第二十六話 悪夢
大会があるので投稿遅れ気味です、申し訳ありません。
「あぁぁぁぁ!!」
ゼラ――雛の悲鳴が響いた。
その悲鳴を聞きつけた彼女たちは急いで木々の間を抜け、倒れ込んでいるゼラの下へと駆け寄る。
「ゼラ君!!」
「どうしたの一体……ゼラ君」
彼女たちはゼラに呼びかける。だが、彼女たちの言葉はゼラには届かない。
「とにかくゼラ君を家にまで運ぶわよ!」
「はい!」
「ゼラ君、帰るまで踏ん張ってよ」
美保の指示の下、レイテットがゼラを抱える。美保は体力のないアイーラを抱えた。そのまま彼女たちは家に向けて走り始める。
ゼラはレイテットに抱えられているが、温もりや抱えられているという感覚を感じられていない。
ゼラ――雛は左手を何度もハサミで刺される幻覚に支配されているのだ。
身体は左手を刺される痛覚といるはずもない周りのいじめっ子に押さえ込まれる感覚しか感じ取れない。耳はいじめっ子の笑い声、煽る声、喜ぶ声しか聞こえない。目はいじめっ子の姿と音楽教室、自らの血で染まるピアノの鍵盤、そして何度もハサミで刺される自らの左手しか見えない。鼻は感じるはずのない血の臭いしか分からない。
「あああぁぁ!!」
ゼラ――雛は彼女たちを感じ取れないほど悪夢に呑まれていく。
「ゼラ君、しっかり!!」
ゼラを抱え、運んでいるレイテットは走りながら言う。しかしその言葉でさえ、ゼラには届かない。
アイーラや美保がゼラに心配する声を送っても届きはしない。
底が深いトラウマ、悪夢はゼラ――雛を掴んで離さない。しかもより鮮明に思い出させて来る。まるで追体験するかのように。
※
雛が小学六年生の記憶。雛を悪夢に引きずり込ませた記憶。
音楽教室は雛が奏でる美しい音で溢れていた。奏でている曲はドビュッシーの『月の光』だ。
ピアノから奏でられる音は雛にとって麻痺した日常となにもない灰色の世界を忘れさせてくれる唯一のものだった。
今の雛が見えている世界は、生きていることを感じさせてくれるほど世界が色付いている。まるで灰色の世界が最初からなかったような色付き方である。
「うん、良い感じ」
雛は自ら奏でる音に納得していた。最初こそ下手であったが経験と思考を何度も重ねることで音楽の先生に匹敵するほどの演奏力を手に入れ、自らの力に納得するまで至っている。
そして明日は合唱コンクールだ。雛はそのためにもここで練習を重ねている。そこには「みんなに自分の力を見せてやろう」という素直な気持ちがあり、一層練習に熱が出ていた。
雛は曲をもう一度奏で始める。曲のタイトルである『月の光』で部屋を満たしているかのように、美しい音で音楽教室を溢れさせる。
暗闇は一切ない。曇らせることも一切ない。色が消えていくこともない。
純粋な笑顔を雛は浮かべる。それまで無口無表情無感情の子供とは思えないくらいに、その笑顔は年齢相応の子供らしく無垢なものだった。
「うん! これで良い」
雛は自らの演奏に最高の納得を示し、練習を終える。
時間は午後六時。窓の外は若干暗くなっているものの、夕日の焼けているような色合いで照らされていた。そろそろ帰る頃合いだ。
ピアノの席から外れてランドセルを背負い、帰宅しようとしている雛。演奏の余韻でピアノから離れた今でも世界は色付いている。
だが、その時だ。音楽教室の扉が勢いよく開き、二十人ほどの生徒が入ってきた。
「雛ちゃーん、こんなところでなにやっているのかな?」
一番先頭に立っている体格の良いいじめっ子のリーダー格である男子生徒が言う。それと同時に複数の生徒が雛を取り囲んだ。雛を取り囲んだ生徒は全員いじめっ子。異国の少女からターゲットを変えて、雛を狙い始めた連中だ。
いじめっ子を前にした雛は表情を元の無表情に戻した。
取り囲まれ、今まさにいじめられようとしているのに微塵の恐怖もない雛。それがいじめっ子たちの気に障ったのか、取り囲んでいたいじめっ子たちは力任せに雛をピアノの鍵盤に押さえ付けた。
「雛ちゃーん、毎度毎度面白くないから今日は楽しいのを準備してきたよ」
「…………」
リーダー格のいじめっ子は言う。対して押さえ付けられている雛はなんの反応も示さず、無口無表情だ。
「あ、そっか。言葉じゃなくて実際にやんなきゃダメだよね?」
悪意のある笑みを浮かべるリーダー格のいじめっ子。その手に持っているのはハサミ。
なにをやるのか全て知っているいじめっ子たちは、雛を押さえ付けたまま左手を鍵盤の上に出させた。
「じゃあ始めるぜ!」
リーダー格のいじめっ子が言うと周りは盛大に盛り上がった。
振り上げられたハサミが雛の左手に向かって振り下ろされる。ハサミの刃は左手の肉を貫き、穴を開かせた。出てきた血は鍵盤を紅く染める。
「あぁぁぁぁぁぁ!!!」
抵抗の出来ない暴力、これまで感じたことのない激しい痛みが雛を叫ばせた。その叫び声を聴いて、いじめっ子たちは愉快に笑っていた。しかもようやく雛を泣かせたという達成感でいじめっ子たちは更に喜んでいた。
いじめっ子たちが笑えば笑うほど、ハサミは何度も雛の左手に刺さっていく。次第にストレスを発散するような叩きつける刺し方になり、雛の左手のみならずピアノの鍵盤をも傷付けた。
「ぐ、あぁぁぁぁ!!!」
雛の痛みを訴える叫び声と叩きつけられたために悲鳴のような雑音を出すピアノ。
いじめっ子は笑い続ける。雛の悲鳴を聴く度に喜び、血が鍵盤に広がっていく度に興奮して、ピアノが悲鳴のような雑音を出す度にストレスを発散していく。
窓の外では夕日が落ち、暗くなっている。それほどいじめは長く続いていた。
そして音楽教室から聞こえてくる異音に気付いた先生が来て、このいじめは終わる。雛にトラウマを植え付けて悪夢のような時間は終わった。
しかし、植え付けられたトラウマが雛を苦しめ続ける。
合唱コンクールでピアノを弾けなかった悲しみと父の冷たい反応は雛が見ていた世界の色を完全に失わせ、ピアノを見る度に蘇ってくるトラウマは雛を悪夢という名の底が見えない暗闇の中に落とさせる。左手の些細な怪我でさえ、雛を暗闇に落とさせる。
そしてピアノのように世界を色付かせてくれるものは見つからず、なにも見えない曇ったような灰色の世界で麻痺した人生を歩んでいく。
※
「うあああぁぁぁ!!」
一度始まると、壊れたビデオテープみたいに悪夢は勝手に繰り返し再生される。何度も何度も何度も左手を刺され、鍵盤を自らの血で染め、ピアノの悲鳴のような雑音が響き、周りのいじめっ子たちの笑い声が聞こえてくる。終わらない悪夢。
「ゼラ君!!」
心配するレイテットは家に到着し、すぐに自室のベッドにゼラを寝かせた。
美保とアイーラも家に到着して、トラウマを思い出しているゼラへと駆け寄った。
「美保さん、どうすれば!」
「とにかく左手の応急処置をするわ! 今すぐ包帯持ってくるからゼラ君の左手を押さえてあげていて!」
「はい!」
美保は年長者らしく冷静に指示を出し、リビングに置いたリュックサックの中にある包帯を探す。美保が包帯を探している間にレイテットはゼラの左手を強く握った。ゼラが大丈夫であることを祈るようにして。
「ゼラ君……」
アイーラはゼラがトラウマに凄まじくやられている光景をただ見ていることしか出来ない。
「今包帯巻くわ、レイテットちゃんはゼラ君が暴れないように押さえていて」
「はい!」
応急処置が始まる。
レイテットはゼラが暴れないよう、身体を押さえる。その間に美保がゼラの負傷した左手を包帯で巻いていく。何度もぐるぐると巻き、傷を忘れさせようというぐらいに美保は巻いていく。そしてしっかり巻き終え、応急処置を終わらせた。
ゼラは未だに叫び続けている。トラウマという悪夢はまだ終わらない。
「ゼラ君、絶対に助けるからね!」
左手を強く握ったままのレイテットは誓うように言う。
悪夢との戦いはここから始まっていく。




