第12話:兄と妹
木曜日の夜。
コンビニで夕飯の弁当を買った帰り道、おこげの散歩中の豆腐さんに遭遇した。
もう驚かない。このパターンは何回目だ。
むしろ会わなかった方が気になるくらいには、この帰り道の遭遇が定番化しつつあった。
「あ、大塚さん!」
今日のTシャツは——暗くてよく見えない。街灯の下に入ったところで確認すると、『明太子』だった。
またしても食べ物系。天草家のクローゼットは、さながら居酒屋のメニュー表だ。
下はまたデニム。ジャージはもうやめたのだろうか。
「こんばんは。今日も散歩ですか」
「はい。今日は、ペットショップにも行ってきたんですよ」
おこげが嬉しそうに俺の脚に絡みつく。尻尾が扇風機みたいに回転している。
もう完全に懐かれた。犬の記憶力は侮れない。
と、そこで気づいた。
今日は豆腐さんの後ろに、もう一人いる。
長身。無表情。
暗がりの中でも分かる、彫りの深い顔立ち。
そして、胸には筆文字で——
『明太子』。
……おい。被ってるぞ。
いや待て。この男、見覚えがある。
以前スーパーの近くで見かけた、「納豆」Tシャツの謎の男——
「納豆の人……!」
「納豆……あ、紹介しますね」
天草さんがにこにこと言った。
この状況で明太子が被っていることに気づいていないのか、気づいていて気にしていないのか。後者だとしたら恐ろしい。
「兄の暁です」
「……ああ、妹がいつもお世話になってます」
低い声。ぼそっとした喋り方。無駄のない言葉数。
夜の暗さと無表情が相まって、かなり怖い。
身長も俺より頭半分高い。威圧感がある。
いや、それよりも。
あの「納豆男」が天草さんの兄だったのか。
あれが、この人だったのだ。筆文字Tシャツ帝国の皇帝なんだ。
「は、初めまして。天草さんには会社でお世話になってます」
精一杯の社交辞令を口にしたが、暁さんはふんと鼻を鳴らしただけだった。
まるで犬だ。
そして、じっとこちらを見つめてくる。
値踏みされている。明らかに品定めの眼差しだ。
面接を受けているような緊張感が走る。だが面接官が明太子Tシャツ。シュールすぎる。
数秒の沈黙。
コンビニの前で、犬と二人の「明太子」に囲まれるという、人生で二度とないであろう状況に置かれていた。
「……犬、好きか?」
暁さんが、唐突に聞いた。
質問がシンプルすぎて、逆に身構える。
「はい。実家で柴犬飼ってました」
「名前は」
「大塚です」
「お前じゃねえ、柴犬の方だ」
「あっ、ムギです。白い柴犬で、もう十二歳の——」
「ふーん」
それだけ言って、暁さんの表情が微妙に変わった。
怖い顔のまま、わずかに目尻が下がったような……気がする。
無表情の振れ幅が小さすぎて確信が持てない。だが、体感で好感度が1未満から1ちょいくらいに上がった気配はあった。
「兄さん、怖い顔しないでよ……」
天草さんは眉をハの字にしながら兄に苦言。
その兄は気にも留めずに反論する。
「してない。普通の顔だ」
「いつもの三割増しで怖いよ。初対面の人にそれやったら、みんな逃げちゃうでしょ」
「逃げないやつこそが信用できる」
「理屈がおかしいよ……」
兄妹の漫才のような会話に、思わず笑いがこぼれた。
こうして並ぶと、顔のパーツの配置は確かに似ている。
だが、兄は無愛想なイケメン、妹は柔らかな美人。表情の方向性が正反対だ。
そして共通しているのは、壊滅的なファッションセンスとTシャツの趣味だけだった。
「おこげ、そろそろ帰るぞ」
暁さんがリードを取った。
おこげは名残惜しそうに俺を見上げ、クゥンと一声鳴く。
「では、またな。……大塚」
暁さんは振り返らずに手を上げた。もう呼び捨てかい。
だが、なぜか不快ではなかった。
不器用な人なんだろう。飾り方を知らないだけで、根は優しい。……たぶん。
愛想は残念ながら――
「すみません、兄が愛想なくて……」
頭の中を覗かれてたのかと思った。
天草さんが眉を下げて謝る。
「いえ。カッコいいお兄さんですね。顔立ち、似てます」
「えっ、本当ですか? ……確かに顔は悪くないんですけど、中身がアレなので彼女もたぶんいなくて。兄の残念さを知ったら、みんな引くんです」
残念。その言葉で、つい口が滑った。
「天草さんと同じですね」
「ひどい! 私は残念じゃないです! ……た、たぶん」
たぶん、のところで声が小さくなった。自覚はあるらしい。
俺はつい笑ってしまい、天草さんも最後には「もう……」と唇を尖らせながら笑った。
◇
帰り道、俺は一つ納得した。
Tシャツの謎が完全に解けた。
元凶は兄だ。あの兄が筆文字Tシャツを大量に用意し、妹に着せていた。
いや、「着せていた」は正確ではない。天草さんは自発的に着ているのだ。
兄が「カッコいいだろう」と見せるTシャツを、本気で「そうかも」と思って受け取ってしまう、あの素直さが原因だ。
ファッションセンスの壊滅は、遺伝というよりも兄の教育の賜物だった。
アパートに着いてスマホを見ると、LINEが一件。
『兄がちょっと無愛想でごめんなさい。でもあの後「犬に好かれる奴は信用できる」って言ってました。兄の中では最上級の褒め言葉です(笑)』
犬に懐かれるというだけで信用される世界線。
暁さんの価値基準は、実にシンプルで分かりやすい。
犬が好きか、否か。犬に好かれるか、否か。それだけだ。
悪くない。
俺は少しだけ嬉しくなって、返信を打った。
『光栄です。ムギちゃんの写真、今度送りますね』
すぐに返事が来た。
『やったー! おこげとムギちゃんの共演が見たいです! 顔合わせ会しましょう!!!』
感嘆符が三つもついている。テンションが高い。
実家のムギちゃんは老犬で、なかなか帰省もできていないが——今度の休みに、親に写真を撮ってもらおうか。
そんなことを考えている自分に気づいて、苦笑した。
天草さんの日常が、じわじわと俺の日常に浸食してきている。
犬と、筆文字Tシャツと、明太子の兄と一緒に。
だが今夜は、とりあえず寝ることにした。明日は金曜日だ。
週末には、公園でおこげが待っている。




