第九十五章 継がないという約束
暫定会計規則が公布されてから、四度目の冬が来た。
宮殿の庭では、灯りが半分になっていた。
最初の年、評議会で宮廷費が審議されたとき、新聞はその数を面白がった。
〈女帝の庭、夜は少し暗く〉
母は記事を読み、笑った。
「道が見えれば、十分よ」
だが、すべてがその程度で済んだわけではなかった。
国と王室、王室と事業の間で、どちらが引き受けるべきか決まらない負債が残った。
親族からは訴えが出た。
評議会では、会社へ渡した土地を返せという声が上がった。
新しい会計の仕組みは、隠れていた不満に、初めて宛先を与えた。
律は、その宛先の一つになった。
都市の音は、四年前より複雑になっていた。
駅前では、貨物自動車が荷馬車と道を分け合っている。
工場では、天井の軸から垂れ下がっていた革帯が、少しずつ姿を消した。電動機を据えた機械は、材料を運びやすい順に並べ替えられた。
生産は増えた。
事故の種類も変わった。
古い革帯に巻かれる代わりに、止まったと思っていた機械が動き出す事故が起きた。電気を切ったことを確かめる手順が、工場の壁に掲げられるようになった。
港には、鋼鉄の船が増えた。
荷揚げの設備が夜も動き、岸壁の近くには新しい酒場と下宿が建った。
新聞社と宮殿の間には、電話が通った。
アンナは最初の通話で、こう言った。
「これで、遅刻の言い訳がすぐ聞けるわね」
律は受話器を持ったまま笑った。
ところが、二人が電話で話す時間は、それほど増えなかった。
交換手を経て繋がる声の向こうに、いつも誰かがいる気がした。
大切な話は、結局、会ってした。
ある夕方、アンナは律の部屋で、机の上の紙を読んでいた。
彼女が宮殿を訪れることは、もう珍しくなかった。
それでも、記者として持ち込む質問と、私的な訪問は区別した。質問状は広報官へ送り、その回答を律へ先に聞くことはなかった。
今日、彼女が読んでいる紙は、記事の資料ではなかった。
律が、自分から渡したものだった。
「いつ、決めたの?」
アンナが尋ねた。
「一度にではない」
「陛下には?」
「明日、話す」
彼女は紙を机へ戻した。
そこには、皇位継承に関する意見書と書かれていた。
律は窓際に立っていた。
「僕が辞退するだけでは、次の人へ移る」
「そうね」
「親族の誰かが継いで、その子へ渡す。それで終わる」
アンナは立ち上がった。
「だから、世襲そのものを?」
「終える案を、評議会で議論してほしい」
彼女はしばらく彼を見つめた。
「あなたが、王冠を欲しがっていないことは知っていたわ」
「うん」
「でも、欲しくないから手放すことと、ほかの人にも渡さない仕組みにすることは、違う」
「分かっているつもりだ」
「嫌われるわ」
律は頷いた。
「もう、かなり」
「これからは、戻せと言われる。あなた自身が苦しくなったときにも」
彼は窓の外を見た。
庭の向こうに、街の灯りが続いていた。
「君は、反対?」
「決めるのは、私ではない」
アンナは彼の前へ来た。
「でも、あなたが何を失うのか、曖昧にしたまま賛成はできない」
「王冠と、家の何人かの信頼」
「それだけ?」
律は答えなかった。
アンナが彼の手を取った。
「お母様のあとを継げば、何か埋められると思っていた部分もあるでしょう」
彼は目を閉じた。
母が孤独だったことを、知っている。
その椅子へ自分が座れば、母の人生を肯定できるような気がしていた。
「ある」
彼は答えた。
「それも、失うと思う」
アンナは手を離さなかった。
翌朝、母は意見書を最後まで読んだ。
途中で、一度だけ茶を飲んだ。
律は向かいに座り、待った。
「私の退位を求めるものではないのね」
「はい」
「私が死んだあと、継承を行わず、移行期間を設ける」
「その間に、選挙の方法と、新しい統治の仕組みを決める案です」
母は頁を戻した。
「評議会も、このままでは使えないわね」
「財産を持つ者に偏っています。貴族の議席も、見直す必要があります」
「軍の宣誓は?」
「国と法へ変える」
「裁判官は、誰が任命する?」
「複数の機関が関わる案を、法務官と検討しています」
母は次々に尋ねた。
律が答えられない箇所もあった。
そのたびに、彼女は紙の余白へ印をつけた。
長い沈黙のあと、母は筆を置いた。
「私の仕事を、終わらせるのね」
律は息を呑んだ。
「母上の仕事を、否定したいのではありません」
「分かっているわ」
母は彼を見た。
「でも、私が築いたものを、そのまま受け取らないと言っている」
「はい」
その返事をするまでに、時間がかかった。
母は背もたれへ身体を預けた。
以前より、細くなっていた。
長い会議のあとには、手が冷えるようになった。
「あなたが幼いころ、私の席へ座りたがったことがあるの」
母が言った。
「覚えています」
「座らせたら、足が床へ届かなかった」
「母上が、踏み台を持ってこさせた」
母は微笑んだ。
「あのときは、それで済んだのね」
律も少し笑った。
だが、母の目には涙が浮かんでいた。
「少し、時間をちょうだい」
彼は頷いた。
母が彼の前で、答えを出さずにいてくれたことを、律は長く覚えていることになる。
意見書が公になった日、親族会議は紛糾した。
「お前一人のものではない!」
卓を叩いたのは、かつて律へ乗馬を教えた分家の男だった。
「辞退したければ、辞退すればいい。ほかの者の権利まで、なぜ奪う」
律は男を見た。
「生まれた家によって、国を治める権利が決まることを、変えたいのです」
「その家に生まれたから、今、お前はここで話している!」
「はい」
律は答えた。
「だから、その立場を使って、最後まで守ることもできる」
男の顔が赤くなった。
「誰に、こんなことを吹き込まれた」
「僕が決めました」
「新聞記者と暮らしたいだけではないのか」
律の隣で、書記の筆が止まった。
彼はゆっくり息を吸った。
「アンナと暮らしたいと思っています」
部屋が静かになった。
「でも、そのためだけなら、僕が辞退すれば済みます」
男は椅子を蹴るように立った。
「後悔するぞ」
律は立ち上がらなかった。
扉が閉まったあと、誰かが小さく言った。
「会社の議決権まで、譲るつもりなのですか」
律はその声の方を見た。
王冠を置く話は、もう次の争いへ繋がっていた。
それからの一年は、長かった。
改革案は一度否決された。
二度目は、貴族の議席を残す修正を受けた。
都市の代表は、農村の選挙区が広すぎると訴え、地方の代表は、人口だけで決めれば首都に支配されると反論した。
新聞には毎日、違う案が載った。
律への支持も、批判もあった。
母の治水事業を調べる委員会は、その間も報告を続けた。
失われた命と、救われた土地の記録が、同じ冊子へ収められた。
女神の鉄槌についても、兄弟の争いについても、原記録の公開が始まった。
CHUYUの応答は、証拠の一部として扱われた。
彼女の記憶だけで、結論を決めなかった。
善一AIの助言も、採用した理由と、退けた理由を残した。
家史は書き直された。
古い版は、回収しなかった。
どこが変わったのか分かるように、並べて置かれた。
改革の基本法が可決されたのは、春の終わりだった。
母の在位は続ける。
ただし、新たな皇位継承は行わない。
母の死後、期限を定めた移行機関が権限を引き継ぎ、拡大された選挙によって選ばれる議会のもとで、共和制へ移る。
皇室と貴族の政治的特権は、段階を定めて廃止する。
国の名に〈帝国〉を残すかどうかは、なお議論が続いていた。
可決の知らせを聞いたとき、律は歓声を上げなかった。
母の隣へ座った。
彼女は窓の外を見ていた。
「これで、決まったのね」
「はい」
「まだ、変わるわ。細かなところは」
「そう思います」
母は頷いた。
それから、彼の襟元へ手を伸ばした。
柊の葉の印が、少し傾いていた。
指先で直す。
幼いころから、何度もされた仕草だった。
「あなたは、私より自由に生きて」
律は母の手を取った。
「母上も」
彼女は笑った。
「私は、これから練習するわ」
その夜、律はアンナの部屋へ行った。
彼女は机で原稿を書いていた。
「可決、おめでとう、と言っていいのかしら」
「少し、待ってほしい」
「ええ」
アンナはペンを置いた。
律は外套を脱ぎ、椅子へ掛けた。
彼女の部屋では、誰もそれを受け取りに来ない。
そのことが、今日は嬉しかった。
「家の会議で、君と暮らしたいと言った」
アンナは目を上げた。
「そう。先に親族へ?」
「怒られて、つい」
「ひどい求婚ね」
「まだ、君には何も聞いていない」
彼女は椅子から立った。
「では、聞いて」
律は笑いかけた。
けれど、声を出すまでに少し時間がかかった。
「僕と、暮らしてくれる?」
アンナは彼の前で立ち止まった。
「記事は、書くわ」
「知っている」
「会社のことも」
「うん」
「あなたが、嫌な顔をしても」
律は彼女の手を取った。
「すると思う」
アンナは笑った。
「ええ。私も、困ると思う」
彼はその笑顔を見つめた。
「それでも?」
「それでも」
彼女の腕が、彼の首へ回った。
口づけると、律はようやく肩の力を抜いた。
アンナが額を彼の胸へ寄せる。
「今日は、帰らないで」
彼は彼女を抱きしめた。
「帰らない」
窓の外では、遅い電車が橋を渡っていた。
二人はその音が消えるまで、抱き合っていた。
翌朝、研究所へ届いた書類には、新しい事業組織の案が綴じられていた。
皇室の財産から分離された企業群を、一つの持株会社のもとへまとめる。
名称案の下に、律の筆跡があった。
Holly Olive Corporation。
柊の葉と、古い文字の〈柊〉を組み合わせた印は、そのまま残す。
ただし、その印を持つことによって、議席も、免税も、統治の権利も与えられない。
CHUYUが書面の読み上げを聞き終えると、善一AIが尋ねた。
「それで、会社は小さくなるのか」
律は首を横に振り、すぐに言葉を添えた。
「いいえ。むしろ、資金を集めやすくなります。外国の投資家も、参加できる」
「国境を越えて?」
「はい」
部屋の隅で、電話のベルが鳴った。
港の事業所からだった。
新しい航路の契約について、今日中に返事がほしいという。
律は受話器を取った。
相手が話す金額は、地方政府の一年の予算より大きかった。
彼は、机上の新しい社章を見た。
王冠はなくなる。
だが、この電話を受ける者の判断で、遠い港の仕事が増え、ある町の職人が仕事を失うかもしれない。
「契約書を送ってください」
律は言った。
「現地の条件も。数字だけでは、決められません」
その晩、研究所では、二つの声が古い測定記録を読み続けていた。
炭鉱の地下で採られた値。
空一郎の転送記録。
同じ単位とは限らない数字を、変換し、並べ直す。
まだ、何も開かなかった。
CHUYUが、記録の端にある小さな印を示した。
「ここ。前にも、あった」
善一AIは、返事までに長い時間をかけた。
「似ているだけかもしれん」
「ええ」
「元の記録を、もう一度」
壁の向こうでは、発電機が一定の速さで回っていた。
机の上に、もう一枚の古い紙が広げられた。




