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源氏物語:零  作者: Salt
第三章
65/65

想夫恋

弘徽殿視点

一万字を少し越えました

 右大弁が面会の許可を求めてきたので、珍しいと思いそれを許した。

 来ること自体は稀なわけではない。私が里に戻る際、名のある殿上人はほぼ全て従うし、弘徽殿に伺候して用を務めることなども多い。現左大臣がほぼお飾り状態の今、政を進めるのはたいていわが父右大臣なのであたりまえのことだ。

 ただそんな際も取次ぎの女房にその場で申し込むだけで、あらかじめ知らせがあるわけではない。


「はて。何ゆえいちいち許しを乞う」

 首をかしげていると乳母子がエキサイトした。

「もしかして…………わたしのことでは!」

「?」

「女御さまはご存じないかもしれませんが、あの方はこのわたくしに懸想していたらしいのですよ!」

 ちょっと息を呑んだ。確実に以前の話が間違って伝わっているに違いない。

「…………それは本当か?」

「はい。なんでも、妻にとまで望んでいたのに諸般の事情であきらめざるを得なかったとか。でもきっと、その心が留めがたく、女御さまに許可をいただきにいらしたんだわ! わたし、化粧直してきますっ」

「ま、待ちなさい。それよりもあの朝臣(あそん)のことはどうなった」

「あの方もいい方ですが、右大弁とは比べものになりません。ではっ!」

 凄い勢いで局の方にかけていってしまった。


 だんだん腹がたってくる。

 以前、乳母子の相手を探して右大弁に断られた私は、他の女房に命じて適切な者のリストを作らせた。その中から同じ殿舎の者の彼氏を省き、人柄に問題のある者や無能な者、異質な容姿の者を排除して選び抜いた中から更に女の趣味が一般的でないものをセレクトした。

 何人か定めたがそれぞれの男を呼び出したりはしなかった。右大臣家の力をもってすれば従わせることはた易いが、権威と利益で釣った男の真意など判じがたい。手の者を使って気長に接触し、乳母子に気を向けるように画策した。

 某朝臣は、とあるなかなかの名家の三男で性格も温和、仕事も程よくこなし外観も難点のない男だ。白羽の矢を立てたのは彼の女の好みで、たおやかな姫君にも色事に巧みな女君にも興味を示さず、男にひたすら頼るだけの可愛い女など最も避けたい相手だと言っていたらしい。


「いったいなぜです」

「はぁ、牛車のせいです」

「牛車?」

 ますますもってわからぬ。彼女は少々口重く続けた。

「牛車がとてもお好きなのです。お仕事の時間はそれに専念されますが、終わると人の牛車を見に行ったり、牛車のパーツや全体図を描いたり、牛を眺めたりとお忙しいらしいのです」

「ほお」

「それでひたすら男の気を惹こうとする女は時間を食うので好まないと」

 変な男だ。思わずリストからデリートしようとしたが、考えてみれば乳母子はこの場に仕えることが多い。もしかすると都合がよいかも知れぬと残したところ、本命となった。他に候補者はいたが、最もうまく行きかけていたのだ。


「人がどれだけ苦労したと思っておる!」


 確かに右大弁の方が地位も高いしなんだか腹の立つ顔だが男前と認めざるを得ない。しかし乳母子本人に対してまったく一切全然皆目興味を示さなかった男だ。一方某朝臣はお膳立ては初期だけで、後はこっそり見守らせただけなのにちゃんとあやつに好意を示し始めたのだぞっ。いったいどちらが女にとって幸福か…………

「いらっしゃったようです」

 女房が告げに来たので口をつぐんだ。



 右大弁は几帳と御簾の向こうの孫廂に控え、礼儀正しく頭を下げた。

「このたびは献上致したき物がありまして参上いたしました」

 そういって取次ぎの女房に、錦の袋に包まれた細長い物を渡した。彼女はすぐに私の手元にそれを運ぶ。

 開いてみて驚いた。いかにも由緒のありそうな竜笛が一つ入っていた。

「これは……」

「我が家に伝わる最高の品です。献上致します」

「………………」

 真意がつかめず見返すと、真剣な様子で几帳の隙間から目をあてる。その後彼は、恐れた様子もなく落ち着いた声を出した。

「私は、楽を一切やめようと思います」


 笛を取り落としそうになったので、手近な女房に渡し袋に収めさせた。

 右大弁は引くことなく見事な姿勢で控えている。こちらの方が微かに焦って部屋を見渡した。隅の方にとんでもなく着飾った乳母子がいる。

「…………ほう。それはまたなぜ」

 気を取り直して尋ねると、さすがに少し口ごもった。私はたたみかけた。

「桐壺の更衣の件か」

 直球で訪ねると彼はうなずいた。

「はい。しかし誤解なさらないでください。私は彼女に懸想していたわけではありません」

「それではなんだ。義によって彼女の音に殉じるとでも言いたいのか」

 この男も彼女の死が私のせいだと思っているのだろうか。


「少し違います。私はとても楽しかったのです」

 右大弁の瞳に悪意はない。挑みもない。それは断言できる。

「彼女とあなたとこの私。加えてあの名人と音のわかる多少の者。幸せでした。あまりに幸せで、欠落を許せなくなっていたのです」

 憂いとせつなさを真面目さで包んだ右大弁はゆっくりと言の葉をつなぐ。

「失礼な仮定ですが、もしあなた様が楽から離れ桐壺の更衣が残ったとしても、まったく同じ選択をしたでしょう。私にとって楽とはあなたで、そしてあの更衣でした。切り離せるものではないのです」

 郷愁に満ちた瞳。そのまなざしは過去に注がれ、今をも先をも見ていない。


 風が吹き抜け、几帳の裾を払った。日差しはいまだ強いのに風はもはや秋をはらんでいる。

 長い間をおいて、私は声を漏らした。

「………………惜しいな」

 独り言めいた呟きに彼は答えず、頭を下げた。それが上がるのを待った。

「今後、いかに過ごすつもりだ」

 あれだけ楽に打ち込んでいた者がそれを手放すとなると大きな(うろ)を抱えることになるだろう。才あるこの男を無意味な者にしてしまうことが不満で尋ねた。

 右大弁はやはりまっすぐに前を見つめて答える。

「学問を究めようと思います。こうなる前は次善の興味しか持てないものでしたが、最愛の楽の遊びを失うのでしたら、これしかないと思い決めました」

 澄んだ瞳にはもはや過去の日の情熱ではなく、老成してゆく人の冷静な希望が宿っている。そういえば、学識も豊かといわれていた。

 過去は二度と戻らない。それがどんなに熱く、どんなに煌いて見えたとしても。


「わかった」

 簡潔に答え、しかし笛を返させた。何か言おうとするのを留め、こちらの思惑を述べた。

「後に受け取ろう。ただし一度だけ付き合え。時が来たら呼ぶ。それまでは音を鈍らせるな」

 彼は口元を引き締めてうなずいた。


 脇息にひじを付き掌の上に顎を乗せる。自分の話が出なくてがっかりしたのか乳母子はいつの間にか姿を消している。だが別の女房がそっと湯気のたつ椀を運んできた。

 茶の香りが心地よい。口に含むとわずかに気分がほぐれる。

「なかなかよろしい。主上にもお出しするように女官に伝えなさい」

「はい」

「医師によると目の覚める効果があるらしい。夜はお出ししないように」

「はい」

 食の細くなった彼もこれなら口にすることができるだろう。多少なりとも気が落ち着かれるといいのだが。


 それにしても主上は常軌を逸している。

 彼女の死を聞いた時から予想はできた。以前里に長期に戻っていた時のありさまからこの程度の状態にはなると推し量ることができた。

 だから手を打った。それが彼の怒りを煽ることはわかっていたが、悲嘆よりは怒りのほうが楽なはずだ。

――――あなたの心が軽くなるのなら、その方がいい

 傷ついた人にみえみえの逃げ道を用意すれば、ちゃんとそこに向かって走り他には行かない。


 けれど彼はそんな予定調和さえ嫌だったのだろう。何とか自分で考えて自分の心を慰めようとした。マズいやり方だったが。

 彼は死んだ桐壺の更衣に三位の位を送った。

 普通、更衣の身分は五位で四位さえ少ない。三位といえば女御の位だ。本当は女御に引き上げたかったのだろうが死んだ者をそうするわけには行かなかった。

 気持ちはわかる。しかしそれは道理が通らない。

 まず主上は恣意的に他者の地位を上げるべきではない。それは俗の役割だ。

 そのことを省いたとしても人の気持ちを荒立てる。急に死んだとしても送られないであろう更衣やその家族のことを考えたことがあるだろうか。

 かといって全ての更衣に送ることも財政を逼迫させ上下の区別の意味をなくす。

 つまり、特定個人の一人に送るべきではないのだ。

 更に言えば、帝の行為は先例として残る。つまり私的な情を注いだ相手を特別扱いしたことが後の世の規範となるのだ。

 怒りがこみ上げてくる。死んだ更衣に対してだ。あやつは勝手に死ぬことによって主上の立場を悪くしている。

 わが殿舎のあたりを人が行き交う時の頃なのに声を抑えることができなかった。


「死んだ後まで忌々しい女ッ!!」


 廊や馬道でこけた人もあったらしいが知ったことではない。道は気をつけて歩くべきだ。


 色々と考えているうちに、情けなくて涙が出そうになった。

 断じて、この言葉は更衣などにふさわしくない!

 いったい誰に見合った言葉なのか。

 むろんこの私であるッ。


 東宮時代から主上の愛情を一身に集めた私が、本来ならすでに中宮の位についていて子にも恵まれているが主上の気持ちはまったく揺るがない。

 ところが一見丈夫そうに見えた私だが、あまりの愛情の深さに心労が重なり、はかなく世を去ることとなる。

 主上は身も世もなく泣きくれる。悲嘆のあまり常軌を逸するほどに。

 それを見て後宮の女たちが歯噛みしながら叫ぶのだ。「死んだ後まで忌々しい女」と。

 これが本来の正しい言われ方だッ。

 怒りのあまり耳元で幻聴まで聞こえた。「ごめん」誰が許すかっ。


「………………休みます」

「え、もしかしてお加減が悪いのですか」

 女房の一人が信じられぬことを聞いたように慌てるがそれを抑えて「心が疲れただけです」と伝えて、昼日中から帳台の中に入り眠った。

 何かを忘れたいときは寝るのが一番だっ。


 夢も見ないほどの深い眠り。必要な時は起きて暮らしのあれこれをすませたが、深夜に到るまでかなりの時間を眠って過ごした。


 それを破ったのは外から響くかすかな板の軋みだった。

 私は身を起こし身なりを整えると、衣架に掛けてあった気に入りの小袿をはおった。

 この頃の夜は女房たちのほとんどを局に戻してある。廂の端にわずか二人いるにはいるがよく眠っていた。


 妻戸を開いて主上を迎えた。

 久しぶりにあう彼はひどくやせていた。私はその手を引いて帳台に連れて行った。彼は黙ったままそれに従った。


 誰も呼ばれないまま日がたっていた。それでも私は確信していた。いつかいらっしゃると。主上はあまりお心の強い方ではないのだ。

 幽鬼のような姿であるのに、あの冬の夜とは違い彼の手は温かかった。なのに今、瞳にはまるで光がない。凍てつくようなあの日さえ持っていた生命のほとばしりを感じない。巨大な虚だけが存在感を主張する。

 それでも彼の心の奥はあがいているのだ。

 桐壺の更衣は失われた。彼がどんなに悼んでもよみがえることはない。嘆いて嘆いて、そのこと自体にも辛くなっている。

 彼はまだ若い。そして健康だ。嘆くことに疲れてもいる。しかし心は暴走したままだ。


「寵愛する妃の急逝、さぞやお心をお痛めのことでしょう。お悔やみ申し上げます」

「…………あなたはいつだってひどく冷静ですね」

 主上は目をすがめて私を見、口もとを歪めた。

「そんなあなたにとって私はさぞやこっけいでしょう」

「いえ。ただ心配はしております」

「心配。ふうん、そうでしょうね。他の女のことでおかしくなっている私などは、あなたの輝かしき人生の汚点でしょうからね」

「そんなことはありません」

「いいんですよ、正直におっしゃっても」

 心底彼が気の毒になった。辛さのあまり攻撃的になってはいるが、もともと穏やかな方なのだ。


「気にくわなかったのでしょう、桐壺の更衣のことが。後見さえもない女が時めいていることが」

 完全に八つ当たりだ。あまりに痛ましくて黙ってその責めを負おうと思った。

「本当のことを言ってくださいよ! いじめていたんでしょう! あの人をいじめ殺したんでしょうっ」

「……………………」

 暗澹たる思いで彼を見た。こんなにやつれて、こんなに悲しんで。悪役を受けることで彼の気持ちが安らぐのならば、引き受けてやってもいい。そう思ってうなずこうとした瞬間、彼は次の叫びをあげた。


「みんなでいじめ殺したんだっ! 後宮の人たち全てでっ!!」


 思わず息を呑み彼を見つめた。

 彼はあまりに脆い。自分の心の重さに耐えられぬ程に。

 だから一度はその言葉を故意に見過ごそうとした。

 だが彼はそのまま続けた。


「あの人がうらやましくて妬ましくて、みんなで共謀して殺したんでしょうっ!!」


 それはひどく外した琴の音のように耳を打った。

 この言葉を聞き逃したかった。けれどそれははっきりと聞こえた。


 私の胸の内にとても下手な、だが温かい音が響いた。麗景殿の女御だ。次に技巧だけが際立つが魂のない音が流れ、すぐに熱と深さを加えて青く煌いた。あの更衣の音だ。無難だったり下手だったりする他の女たちの音も響いた。

 黙って彼を見つめ続けた。彼はそれに気づき、急に口ごもった。

 このまま何事もなかったかのようにふるまうこともできた。悪罵を全て受け止め彼の怒りを呑みこんでしまうこともできた。そうしたかった。

 だが私は弘徽殿の女御。後宮で一の位を誇り、他の者の範となり、後宮の平安を保つ義務のある女。それが世を司るということだ。

 その時脳裏をよぎったのは、あの宣耀殿前での騒ぎの時の麗景殿の女御の姿だ。

 添い臥しとして選ばれてここに君臨する私と違ってあの方にその義務はない。いや、私の義務も勝手に思い定めたものではあるが。

 なのに彼女は自分の恋敵をかばった。滝口を呼ぶこともなく秘密裏に事を運ぼうとした。

 彼女は子さえ持たない。そんな不利な立場であるのにとっさに他の女をかばったのだ。

――――ここで引くわけにはいかない


 苦笑を呑みこみ視線に力を込めた。脅える様が小兎のように愛らしい。

 それを見て私の瞳は潤み始めている。

 あなた。愛しいあなた。

 あなたが好きです。あなたが好きです。あなたが好きです。

 私はあなたが好きで好きで、どうしようもなくなってしまうほど好きです。

 それでも――――自分を曲げることはできません。


 潤みはついに涙と変わり、砕けた水晶のように辺りに散った。

「………………弘徽殿さん?」

 見せたこともない私の涙を見て、主上が心配そうに首をかしげた。

 この瞬間を長引かせたくって、まだしばらく黙っていた。

 口を開けば徹底してこの方を傷つけることになる。

 だからこの時が永遠に続けばいい。

 私が彼を傷つけず、彼が私を心底から憎んでいるわけではないこの時が。


「…………言い過ぎました。ねえ、弘徽殿さん、ごめ……」

「謝罪の言葉など不要です」

 低い声が出た。私の涙をぬぐおうとしてくれたその手がふいに止まった。

「あなたは帝なのですから下の者に謝る必要はありません。しかし間違った行動は正していただきたい」

 一瞬で凍ったかのように固まる彼に私は言葉を突きつけた。

「間違った、行動…………」

「そうです。あなたは本当にこの度のことが私たち後宮の女によってもたらされたとお思いなのですか。違います」

 彼の手は自分の元に戻された。もう二度と差し出されることはない。

 彼はその手を震えだした体に巻きつけて、信じられないというように私を見た。打たれることを予期しなかった子犬のように。

 胸が張り裂けそうに痛む。


「私の行動が間違っていたとおっしゃるのですか」

「そうです。あなたは間違っていらっしゃる」

 彼の瞳が私よりもよっぽど早く潤んでいく。涙がぽろぽろとこぼれた。

「私が、桐壺の更衣を愛したことが間違いだと言うのですかっ!!」

「違います。お心の内には誰も踏み込めません。私が言うのは表面のふるまい方だけです。形だけは取り繕って順位に応じた招き方をするべきだったのです」

「そんな…………」

 彼は怒りをあらわにした。

「できるわけがないでしょうっ。私はあの人を最も愛しているのですよっ!」


…………わかっていたことだが、はっきりと言われるとさすがにこたえる。

 だが私は眉一つ動かさずに彼を見つめ返す。


「庶民はそれでよろしい。しかしあなたは帝なのです」

「だからったって素直な気持ちで人を愛して悪いわけがないっ」

「ですから、それはかまいません。しかしその様を他者に見せつけてはなりません」

「あなたはっ、自分が一の位だからっ、自分を重んじよと言葉を変えて言っているだけじゃありませんかっ!」


 見くびられたものだな。この弘徽殿の女御も。

 自嘲の苦味を全身に感じながらも口もとをわずかに歪めた。途端に彼は少し後ずさった。

「そうお思いになりたいのならかまいません」

 それであなたの心がいくらかでも軽くなるのなら。


 彼は少し途惑い、救いを求めるように私を見た。

 私は彼を救いたかった。或いは癒しとなりたかった。

 けれど互いに伸ばした手は触れ合うこともなく、己の中の別のものを握り締めていた。

 彼は桐壺の更衣の思い出を守り、私は後宮の女の立場を守った。


 あの時、彼の謝罪を受け入れていたらといつまでも夢を見る。

 しかし誇りを捨て媚態を見せる女は私ではない。

 我を張り、かどかどしい女。それが弘徽殿の女御だ。

 惚れた殿御を守るは女子の本懐。されどそれ以上に守るべきものも更衣ならぬ私にはあるはずだ。


「…………わかりました。今後は気をつけて順位どおりに人を呼ぶことに致します………………心の内はともかくとして」

「そうしていただけると助かります。他の者の気持ちが落ち着くので」

 私が愛されないのは私に魅力がないからではない、身分が足りないからだ。わが娘の寵が薄いのは我の身分が足りないからだ。人々はそう言い訳することができる。最上位にいる私以外の者たちは。


 あなたはおわかりにならないでしょうね。最愛であるべき位置を占めながら、そうあることができなかった女の心など。それがどんなにみじめなことか。

 いや、それは愚痴に過ぎない。これだけ傷ついている方に求めることではない。

 私にできることはしゃんと首を伸ばして、傷つくことなど絶対にない女としてふるまって彼の怒りを全て受けとめる事だけだ。


「…………お帰りになる。よくお守りするように」

 部屋の隅に声をかけると、すでに目覚めて控えていた女房たちが立ち上がり、紙燭に火を灯した。

 主上はうなだれていた。肩の線がひどく細く見え、後ろから抱きしめて暖めてあげたかった。

 だが私はそうはせず、ただ小袿を脱いで彼にはおらせた。

「夜風は冷えます」

「はい」

 もはや抗うこともなく素直に答え、部屋を出て行く。

 妻戸をくぐるとき首を回して振り返りかけて途中でそれをやめた。

 その方がよかった。声だけは立てなかったがまた泣いている姿を見られたくなかったから。

 やがて彼の背は完全に消え、殿舎に人の気配はなくなった。



 打ち合わせたいことがあって源典侍を呼んだ。相変わらず年以上に若々しい姿だ。衣装も華やかだが持っていた扇もすさまじく派手だ。極めて濃い赤の地に小高き森の様が描かれている。

 地の色に見覚えがあったので目を留めると、袖で口元を隠して笑い、扇を私の方に差し出した。

「女御さまにいただいた品をこのように整えさせていただきました。さすがに気恥ずかしくて文字は自分で書きましたが」

 どうりで記憶にあるはずだ。少し古風だが悪くない風情の字で「森の下草老いぬれば」と書いてある。

「………………」

「何をお書きになりますのやら。引き手あまたでいらっしゃいますのに」

 近くの女房がすぐにフォローする。私も息を呑みこみそれに続けた。

「そのお若さならば五年後、いや十年後でも充分に通用しましょうに。手の者にしっかりと伝えておきます。あなたの扇が古びたならば、後々までも用意するようにと」

「あらまあ。ありがとうございます」

 嬉しそうに受ける彼女を見て確信した。本気で十年後も頑張るつもりに違いない。

 彼女を見送るために立ち上がった女房の中に乳母子がいたので焦ったが、普通ににこやかだったので安堵した。


「…………何か顔についていますか」

 思わず、戻ってきた彼女をしげしげと眺めていたら不思議そうに尋ねられた。

「いえ。もう彼女のことは許したのですか」

「今ではむしろ感謝しています。おかげで最高の恋人を得ることができたわけですから」

「?!」

「わたくし、結婚します!!」

 青ざめて固まる私とは逆に部屋の者たちは活気付き、口々に祝いを述べている。男を通わせる者は多いが、正式な婚姻となると周囲の扱いは違う。しかしこの場合は…………

「親元の承諾は得ましたか」

「いえ、これからです。でも反対されるとは思いません。それに誰よりも先に女御さまにご報告しようと思って」

 幸せそうな彼女に私は更に青くなる。

「相手は了承しているのですか」

「もちろんですとも」

 どういえば傷つけずに誤解を解くことができるだろうか。

「しかし、右大弁は……」

 おそるおそる小声を出した私に、彼女は明るい笑顔を見せた。

「あら、違います女御さま。あの方ではありません」

 乳母子は某朝臣の名をあげた。とたんに肩の荷が降りた。心を込めて祝福する。


「求愛されたけれど悩んでいたんです。わたしにとってアナタは最高級の黄牛(あめうし)です、とか(ひさし)のついた青糸毛の車にも似たその気高さ、とか納得いかない文をくださるので」

 にこにこと彼女は続ける、

「そんな頃に右大弁の心を伝え聞いてその気になりかけたのですが、こちらにいらしたあの方の話を聞いてその気持ちはきれいさっぱりなくなりました」

「なぜですか」

 彼女はまっすぐに私を見た。

「いくら亡くなって気の毒とはいえ、女御さまとあの更衣を並べ称したのが気に入りません。そんな方はこちらから願い下げです」

 ちょっと意表をつかれて彼女を見返す。乳母子は私の手を取った。

「ずっと女御さまにお仕えすることを条件に承諾しました。相手も快諾してくれました」

 彼女の手を握り返す。失った温もりもあれば失わずにすむ温もりもある。それだけでも恵まれている。

「お母さま」

 乳母共に主上のもとへいっていた息子も戻ってきた。私は傍にいてやることもできるのだ。

――――けれど……

 言葉を呑みこんで身近な者にうなずいて見せた。



 嵐のような風が吹き、急に肌寒くなった。

 その日の夕暮れの月はひどく美しく、楽の音を誘ってやまなかった。

 靭負(ゆげい)の命婦が何か用を承って内裏を立つのを見かけた頃合に、一人、また一人と弘徽殿に人が集まる。

 主上に特に忠実な殿上人を除いてかなりの者が伺候した。

 月があまりに綺麗だからと管弦の用意を命じた。

 周りの女房が顔を見合わせて、それから恐る恐る口をきいた。


「あの……更衣のことはかまいませんが、さすがに主上のお気持ちを思いますと」

「これほど大がかりな遊びでしたらかなり音が響きます」

「ふん」

 私は肩をそびやかす。

「たかだが格下の女が一人消えただけのこと。それも法事も終わっているというのに、この私が何を遠慮することがありましょう」

「ですが…」

「さっさと用意しなさい」


 そそくさと、彼女たちは楽器を運んできた。

 集まった者たちにそれぞれを割り振る。そこへ同輩を一人伴った源典侍が困ったような顔で現れた。

「お召しにて参上いたしましたが、主上のもとに仕える私どもはこの度はお許しいただきとうございます」

「ならぬ」

 あっさりと否定すると何度か固辞する。私はしぶしぶ譲歩してみせる。

「わかりました。片方だけ戻りなさい。そうして一人は預かると他の主上の女房に伝えなさい」

「はあ」

 彼女たちは互いに顔を見合わせる。有無を言わさず決め付けた。

「以前も合わせたことがあるので源典侍に残ってもらいたい」

 気の毒そうな顔で女官の一人が戻っていった。源典侍の顔が緩んだ。


 集まった者たちに強く求める。

「湿っぽい音など立てるな。華やかに奏しなさい」

 自ら先陣を切って合わせの音を立てる。

 ふむ、悪くない音色だ。


 右大弁の笛の音が響いた。明るく澄んだ音だ。

 名人のひちりきも、一見素朴だが実は高度な洗練をみせて律を運ぶ。

 私の琴の琴も前栽の白萩を思わせて澄んだ音を聞かせる。

 源典侍の琵琶も冴えわたる。

 他の女御・更衣は呼んでいない。責められるのは私だけでいい。

 代わりにこれと見込んだ男たちが音を合わせる。 


 この音は清涼殿まで届くだろう。

 多分、主上は遅くまで眠らない。

 ぐずぐずと身近な女房と語り合っているに違いない。

 あの更衣のことを。


 馬鹿げている。

 どんなに語ろうが、死んだ者は帰らぬ。

 主上がめそめそと嘆けば、中空にいるあの女が満たされるとでも言うのか。

 私は一際大きく、音を奏でた。


 常の秋だったら、この夜は管弦の遊びのためにあったはずだ。

 その場にはあの女がいたであろう。そして琴の琴を奏してていたはずだ。

 真の天才であるこの私には及びもつかないが、ある程度は弾けたはずと認めてやろう。

 音を音として愉しみ、月に合わせて、花や風の匂いを取り込んで奏でることができる者は妃の中では私と、それより大分劣るがあの女の二人だけだった。


「和琴を」


 琴の琴が下げられ、望んだものが前に置かれる。

 奏でる前に清涼殿の方角に目をやる。そこからは何の音もしない。

 凍ったような無音のその場所に、私はわざと音を流す。


 心の内で主上に呼びかけてみる。

 あなたの愛したその女は、自分の死を嘆くことだけを望む者だったのか。

 音も立てずに静かに過ごす、そんな通俗を求めていたのか。

 楽を愛し、月を楽しむ、そんな女ではなかったのか。


 更衣よ、私はおまえが大嫌いだ。

 今までもそうだし、これからも憎む。

 だが、この一曲だけ、この一曲だけはおまえのために弾いてやる。


 たぶん主上は私が嫌がらせとして奏でると思うだろう。

 そう思われてもかまわない。

 だが、この一曲だけは私はおまえだ。


 月は西の端に消えた。

 その光は残らない。

 私は黙って涼しい響きの想夫恋を奏でた。



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