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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第九十三章 門の内側


 エミルの母親は、最初の呼び出しには来なかった。


 二度目には、断りの返事もなかった。


 三度目の手紙を書こうとした調査担当者を、律は止めた。


「届いていることは、確かですか」


「工場の事務所を通して、渡しております」


「それでは、受け取ったか分からない」


「住所を直接調べて訪ねますか」


 律は答えかけ、考え直した。


 見知らぬ男が、会社の印のある書類を持って家へ来る。


 断りたくても、断れないかもしれない。


「彼女が頼める人は、いないでしょうか」


 担当者は手元の記録を繰った。


「負傷後のエミルを診ていた医師がおります」


「まず、相談してみてください。会うかどうかは、本人に決めてもらいたい」


 担当者は頷いた。


 律は机上の出席予定表へ目を落とした。


 名前の横にある空欄は、怠慢でも拒絶でもなかった。


 そこへ来れば何が起きるのか、まだ誰も十分に説明していない。


     


 聞き取りが実現したのは、六日後だった。


 場所は宮殿でも、会社の会議室でもなかった。


 工業地区から少し離れた、医師の診療所だった。


 診療を終えた待合室に机を二つ並べ、書記と調査担当者が座っていた。会社の役職者は入れないことにした。


 律は別室で待っていた。


 エミルの母親が彼の同席を望むか、先に確かめるためだった。


 壁の向こうで、椅子を引く音がした。


 しばらくして、医師が入ってきた。


「殿下も、お入りください」


「よろしいのですか」


「本人が、そう言っています。ただし、最初に伝えたいことがあるそうです」


 律は立ち上がった。


 待合室にいた女性は、灰色の外套を膝に置いていた。


 指先が赤く荒れている。


 隣には、エミルが座っていた。


 律の姿を見ると、二人とも腰を浮かせた。


「そのままで」


 言いながら、彼は自分も椅子へ座った。


 母親は膝の上の外套を握った。


「仕事を、返していただきたいんです」


 律は彼女を見た。


 調査担当者が何か言おうとしたが、彼女は先に続けた。


「謝っていただくために来たのではありません。前の作業場へ戻してほしいんです」


「今は、どちらへ?」


「北の倉庫です。朝の始まりが早いので、下の子を近所へ預けています。帰りも遅くなりました」


「賃金は」


「同じです。だから、悪く扱ってはいないと言われました」


 彼女は少し息を継いだ。


「でも、預けるお金が要ります。暗いうちに出ると、エミルが弟を起こして、食べさせてから工場へ行きます」


 律は少年へ目を向けた。


 エミルは俯いていた。


「配置を変えた理由は、何と聞いていますか」


「私が、静かな場所で働きたいと言ったからだと」


「言ったのですか」


 女性は首を横に振った。


「息子のいた機械のそばは、つらいでしょうと聞かれました。つらいです、と答えました」


 律は膝の上で指を組んだ。


 書記が、言葉を一つずつ写している。


「それから、異動の紙が来ました。私の希望だと書いてありました」


     


「その紙に、署名は?」


 調査担当者が尋ねた。


「しました」


「内容を読んでから?」


「読んでもらいました」


「異動を希望する、という文章も?」


 母親は口を閉じた。


 隣のエミルが顔を上げた。


「戻れなくなるとは、思わなかったんです」


 少年の声は、工場で会ったときより低かった。


「母さんは、北へ行けと言われたから行っただけです」


 母親が彼の膝へ手を置いた。


「分かっています」


 担当者は言った。


「署名した経緯を、記録します」


 女性は、まだ不安そうだった。


「私が言ったことは、誰が読むんですか」


「調査を担当する者と、審査をする者です。会社へ確認が必要な箇所もありますが、その前に、どの内容を伝えるか説明します」


「社長にも?」


 担当者は律を見なかった。


 女性へ向き直ったまま答えた。


「最終的な判断には、報告します。ただ、今日お話しいただいたことを、そのまま工場長へ渡すことはしません」


「でも、私だと分かるでしょう」


 誰も、すぐには答えなかった。


 律は机の木目を見た。


 匿名にすれば守れる。


 そんな簡単な話ではなかった。


 左腕を失った少年と、その母親。


 職場の誰もが知っている。


「分かる可能性はあります」


 律は答えた。


 女性の肩が固くなった。


「だから、調査のあいだの配置や賃金を、工場長だけでは変えられないようにしています。何かあれば、こちらの担当者へ直接知らせてください」


「元へ戻れるんですか」


 彼は口を開きかけた。


 ここで命じれば、今日のうちに戻せる。


 それを求められている。


 彼は女性の手を見た。


 荒れた指が、外套を握りしめていた。


「戻ることを希望していると、今、記録します。そのうえで、同じことが繰り返されない条件を整えます」


 女性は長く彼を見つめた。


「殿下でも、すぐにはできないんですね」


 責める声ではなかった。


 それが、律にはつらかった。


「できることと、僕がいなくても続くようにすることを、一緒に進めたいのです」


 女性は返事をしなかった。


 医師が、彼女の前へ水を置いた。


     


 事故について話し始めると、エミルは母親より先に口を開いた。


「僕が、止めなかったんです」


 律は少年を見た。


「帯がおかしいのは、分かっていました。揺れると、音が変わるから」


「誰かに伝えましたか」


 担当者が尋ねた。


「前の日に、職工の人が」


「事故の日は?」


「止めるなと言われました。注文が遅れていたから」


 母親が目を閉じた。


 エミルは続けた。


「でも、手を出したのは僕です。引っかかったものを、取ろうとして」


 律は、自分の左手を見た。


 指を開き、閉じる。


 その動きが急に恥ずかしくなって、手を卓の下へ戻した。


「誰に、そう説明するよう言われたのですか」


 担当者の問いに、エミルは顔を上げた。


「誰にも」


 少し強い声だった。


「本当に、僕がやったんです」


 医師が静かに言った。


「エミル。君が手を出したことと、機械を止めずに働かせたことは、両方調べるんだ」


 少年は口を閉じた。


 医師は待った。


 やがてエミルが、膝の上の袖を右手で撫でた。


「……僕が、もっと気をつけていれば」


 母親の手が、その右手を包んだ。


 聞き取りは、そこで一度休んだ。


     


 診療所を出ると、工場の終業を知らせる汽笛が鳴った。


 通りへ、人が流れ出してくる。


 油の染みた作業着。


 弁当箱を包んだ布。


 手を繋いで歩く兄妹。


 律は馬車へ乗らず、少し歩いた。


 工場の門には、柊の葉を組み合わせた印が掲げられていた。


 門の内側では、それが会社の印になる。


 宮殿へ戻れば、同じ印を付けた書類が、国の命令として届く。


 彼は立ち止まった。


 護衛も、少し離れて止まった。


 母親は、自分に仕事を返してほしいと言った。


 会社を継ぐ者として頼んだのか。


 皇太子へ嘆願したのか。


 彼女には、それを分ける必要がなかった。


 分けられないことが、彼女を黙らせてもいた。


     


 その晩、事業評議会へ、聞き取りの暫定報告が届けられた。


 律は冒頭の説明だけを済ませ、審査の席から外れた。


 廊下で待っていると、年長の評議員が出てきた。


「殿下は、お帰りにならないので?」


「結果を聞いてから」


「ご意向を承ったものと、皆が考えてしまいます」


 律は男を見た。


 男は疲れた顔をしていた。


「母親を元の職場へ戻す。その結論以外を出せば、殿下に背いたことになる。そう考える者がおります」


「僕が外へ出ても?」


「外でお待ちになっておられます」


 律は、閉じた扉を見た。


 しばらくして、廊下の窓へ歩いた。


「では、帰ります」


 評議員は頭を下げた。


「決定と理由は、書面で届けてください」


「承知いたしました」


 律は立ち去りかけ、振り返った。


「希望と違う結論でも、理由は読みます」


 男はゆっくり頷いた。


     


 宮殿へ戻る途中、馬車は橋の手前で止まった。


 車輪を壊した荷車が、道を塞いでいた。


 積まれた木箱を、人々が手で運んでいる。


 御者が降り、護衛が状況を見に行った。


 律は窓を開けた。


 川の向こうに、新聞社の灯りが見えた。


 アンナは、まだ働いているだろうか。


 上流へ行く約束は、二度延期していた。


 どちらも、律の都合だった。


 彼は懐から時計を出し、また閉じた。


「少し、寄り道をしたい」


 護衛へ告げると、男は新聞社の方を見た。


「先に、確認いたします」


 律は頷いた。


 自分が会いたいと思うだけで、また誰かが階段を上がる。


 今日は、その足音がよく聞こえた。


     


 アンナは外套を腕に掛けて降りてきた。


「突然ね」


「帰るところだった?」


「あなたの護衛が来たので、編集長に追い出されたわ」


「迷惑だったかな」


「少し」


 彼女は言い、それから律の顔を見た。


「でも、顔を見たかった」


 二人は通りを歩いた。


 菓子屋は、もう閉まっていた。


 律がその前で足を止めると、アンナは笑った。


「今日は、四つ買わずに済んだわね」


「借りが増えた」


「覚えておく」


 道の端を歩きながら、律は診療所のことを話した。


 名前と詳しい証言は伏せた。


 それでもアンナには、誰の話か分かったはずだった。


「僕に、仕事を返してほしいと言った」


「そう」


「その場で、返すと言えなかった」


 アンナは彼の歩幅に合わせた。


「あなたが命じれば、戻れた?」


「たぶん」


「戻ったあと、何が起きるかは?」


「分からない」


「では、そこも含めて決めてもらうしかないわ」


 律は頷いた。


「君にも、僕が何とかすると言えばよかったのかな」


 アンナは足を止めた。


「私に?」


「前に、知らない人が新聞社へ来たと言っただろう。僕と会っていることで、君まで」


「律」


 彼女は彼の外套の袖を掴んだ。


「私は、あなたが何とかするまで、困った顔で待っているつもりはないわ」


 彼は彼女を見た。


「でも、会いに来てくれるのは、嬉しい」


 アンナは少し声を落とした。


「そこは、取り上げないで」


     


 川沿いの通りから一本入ると、人影が減った。


 古い倉庫の壁際に、雨を避けるための庇があった。


 風が冷たくなり、アンナが外套を着ようとする。


 律は背後へ回り、その肩へ掛けた。


「ありがとう」


 髪が襟に挟まっていた。


 彼がそっと引き出すと、アンナの首筋へ指が触れた。


 彼女が少し身をすくめた。


「冷たい」


「ごめん」


「そうではなくて」


 振り返った彼女は、笑っていた。


 律は、その頬へ触れた。


 アンナが目を閉じる。


 唇を重ねると、彼女の手が彼の胸元へ上がった。


 小さな留め金に、指が当たった。


 柊の葉の印だった。


 アンナは目を開け、そこを見た。


「外せる?」


 律は一瞬、彼女の顔を見た。


「ここに当たるの」


 彼女は自分の胸元を指した。


「ああ」


 彼は留め金を外した。


 掌に収まった金属は、思ったより重かった。


 それを外套の内側へしまう。


 アンナが彼の襟を整えた。


「これでいい」


 今度の口づけは、彼女からだった。


 律は背を屈め、彼女を抱いた。


 その身体は細かったが、腕にはしっかり力があった。


 彼は唇を離し、額を彼女の額へ寄せた。


「もう少し、このままで」


「ええ」


 通りの向こうを、荷車が一台通り過ぎた。


 車輪の音が遠ざかるまで、二人は動かなかった。


     


 翌朝、評議会の決定が届いた。


 母親の異動は、本人の十分な理解に基づく希望と認められない。


 本人と協議し、旧職場への復帰、または同条件で通勤負担の少ない職場への配置を行う。


 異動によって増えた費用は、確認のうえ補填する。


 そして、工場長による単独の人事変更を、調査終了まで停止する。


 律は最後まで読んだ。


 署名は、自分のものではなかった。


 安堵はした。


 だが、評議員たちが本当に自分の意向から離れて決めたのかは、分からなかった。


 それでも、理由が残った。


 次に似たことが起きたとき、誰かが取り出せる紙ができた。


 律は受領の署名だけをし、調査担当者へ返した。


「本人に、選べることを説明してください。どちらにするか、ここで決めないように」


     


 地下では、CHUYUと善一AIが、空一郎の残した資料の分類を進めていた。


 律が入ると、主任技師が図面を畳んだ。


「何か、進みましたか」


「炭鉱の古い測定記録が見つかりました」


 CHUYUが答えた。


「ただ、今日は別の話を先に聞いてほしい」


 作業台に、帳簿の写しが並べられた。


 王室。


 国庫。


 柊家の事業。


 三つの収支を、法務官の求めで照合していたものだった。


 ある金額が、三枚の紙に違う名で載っていた。


 王室への融通。


 国家事業への立替。


 会社への未払金。


「同じ金なのですか」


「一部は、同じ支出を指している可能性が高い」


 CHUYUは言った。


「でも、どの時点で誰の負担になったのか、決めた記録が見つからない」


 律は椅子へ座った。


 善一AIが尋ねた。


「これまで、どうやって決着をつけていた?」


「母が裁可していました」


「貸した側と、借りた側の両方を?」


 律は帳簿を見た。


「はい」


 音声器具の向こうで、短い沈黙があった。


 主任が、壁の計器を確かめた。


 律は上着の内側から、昨夜外した留め金を取り出した。


 机の端へ置く。


 柊の葉が、灯りを受けて光った。


「法務官に、来てもらいます」


 彼は言った。


「帳簿を見せる決まりだけでは、足りない」


「何を変えるつもり?」


 CHUYUが尋ねた。


「母と家の間で、お金を動かすたびに、誰のものが、誰へ渡ったのか残す。僕が継ぐ前に、少なくとも、そこは始めたい」


 彼は空いた頁へ、三つの見出しを書いた。


 国家。


 皇室。


 事業。


 その下へ線を引きかけて、筆を止めた。


 線のこちらにも向こうにも、働く人がいる。


 診療所へ来た母親の顔を思い出した。


 律は余白へ、もう一つ書き加えた。


 働く者への支払いを、途中で止めないこと。


 机の端では、外された柊の印が、静かに光っていた。


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