第11話:犬のため
第11話:犬のため
あの雨の夜から数日が過ぎた、水曜日の夜。
仕事を終えて帰宅し、カップ焼きそばを頬張っていたら、スマホが震えた。
LINEの通知。送信者は「天草ひより」。
――おっ?
カップ焼きそばを頬張りながらスマホを見るのは、一人暮らしの特権だ。
箸とスマホの二刀流で、画面をスライドする。
トイプードルが、膝の上で仰向けに寝転がっている。
肉球丸出し。腹丸出し。完全にノーガードだ。
上から撮ったらしく、画面の端にメガネをかけた天草さんの顎と、ふにゃっと笑った口元がわずかに写り込んでいる。
……たぶん、本人は自分が写っていることを意識していない。
添えられたメッセージは一言。
『今日のおこげです』
……可愛いじゃないか。
あのぷにぷにした肉球。実家のムギちゃんを思い出す。
俺は深く考えずに指を滑らせた。
『可愛い』
送信してから、やや後悔した。
二十四歳の男が、同僚の女性に対して「可愛い」って。
犬のことを言ったつもりだが、写真には天草さんも写っている。文面だけ見ると完全に誤解を招く。
だが、返信はすぐに来た。
『ですよね!! おこげ天使です!!』
……勘違いされていなかった。ホッとした。
いや、何にホッとしているんだ、俺は。
それからというもの、天草さん——いや、豆腐さんからのLINEは日課になった。
おこげの寝顔、おこげの散歩中の写真、おこげがソファの上で丸くなっている写真。
大半がおこげの写真で、本当にときどき「兄がまたTシャツ増やしてました」という報告だった。
俺はそのすべてに、律儀に反応を返していた。
「可愛い」「丸い」「また寝てる」。
語彙力が死んでいくのを感じながらも、返信しない選択肢は不思議となかった。
ある日、おこげがソファからジャンプして着地に失敗する動画が送られてきた。
会社でそれを見ていたら、上司に「大塚、何ニヤニヤしてるんだ」と声を掛けられ、慌ててスマホを隠す羽目になった。
別の日には、兄・暁さんが新たに購入した筆文字Tシャツのラインナップが写真で送られてきた。
『ざるそば』『冷やしうどん』『そうめん』。
まるで麺類フェアだ。俺は「お兄さんは夏に向けてさっぱり系に切り替えたんですね」と返した。
天草さんからは「鋭い分析です」という返事と、泣き笑いのスタンプが返ってきた。
◇
それからまたある日の帰り道。
駅からアパートへ向かう途中、前方に見慣れたシルエットを見つけた。
黒縁メガネに、今日のTシャツは――『焼きそば』。
……あれ。いつもの芋ジャージじゃない。下は普通のデニムだ。
リードの先には、嬉しそうに尻尾を振っているおこげ。
おこげが俺に気づいた。
キャンッ、と一声鳴いて、ぐいぐいとリードを引っ張ってくる。
「あっ、おこげ! ちょっと!」
引きずられるように近づいてくる豆腐さん。
やがて俺の足元に到着したおこげは、尻尾をちぎれるほど振りながら俺のスラックスに鼻を押し付けた。
「こら、すみません。この子ったら、大塚さんを見ると猪突猛進で……」
「いいですよ。元気だなぁ、おこげ」
しゃがんで首元を撫でると、おこげは満足そうに目を細めた。
トイプードルのくせに、撫でられると柴犬みたいな顔をする。ムギちゃんと同じだ。
「……歩きます?」
天草さんが言った。
散歩に合流しないかという意味だろう。
「はい」
俺は特に迷わなかった。
秘密を共有した仲間なのだ。一緒に帰るくらい、何ということもない。
並んで歩く住宅街の夜道。
街灯がぽつぽつと続く、ありふれた帰り道。
だが、隣に筆文字Tシャツの女性と犬がいるだけで、景色がまるで違って見える。
「今日の焼きそばもなかなかですね」
「ふふ、やっぱり食べ物系が多いんですよね。兄が好きなのが食べ物系の筆文字で」
「お兄さん、どういう基準なんですか?」
「たぶん、基準がないのが基準なんだと思います」
「……禅問答みたいですね」
天草さんがくすくす笑った。
会社では聞けないような他愛のない話が、不思議と心地よかった。
天草さんの声は、先日聞いた三つ目の声色に近い。
もっと自然で、たまに語尾がふにゃっと崩れる。
それがすっかり耳に馴染んでしまった。
「あ、そういえば大塚さん」
「はい」
「今度、おこげ連れて大塚さんちに行ってもいいですか? この子、大塚さんのことすっごく好きみたいで」
おこげがタイミングよく「わふっ」と鳴いた。
「……うちペット禁止なんですよ」
「えっ! そうなんですか!」
心底残念そうな顔をする天草さん。
メガネの奥の大きな瞳が、しょんぼりと垂れている。
その横で、おこげまで「クゥン」と悲しそうに鳴いた。お前は理解できてないだろ。
「……すみません」
「いえいえ、大塚さんが謝ることじゃないです。うーん、残念」
「じゃあ公園とかで遊びましょうか? 今度の土曜日とか」
「いいですね! あ、でも土曜日は美容院があるから……日曜日はどうですか?」
休日。公園。二人で。
それって、客観的に見たら——
「いいですね、日曜日。おこげも喜んでくれるかな?」
——犬のためだ。犬の。
まあ、友達みたいなものだろう。犬という共通の趣味がある仲間。それ以上のものではない。
「やったー! おこげ、聞いた? 大塚さんと公園だって!」
天草さんがおこげに話しかけると、おこげは「わふわふ!」と二回鳴いて尻尾の回転数を上げた。
天草さんのマンション『グランドレジデンス・エスポワール』の前で別れた。
いつものように、エントランスの灯りの下で小さく手を振る豆腐さん。
今日の「焼きそば」Tシャツが、温かい照明に照らされている。
俺も軽く手を上げて応え、アパートに帰った。
部屋の電気をつけて、靴を脱いで、座り込む。
ふと、気づいた。
今日、帰り道がずいぶん短く感じた。
いつも面倒くさいと思っている駅からの十五分の道のりが、あっという間だった。
Tシャツの話と、おこげのしつけの話と、兄の謎行動の話。
よく考えたら、ずっと天草さんの家族の話を聞いていた気がする。
「……あれ。今日、普通に楽しかったな」
口に出して、慌てて首を振る。
犬が可愛いから楽しい。天草さんとも、友達みたいに気楽に話せるようになった。
それだけのことだ。好意を持ったって不思議じゃない。人として、普通に。
……LINEが鳴った。
『おこげが大塚さんの匂いがするところで寝てます(笑) スラックスについた匂いを追ってるみたいです』
添えられた写真には、俺のアパートの方角に鼻先を向けて眠るおこげの姿。
窓際で撮ったのか、写真の下の方に、見覚えのあるボロアパート——コーポ日向の屋根がちらりと映り込んでいた。上から見ると、さらにみすぼらしい。
俺は盛大にため息をついてから、返信を打った。
『ストーカー犬』
『ひどい!笑』
スマホを枕元に置いて、天井を見上げる。
友達みたいなもの。
そう、俺たちは、犬友達だな。
二回言い聞かせたのは、一回では足りなかった証拠だと、俺はまだ気づかないふりをしていた。
日曜日の公園。
おこげと天草さん。
……それだけのはずなのに、何を着て行こうか考えている自分がいた。
服なんていつものスウェットでいいのに。




