第九十四章 三つの財布
最初に反対したのは、王室会計官だった。
「分けること自体には、異存ございません」
彼はそう言いながら、卓上へ厚い帳簿を置いた。
「ただし、この冬の支払いを終えてからにしていただきたい」
続いて、国庫の出納官が口を開いた。
「国としては、春までにお願いいたします。河川工事の立替金を精算しなければ、次の予算が組めません」
事業評議会の代表は、二人の顔を見比べた。
「会社には、船の建造費がございます。今、まとまった現金を引かれますと、造船所への支払いが遅れます」
律は三人を見た。
誰も、分けることに反対はしていなかった。
誰も、今は分けたくなかった。
法務官が、静かに筆を置いた。
「では、最初に支払いの一覧を作りましょう」
母は窓際の席で聞いていた。
「その一覧にも、支払う人の名前を入れて」
会計官が頷いた。
「もちろんでございます。取引先ごとに――」
「取引先だけではなく、給料と年金も」
母は言った。
「線を引くあいだに、誰が食べられなくなるのか分かるように」
律は帳面を開いた。
自分が地下で書いた一行と、同じことだった。
三つの会計から、それぞれ書記が出された。
同じ支出を並べるだけで、何日もかかった。
ある橋は、国が建設を命じ、王室が費用を融通し、柊家の鉄道部門が管理していた。
ある港では、税で浚渫を行い、会社が倉庫を建て、利用料の一部を地方領主へ払っていた。
皇室領の森から切り出された材木が、宮殿の修繕にも、造船所にも運ばれている。だが、材木を運ぶ道路の補修費は、国庫から出ていた。
「この荷車は?」
律が指した伝票を、書記が覗き込んだ。
「宮殿への薪の運搬です」
「会社の車ですね」
「はい。帰りに工場の部品を積んでいます」
「費用は、どちらへ?」
書記は、別の帳簿を探した。
その日、答えは見つからなかった。
律は夕方になると、目の奥が痛んだ。
大きな不正が一つ隠れているのだと思っていた。
実際には、何十年も続いた小さな融通が、互いに絡み合っていた。
その中に、助け合いもあった。
怠慢もあった。
都合よく相手に払わせたものもあった。
どれも同じ紙の上に載っている。
十日目、会計官が古い給与台帳を持ってきた。
「王室から支払っている扶助費です」
律は頁を開いた。
退職した庭師。
負傷した御者。
亡くなった侍従の妻。
工事中の事故で死んだ職人の家族もいた。
「なぜ、工事局ではなく王室から?」
「陛下が、お知りになって支給をお命じになったためです」
会計官は母の方を見た。
母は台帳を受け取り、名を追った。
「この人は、今も同じ家に?」
「昨年、娘のもとへ移ったとの届けがございます」
「支払いは続いているのね」
「はい」
母は台帳を律へ返した。
「ここを国へ移すなら、手続きを理由に止めないで」
「分かっています」
「それから、私が死んだら終わるものだと、受け取る側が思っている場合もある。説明が必要よ」
律は母を見た。
「そういう決まりなのですか」
「いいえ。ただ、私が出すように命じたものだから」
会計官が小さく頷いた。
「陛下のお心遣いへの礼状が、毎年届きます」
律は台帳の名を見下ろした。
働いて傷ついた人の暮らしが、母の厚意に支えられている。
母が忘れなかったから、支払いが続いていた。
母のあとを継ぐ者が忘れたら、どうなるのか。
「会社の仕事で負傷した人への支払いは、会社の義務として残したい」
律は言った。
「すでに家が引き受けた分も、受け取る人の同意なく減らさない。費用の移し方は、こちらで決めます」
会計官が、困ったように口を開いた。
「恩給ではなく、債務として扱うのでございますか」
「はい」
母は何も言わなかった。
ただ、名の並ぶ頁を、もう一度見た。
反発は、その言葉から始まった。
恩給を債務と呼べば、今後、似た境遇の者が請求する。
過去の事故まで遡れば、誰にどこまで払うのか。
工場の帳簿にない事故もある。
家族の証言だけで、会社の負担を認めるのか。
事業評議会の会議は、予定の倍の時間になった。
「支払えない額になったら、どうなさるのです」
評議員の一人が尋ねた。
律は答えられなかった。
相手は、その沈黙を見逃さなかった。
「殿下。私どもは、気持ちのよい約束を作るために帳簿をつけているのではありません」
律は、机上の決算書を引き寄せた。
「この配当を減らす場合、どれだけ確保できますか」
評議員の表情が変わった。
「家の受け取り分を、でございますか」
「はい」
「皇室の費用も、その収入を見込んでおります」
「それも含めて計算してください」
母の侍従が、一歩動きかけた。
母が手で止めた。
律は数字を見たまま続けた。
「払える額を調べずに、払えないとは言えない。調べたあとで足りなければ、順番と期間を決めます」
年長の評議員が、頬へ手を当てた。
「家の皆様から、ご了承を得られますか」
律はようやく顔を上げた。
「まだ、得ていません」
その晩、親族の一人が宮殿へ来た。
伯父ほど年の離れた、分家の男だった。
律とは幼いころから顔を合わせている。
祝い事には贈り物をくれた。
乗馬を教えてくれたこともある。
男は応接室へ入るなり、手袋を卓へ置いた。
「会社の配当を削るそうだね」
「計算を頼んだところです」
「なぜ、私たちに相談する前に?」
「負担を決めたわけではありません」
「決めるつもりだから、計算するのだろう」
律は黙った。
男は向かいの椅子へ座った。
「お前が工場で何を見たかは知らない。気の毒な者がいるのも分かる。だが、この家には、この家で養っている者がいる」
「その支払いも、調べています」
「調べる、調べる。最近は、そればかりだな」
男は息を吐いた。
「私の息子は、新しい造船所へ出資している。配当が減れば、借り入れの返済に響く。娘の婚姻に際して、こちらが引き受けた土地の整備もある」
律は初めて聞いた。
男は彼の顔を見た。
「知らなかっただろう。お前の見ていないところにも、約束はある」
「はい」
「それを、新聞に何か書かれたからといって――」
「新聞が書く前から、事故は起きていました」
律の声が硬くなった。
男は背を椅子へ預けた。
「その言い方は、あの記者の受け売りか」
律は手を握った。
アンナの名を、ここへ出したくなかった。
「彼女は、この話に関係ありません」
「お前は、そう思いたいのだろう」
男は立ち上がった。
「皆が、お前と同じように王冠を持っているわけではない。この家の財産が、私たちの立つ場所だ」
扉へ向かう背中を、律は呼び止めなかった。
翌日の午後、律は約束を守った。
川の上流へ行く日だった。
出発直前、会計官が追加の書類を持ってきたが、律は受領だけをして机へ置いた。
「明朝、読みます」
会計官は少し意外そうにした。
律も、自分で言って意外だった。
アンナは橋のたもとで待っていた。
仕事の鞄は持っていない。
代わりに、小さな籠を腕に掛けていた。
「何が入っているの?」
「昼食」
「菓子を四つ買うつもりだった」
「それだけでは、また夕方にお腹を空かせるでしょう」
律は笑った。
彼女は外套の上から薄い肩掛けを巻いていた。風に乱れた髪を押さえ、彼の横へ並ぶ。
護衛は少し離れて歩いた。
上流へ向かう道は、途中から舗装が途切れた。
川沿いの草には水滴が残り、日陰の土は柔らかい。
アンナが靴を沈めると、律は手を差し出した。
「どうぞ」
「殿下は、こういうときだけ役に立つのね」
「今日の僕の仕事は、それでいい」
彼女は手を取った。
川幅の狭まったところに、使われなくなった水車小屋があった。
壁には蔓が伸び、水路の脇に石が積まれている。
二人は乾いた石の上へ布を広げた。
アンナの籠には、パンと薄く切った肉、それから林檎が二つ入っていた。
「切るものを忘れたわ」
律は林檎を受け取り、上着から小さな折り畳みナイフを出した。
「持っているの?」
「工場へ行くようになってから」
「何に使うの」
「今までは、包みの紐を切るくらい」
彼が慎重に刃を入れると、アンナは隣で見ていた。
「そんなに見られると、手を切りそうだ」
「皇太子の血を流したら、私が困るもの」
「では、見ない方がいい」
彼女は笑い、彼の肩へ頬を寄せた。
律の手が止まった。
「それも、危ない」
「そう?」
「かなり」
林檎は、少し不揃いに切れた。
食べ終えると、二人は水車小屋の壁にもたれた。
アンナが靴先を伸ばす。
律は、その横顔を見ていた。
「何?」
「今日は、取材のない日だと思って」
「そのつもりよ」
「何を話そうか」
アンナは真面目な顔で考えた。
「あなた、子どものころは何をして遊んだの?」
「乗馬。剣の稽古。古い文字の読み書き」
「それは遊び?」
「そう聞かれると、違うかもしれない」
「隠れてしたことは?」
律は少し考えた。
「宮殿の屋根へ上がった」
アンナが身体を起こした。
「一人で?」
「庭師の息子と」
「怒られた?」
「僕より、彼が」
口にして、律は笑うのをやめた。
「同じことをしたのに」
アンナはしばらく彼を見た。
「その子は、今は?」
「家を継いで、庭の仕事をしている。顔は会わせるけれど、昔のようには話さない」
「会いに行けばいいのに」
「何を話せばいいだろう」
「屋根の上から、何が見えたか」
律は目を伏せ、記憶を探した。
瓦は温かかった。
庭の向こうに街があった。
川も、その先の煙突も見えた。
「遠くまで、行けそうな気がした」
彼は言った。
アンナは自分の膝へ目を落とした。
「私は、新聞社の上の部屋に住みたかった」
「どうして?」
「夜中でも、刷り上がった新聞を最初に読めるから」
「今は?」
「住まなくてよかったと思っている。床がずっと震えるもの」
律は笑った。
アンナも笑った。
彼女の肩掛けがずり落ちたので、律は引き上げた。
そのまま手を離すと、彼女が彼の手を捕まえた。
「もう少し、ここにいて」
「いるよ」
アンナは彼の肩へ頭を預けた。
川の音が、会話の途切れたところを満たした。
帰る前、彼女は律の外套の襟を指で整えた。
「今日は、印をつけていないのね」
「忘れた」
「本当に?」
「半分くらい」
アンナは笑わなかった。
指を襟元から下ろし、彼の胸へ掌を置いた。
「なくても、あなたは分かるわ」
律はその手へ自分の手を重ねた。
「皆にも?」
「それは、無理でしょうね」
「君だけでも、いい」
彼女が顔を上げた。
律は屈んで口づけた。
林檎の甘さが、かすかに残っていた。
離れかけると、アンナの指が彼の外套を掴んだ。
もう一度、唇が重なった。
彼は彼女の背を抱き、草の上で足を踏み直した。
「転ばないでね」
唇が離れたところで、彼女が囁いた。
「努力している」
「分かる」
アンナは笑い、今度は彼の頬へ口づけた。
宮殿へ戻った律を待っていたのは、会計官の書類ではなかった。
母からの呼び出しだった。
執務室には、法務官と国庫の出納官がいた。
卓上に、三枚の大きな紙が広げられている。
母は律へ椅子を示した。
「まず、ここから始めたい」
一枚目は、国の事業として扱う施設の仮一覧だった。
道路。
河川施設。
公立の学校と診療所。
二枚目には、皇室の住居と儀礼に必要な費用。
三枚目には、収益を得る事業と、その債務が並んでいた。
「すぐに所有権を移すわけではないわ」
母が言った。
「まず、出入りする金を別に記録する。相互に融通するときは、額と条件を残す」
「これまでの分は?」
「調査を続ける。分からないものを、私の裁可だけで片づけない」
律は母を見た。
「家の皆さんには?」
「反対は来ている」
母は隠さなかった。
「私が築いた財産を、お前が壊そうとしている、と」
律の胸が固くなった。
「母上も、そう思いますか」
母は三枚の紙を見た。
「私が、一緒にしすぎたとは思っている」
窓の外で、庭の灯りが点った。
「急いで造りたいものがあった。通したい道も、助けたい町も。毎回、誰の金かを争っていれば、間に合わないと思った」
彼女は律へ顔を向けた。
「間に合ったものもある。だから、全部を失敗だったとは言わない」
「はい」
「でも、あなたへ渡すときまで、このままにする理由にはならないわね」
法務官が、最後の一枚を差し出した。
暫定会計規則。
母は署名欄を見た。
その下に、評議会へ提出する日付が入っていた。
「承認してもらう形なのですね」
出納官が言った。
「陛下の公布ではなく」
「公金の区分を含みますから」
法務官が答えた。
「今後、国が負担する費用は、評議会の審議を受けるものとします」
母は筆を取った。
だが、すぐには署名しなかった。
「宮廷の費用も?」
「はい」
母は小さく頷いた。
「では、庭の灯りを減らせと言われるかもしれないわね」
出納官が、困ったように笑った。
律も少し笑った。
母は署名した。
書かれた名は、いつもと同じだった。
だが、その紙には、彼女の判断を別の場所へ渡すための条文があった。
夜、律は地下へ降りた。
暫定規則の写しを読み上げると、CHUYUは幾つか質問した。
善一AIは、支払いを継続するための経過措置を確かめた。
主任技師は最後まで黙っていたが、読み終わると一つだけ尋ねた。
「研究所は、どこに入りますか」
律は紙を見た。
まだ、決まっていなかった。
「王室の保管設備として扱われています」
「では、発電機の燃料費は?」
「当面は、家から」
「技師の給料は?」
「同じです」
主任は頷いた。
「分かりました。そこが止まらなければ、作業は続けられます」
律は規則の余白へ、研究所の区分は未決、と書き加えた。
CHUYUが言った。
「一つ決めると、次が見えるわね」
「次ばかりです」
「今日は、少し疲れ方が違う」
律は顔を上げた。
「声だけで、分かりますか」
「少なくとも、いつもより返事が早い」
彼は川辺の午後を思い出した。
「今日は、林檎を切りました」
主任が手元の工具から顔を上げた。
「……それが何か?」
「少し、不揃いでした」
CHUYUはしばらく黙り、それから言った。
「それは、よい一日だったのね」
律は笑った。
「はい」
机上には、分類途中の古い記録が残っていた。
炭鉱の測定表。
空一郎の手になると思われる余白の書き込み。
律が目を向けると、善一AIが言った。
「それは、まだ読む順番を決めているところだ。測定方法の違う記録が混じっている」
「何か、見つかったのですか」
「今は、古い坑道の中で何を測ったのか、確かめている。数値だけでは分からん」
律は紙を元の位置へ戻した。
「では、また今度」
部屋を出る前に、上着の内側へ手を入れた。
柊の葉の留め金があった。
彼は取り出し、襟へつけた。
外したまま、二度と戻さないこともできた。
だが、その印の下で働き、暮らしている人がいる。
律は留め具を確かめ、階段を上がった。
外では、送電線が夜風に低く鳴っていた。




