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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第九十六章 母が席を立つ日



 母が初めて国務会議を休んだ朝、律は、午後には戻るものと思っていた。


 発熱は高くなかった。


 主治医の説明も、慎重ではあったが、切迫したものではなかった。


「数日は、お休みいただきたい」


 その数日が、十日になった。


 会議の書類は寝室へ運ばれ、やがて、その数も減った。


 母は苦情を言わなかった。


 それが、律には気がかりだった。


     


 寝室の窓は、北へ向いていた。


 遠くを列車が通る。


 母は、その音をよく聞いていた。


「今日は、貨物が多いのね」


 律が訪ねると、窓の外を見たまま言った。


「港から、工作機械が届いています」


「新しい工場の?」


「はい。自動車の部品を作る方です」


 母は頷いた。


「見に行った?」


「先週」


「どうだった」


「広いです。機械の間を、運搬用の車が通れる。以前の工場のように、材料を人が抱えて回らなくて済みます」


「働く人は、楽になる?」


 律は椅子へ座った。


「運ぶ仕事は減ります。ただ、決められた速さで組み立てるので、止まりにくくなったと聞きました」


「機械が?」


「人が」


 母は彼を見た。


 少しして、小さく頷いた。


「また、聞きに行って」


「はい」


 机上には、会社の新しい便箋が置かれていた。


 Holly Olive Corporation。


 母はその文字を指でなぞった。


「正式になったのね」


「登記が済みました」


「長い名前」


「柊だけでは、読めない人が多いので」


「この字を残したのは、あなたらしいわ」


 彼女は、葉の印の中央にある〈柊〉を見た。


「会社の印よね」


「はい」


「国の命令書には、もう使わない」


「新しいものには」


 母は便箋を戻した。


「それでいいわ」


     


 アンナとの結婚式は、その春に済ませていた。


 宮廷は大きな儀礼を用意しようとしたが、二人は断った。


 それでも、簡素という言葉の意味を決めるだけで、何度も会議が必要になった。


 客を減らせば、招かれなかった親族が怒った。


 外国の使節を招かなければ、軽んじられたと受け取られる。


 アンナは名簿を見て、律へ言った。


「私たち、結婚する前に人間関係が悪くなっていくわね」


 律は笑えず、彼女だけが笑った。


 式の日、母は最後まで出席した。


 祝辞は短かった。


「二人とも、相手を自分の味方だと決めつけすぎないように」


 客席に、戸惑った笑いが起きた。


 アンナは笑わなかった。


 母へ向かって、深く頷いた。


 その姿を、律は今も覚えていた。


     


 結婚してからも、アンナは新聞社へ通っていた。


 姓は変えなかった。


 宮廷の暮らしには、なかなか慣れなかった。


 ある晩、律が部屋へ戻ると、彼女は自分で湯を沸かしていた。


「頼めば、持ってきてもらえるのに」


「頼むと、三人くらい来るでしょう」


「一人で済むよう、伝える」


「お茶を飲みたいだけなのよ」


 律は上着を脱いだ。


 机の上に、書きかけの原稿がある。


 彼女はそれを裏返した。


 律も覗かなかった。


「陛下は?」


「少し、食べた」


 アンナが手を止めた。


「それは、よかった」


 彼は椅子へ座り、顔を覆った。


 疲れたと言うつもりだった。


 だが、別の言葉が出た。


「母がいなくなったら、本当に始まる」


 アンナは黙って隣へ座った。


 基本法は成立した。


 移行の準備も進んでいる。


 それでも、国の頂点には、まだ母がいた。


 難しい争いが起きれば、最後には彼女へ尋ねられた。


 その席が空いたとき、誰も座らせない。


 律自身が、それを決める側にいた。


「怖い」


 彼は言った。


 アンナは彼の手を取った。


「ええ」


「君も?」


「怖いわ。あなたが、全部を自分の責任にしそうで」


 律は顔を上げた。


 彼女は、その頬へ触れた。


「一人で決めないために、ここまで変えてきたのでしょう」


 彼は頷いた。


 アンナの手を握り、しばらく離さなかった。


     


 母は、CHUYUとの通話を望んだ。


 地下へ降りる体力が戻るのを待つより、寝室へ音声を繋ぐことになった。


 技師たちは慎重だった。


 新たな接続で中枢へ負担をかけないよう、既存の電話設備を介して声だけを送る。


 試験は二度、失敗した。


 三度目に、寝台の脇の器具から声がした。


「澪。聞こえる?」


 母は目を閉じた。


「ええ」


「少し、音が遠い」


「こちらもよ」


「疲れるなら、短くする」


「今日は、少し長く話したいわ」


 律は立ち上がった。


 母が彼を見た。


「いてもいいのよ」


「あとで、また来ます」


 彼は扉へ向かった。


 背後で、母の声がした。


「私、あの列車に乗った日のことを、まだよく覚えているの」


 律は足を止めなかった。


 扉を閉め、廊下へ出た。


 母には、自分が知らないままでよい時間もある。


 そう思えるようになるまで、ずいぶんかかった。


     


 数日後、母は律を呼び、手紙を一通渡した。


 宛名はなかった。


「私がいなくなってから、読んで」


 律は受け取らなかった。


「母上」


「そんな顔をしないで。私が読んで聞かせると、途中で言い直してしまうから」


 彼女は枕元へ手紙を置いた。


「それから、葬儀のこと」


「今、決めなくても」


「今なら、私の希望を聞けるでしょう」


 律は黙った。


「私の死を理由に、継承法を戻そうとする人がいるわ」


 母は言った。


「準備が足りない。国が揺れる。今だけでいいから、お前が座れと」


 彼は母を見た。


「断ります」


「そのとき、私が本当は望んでいたと言われるかもしれない」


「母上が決めた法です」


「そういうとき、人は、紙に書いていない願いを持ち出すの」


 母は少し息を整えた。


「私は、お前に継いでほしいと思っていたわ。長いあいだ」


 律の喉が詰まった。


「今も、寂しくないわけではない」


 彼女は彼へ手を伸ばした。


 律は寝台のそばへ椅子を寄せ、その手を取った。


「でも、戻さないで」


 母の指が、弱く彼の手を握った。


「私たちが決めたところまで、進んで」


     


 母が亡くなったのは、雨の朝だった。


 夜のあいだ、律とアンナは隣室にいた。


 医師に呼ばれて入ると、母の呼吸は浅くなっていた。


 律が名を呼ぶと、目が少し動いた。


 聞こえていたのかは、分からない。


 彼は手を握った。


「ここにいます」


 母は答えなかった。


 アンナが、反対側から寝具を整えた。


 窓の外で、列車の音がした。


 律は母の顔を見ていた。


 医師が時計を確かめた。


 その仕草で、彼は何が起きたかを理解した。


 すぐには手を離せなかった。


 誰も、離すようには言わなかった。


     


 その日の午後、宮殿へ人が集まった。


 閣僚。


 軍の幹部。


 地方の代表。


 親族。


 弔意を述べたあとで、彼らは次の話をした。


 移行機関の発足。


 軍の指揮。


 国庫の支払い。


 そして、皇位。


「国民は、殿下のお姿を求めております」


 年老いた重臣が言った。


「戴冠をなさらずとも、暫定的に君主として――」


「その役は、基本法にありません」


 律は答えた。


「ですが、陛下がお亡くなりになった今こそ、柔軟に」


 卓上には、母の死を告げる布告があった。


 律は、その紙を見た。


 まだ、母の部屋へ戻りたかった。


 枕元の手紙を読みたかった。


 この場で正しい声を出す力が、自分に残っているとは思えなかった。


 それでも、彼は顔を上げた。


「移行機関を、予定通り発足させます」


 親族の一人が、低く言った。


「母上の葬儀の日程も決まらぬうちに、家を終わらせるのか」


 律は相手を見た。


「葬儀を、継承の儀式にはしません」


 その言葉で、部屋の何人かが、はっきりと彼から目を逸らした。


     


 葬儀の日、王冠は棺のそばに置かれた。


 母が生前に定めた通り、誰の頭にも載せられなかった。


 律は黒い服で立っていた。


 隣にアンナがいた。


 列の向こうに、工事の移転先から来た人々の姿があった。


 病院の者も、工場の代表もいた。


 エミルは、母親と並んでいた。


 彼は今、工場の事務所で事故記録の整理を手伝っている。


 右手に持った帽子を、胸の前へ寄せていた。


 律は彼と目を合わせ、わずかに頭を下げた。


 母を悼む人々は、同じ理由で来たのではなかった。


 救われた人。


 傷ついた人。


 その両方を抱えている人。


 誰かを外せば、母の人生は、また別のものに書き換えられてしまう。


 律は棺へ向き直った。


     


 夜、ようやく二人きりになると、アンナが彼の襟元を緩めた。


 律は椅子に座ったまま、動かなかった。


「お水を飲む?」


 彼は首を横に振った。


 アンナはそばにしゃがんだ。


「律」


 その名を聞いて、彼の顔が崩れた。


「母が」


 そこまで言って、続かなかった。


 アンナは何も尋ねず、彼を抱いた。


 律は彼女の肩へ顔を伏せた。


 会議では出なかった涙が、止まらなくなった。


 彼女の服を濡らしていることが分かっても、身体を離せなかった。


「もう、聞けない」


 彼は言った。


「何を考えていたのか。あのとき、どうしてああしたのか。まだ、聞いていないことがある」


「ええ」


「怒っていたのに」


 アンナの腕に、少し力が入った。


「怒っていても、会いたかったのね」


 律は頷いた。


 彼女はその髪へ頬を寄せた。


 窓の外の街は、いつもと同じように灯っていた。


     


 手紙を読んだのは、翌朝だった。


 母の字は、最後まで乱れていなかった。


〈律へ。


 あなたに残せるものを考えたけれど、たいていのものは、もう書類にしてしまいました。


 ですから、これは母として書きます。


 私を誇りに思った日を、恥じないでください。

 私を許せなかった日も、消さないでください。


 あなたが見つけたことは、私が生きた時間の一部です。

 私を愛していたからといって、それを小さくしなくていい。


 アンナさんと、食事をしてください。

 あなたは考え事をすると、すぐ食べなくなります。


 王冠の代わりに、何でも背負おうとしないこと。


 母より。〉


 律は最後の一行を、何度も読んだ。


 机の端には、会社の書類が届いていた。


 海外の銀行との契約。


 新しい貨物船の発注。


 親族が求める議決権の再配分。


 彼は、それらを少し脇へ寄せた。


     


 移行期間の最初の会議に、律は傍聴人として出席した。


 議長席には、選ばれた別の人が座っていた。


 予算案をめぐって、早くも怒鳴り声が上がった。


 地方の代表が机を叩いた。


 都市の議員が、数字が違うと叫んだ。


 進行は遅く、同じ説明が繰り返された。


 律は何度も、口を出しかけた。


 隣にいた法務官が、小さく言った。


「ご発言を求められては、おりません」


 律は口を閉じた。


 しばらくして、議長が休憩を宣言した。


 何も決まらなかった。


 それでも、誰も律へ裁可を求めに来なかった。


 彼は席を立ち、廊下の窓を開けた。


 冷たい風が入った。


     


 その夕方、研究所では、CHUYUが古い測定表を読み上げていた。


 善一AIが、空一郎の転送記録から、対応する箇所を探している。


 律が入ると、二つの声が止まった。


「続けてください」


 彼は言った。


 机上には、坑道の壁に刻まれた印の写しがあった。


 その一つに、細い線で囲みがついていた。


「何か、分かったのですか」


「可能性が一つ」


 CHUYUが答えた。


「この印、文字だとは限らない」


 善一AIが続けた。


「空一郎の転送記録にある補正図と、構造が似ている。まだ、同じものとは言えん」


 律は椅子へ座った。


 窓のない地下室で、冷却水が静かに流れていた。


「確かめるには?」


「現地の測定を、やり直したい」


 律は机上の紙を見た。


 母の時代を終えるための書類ではなかった。


 自分たちの知らない家族へ、続いているかもしれない記録だった。


「調査隊の計画を作りましょう」


 彼は言った。


 そのとき、扉が開いた。


 アンナが包みを持って立っていた。


「その前に、食事」


 律は顔を上げた。


 彼女は机の空いたところへ、二人分のパンを置いた。


 少し迷ってから、律は帳面を閉じた。

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