった。
だから俺は、自分の一番根っこにあるものを嫌いになりそうだった。
——『大塚さんが声をかけた時の横顔、すごく優しくて』
天草さんは、真逆のことを言った。
俺が誰かを助けている姿を見て、怒るのではなく——そこに価値を見出してくれた。
同じ行動。同じ結果。
なのに、かけられた言葉はこんなにも違う。
お人好しで損するこの性格が悪いんだ、と思っていた。
でも——お人好しの俺を肯定してくれる人がいた。
「……大塚さん、今日はありがとうございました」
エスポワールの灯りの前で、天草さんが立ち止まった。
おこげのおやつが入った紙袋を大事そうに抱えている。
「こちらこそ。おやつまで買っておいてもらっちゃって」
「いえいえ。おこげへの貢ぎ物ですもんね? ふふ」
俺が言った台詞をそのまま返してきた。
こういうところだ。この人の温かさは、こういう何気ないところにある。
「じゃあ、また月曜日に」
「はい。……また月曜日に」
オートロックの向こうに消えていく背中を見送りながら、俺は少しだけ空を見上げた。
星は、見えなかった。
曇り空。ぼんやりした月の輪郭だけが雲の向こうに透けている。
だが、暗い空を見上げても、胸の中は不思議と温かかった。
アパートに帰り着き、鍵を開ける。
暗い六畳間。いつもの殺風景。
靴を脱いで座り込み、スマホを開いた。
LINEの通知。天草さんからだ。
『今日は本当にありがとうございました! 大塚さんの優しさ、私も見習いたいです。あと、大塚さん専用Tシャツの案を思いつきました。『お人好し』。似合うと思います(笑)』
……笑えない。
笑えないのに、口の端が上がる。
目の奥が、じんわりと熱い。
かつて、俺のこの性分を「ダメなところ」と断じた人がいた。
今日、そこを認めてくれる人がいた。
どちらが正しいかなんて、わからない。
だが、どちらの言葉が胸に残ったかは——もう、答えが出ていた。




