表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マンデーパニック! 〜変なTシャツと犬、ちょっとだけ勇気。会社のアイドルと二人で月曜日が楽しくなるまでの物語〜  作者: ゆゆこりん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/46

第10話:救出作戦


 翌日の朝。

 重い足取りで出社した俺を待っていたのは、いつもと少し違う空気だった。


 ――いや、変わったのは空気じゃない。俺の方だ。


 エレベーターを降り、営業二課のデスクに向かう途中、視界の端に「総務部」のプレートが映る。

 いつもならスルーするそのドアの向こうに、味噌田楽の女が潜んでいるという事実。

 それだけで、足取りがいつもの三割増しで軽い。


 自席に座り、パソコンを立ち上げながら、昨夜のことを反芻する。

 雨上がりの帰り道。

 隣を歩く芋ジャージ。

 同盟結成。

 そして、あの柔らかい笑顔——。


「……よし」


 頬の筋肉が勝手に緩みそうになるのを、コーヒーを取りに行くという名目で立ち上がることで誤魔化した。


 給湯室のドアを開ける。

 先客がいた。


 天草さんが、マグカップにお湯を注いでいるところだった。

 今日の服装は、白いブラウスにベージュのカーディガン。お嬢さま然とした清潔感。

 まさか昨夜、味噌田楽Tシャツと芋ジャージで雨の中を歩いていたとは、誰も思うまい。


「おはようございます、大塚さん」


 彼女が俺に気づいて微笑んだ。

 それは、今までの「営業用スマイル」とも、昨日の「素顔の弱々しい笑み」とも違う。

 親しい友だちに向けるような、優しく柔らかい微笑みだった。

 目尻がほんの少しだけ下がって、唇の端がふわりと上がる。

 そこに「味噌田楽」の影が一瞬だけちらついて、俺は危うく吹き出しそうになった。


「……おはようございます」


 俺も周囲に気づかれないよう、小さく会釈を返す。

 ただそれだけのやり取り。

 けれど、それだけで昨日の出来事が夢じゃなかったと実感できる。


 あの完璧超人の天草さんが、実は「味噌田楽」Tシャツを着る干物女で、俺の家の近所に住んでいる。

 その事実が、気だるい火曜日の朝を少しだけマシに思わせてくれた。


 コーヒーを入れる間、わずかに二人きりの空間。

 彼女がカップを両手で包み、ふうふうと冷ましながら、こっそり小声で言った。


「……昨日、兄に『花火みたいな雨の中、お前よく買い出し行ったな』って言われました」

「花火みたいな雨……」

「ゲリラ豪雨のことです。兄の語彙って独特で……」


 彼女はクスリと笑い、それから思い出したように真顔になった。


「あ、今のなしで。会社モードに切り替えないと」


 スッ、と表情が変わる。

 教科書に載せたいくらい見事な営業スマイルに戻った彼女は、「失礼しますね」とマグカップを持って給湯室を出ていった。


 残された俺は、入れっぱなしのコーヒーを慌てて引き上げながら、妙な感慨に浸っていた。


 ——この人、素とスイッチの落差がえぐい。

 だが、さっき一瞬だけ見えた「素」の方を知っている人間は、この会社にまずいないだろう。

 その事実が、ちょっとした優越感を俺にもたらしてくれた。


 ◇


 午前中の仕事は、思った以上に手につかなかった。


 書類を届けに行くフリをして総務部の前を通りかかると、デスクに座る天草さんが見えた。

 完璧な姿勢で、モニターに向かっている。

 周囲の社員が話しかけても、にこやかに応じる。

 誰が見ても、隙のない「社内のアイドル」だ。


 だが俺は知っている。

 あの完璧な武装の下に、芋ジャージと筆文字Tシャツの女が潜んでいることを。


 不意に、彼女がこちらに気づいた。

 ほんの一瞬、目が合う。

 そして——彼女はわずかに眉を持ち上げ、口の端だけで笑ったように見えた。

 まばたき一つ分の、誰にも気づかれないほど小さな合図。


 俺も無言のまま、コーヒーカップを少しだけ持ち上げて応えた。


 それが、俺たちの秘密のサインになった。



 午後六時を回った頃。

 フロアの人口密度がぐっと減り、キーボードの打鍵音だけが響く時間帯。

 俺は明日の見積もりの修正に追われていた。


 ふと、デスクの隅に見覚えのないものが置いてあることに気づいた。

 個包装の小さなチョコレートが二粒。

 その下に、淡いピンクの付箋が一枚。


 『お疲れ様です』


 丁寧な丸みを帯びた、たったの一行。名前はない。

 いつの間に置かれたんだ? さっきトイレに行った数分の間か。


 辺りを見回すが、それらしい人影はない。

 隣の席の田所はとっくに帰っている。向かいの後輩も退勤済みだ。


 差し入れの主を考えたが、わからなかった。

 まあ、総務部あたりが残業組に配って回ったのかもしれない。

 俺は犯人探しをやめて、「いただきます」と一言つぶやいて見積書に向き直った。


 ほろ苦いカカオの味が、残業の疲れた舌に染みる。

 少しだけ、キーを打つ指が軽くなった気がした。


 ◇


 午後七時。

 俺は残業を終え、帰ろうとしていた。

 立ち上がって準備をしていると、通路で見覚えのあるシーンが展開されていた。


 天草さんだ。

 そして、その前には例のエース・早乙女先輩が立ちはだかっている。


「なぁ、今夜こそいいだろ? 美味しいイタリアン見つけたんだよ」

「申し訳ありません、今日は……」

「またかよー。いつなら空いてんの? てか、俺のこと避けてない?」


 先輩の声は大きく、粘着質だ。

 天草さんは困ったように眉を下げ、愛想笑いでやり過ごそうとしているが、先輩は引く気配がない。


(……うわぁ)


 関わりたくない。

 モブ社員の処世術としては、ここは気づかないふりをして階段で降りるのが正解だ。

 先週の飲み会で酔った勢いでぶちまけた暴言のツケも、まだ完全には精算できていないのだ。


 ――だが。


 ふと、天草さんと目が合った。

 彼女の瞳が、助けを求めるように揺れている。


 今朝の給湯室での微笑みが、脳裏に蘇った。

 営業スマイルではない、あの柔らかな笑顔。

 それを思い出した瞬間、足が止まった。


 昨日の約束が頭をよぎる。

 「内緒にしてください」——あの言葉と、二人だけの秘密。

 秘密を共有した仲間を、見て見ぬふりはできないだろう。


 俺はオフィスチェアに腰を下ろしてため息を一つ。

 ポケットからスマホを取り出した。

 連絡先アプリを立ち上げ、以前交換した「天草ひより」の名前をタップする。


 プルルルル……。


 静かなエレベーターホールに、電子音が響き渡っている。

 発信源は天草さんのバッグの中、であるはずだ。


「あ、すみません……電話」

「え? 今?」


 先輩が興を削がれたように顔をしかめる。

 天草さんは慌ててバッグからスマホを取り出し、画面を見て――一瞬、目を見開いてこちらの方を見た。


「はい、もしもし……ええ、はい。急ぎますか? はい、分かりました、すぐ行きます」


 存在しない用事を、実に自然な演技でこなしている。

 さすがは仕事も気遣いもできる社内アイドル。この辺りの対応力はさすがだ。


 先輩は際どいコースで見逃し三振になった打者のように、不満オーラ全開で去っていった。

 エレベーターの扉が閉まるのを見届けて、腰を上げた。


 ふう、と安堵のため息が聞こえた。

 天草さんは辺りを見まわし、人がいないことを確かめてから――とてとてと小走りでこちらにやってきた。


「……助かりました」


 その声は、天草さんの澄んだよそ行きでもなく、豆腐さんの遠慮がちなトーンでもない。

 二つの声がちょうど混ざり合った、聞いたことのない三つ目の声色だった。

 ——これが、本当の天草さんの声なのかもしれない。


「いえ。たまたま指が滑っただけです」


 俺は手に持ったままだったスマホをポケットにしまう。


「たまたま、ですか」


 彼女はクスリと笑い、小さく頭を下げた。

 さっき先輩の前で浮かべていた張りつめた営業スマイルとは全く違う、ふにゃりとした、ほっとしたような笑顔だった。


「とりあえず、今日はこれで」

「ですね。おかげさまで、急ぎの用事ができちゃったんで。ふふ」


 俺は片手を軽く上げた。

 彼女も同じように軽く手を上げてひらひら――。

 朝の給湯室と同じような、二人だけの小さなサイン。


 言葉少なに別れを告げる。

 エレベーターではなく、階段で降りることにした。

 理由なんてない。ただそんな気分だっただけだ。


 ◇


 帰り道。

 すっかり暗くなった住宅街を歩きながら、今日一日を振り返っていた。


 朝の給湯室での秘密の微笑み。

 午前中の、まばたき一つ分の合図。

 そして夕方の、電話一本の共闘。


 たった一日で、会社という灰色の箱が少しだけ違う色に見えてきている。


 二人だけの内緒。

 それは案外、悪くないものかもしれない。

 少なくとも、灰色だった月曜日に、ほんの少しの色を与えてくれそうだ。


 ふと、スマホが震えた。

 画面には「天草ひより」の名前と、犬の写真が一つ。

 その下に短いメッセージ。


 『今日は本当にありがとうございました。お礼になるかわかりませんが、今のおこげを送ります』


 俺は小さく笑い、既読だけつけてスマホをポケットにしまった。


 返事は……明日の給湯室で、直接言おう。

 あの秘密のサインと一緒に。


 おこげの写真をもう一度開いて、暗い六畳間に明かりを灯した。

 不思議と、部屋が少しだけ広く感じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ