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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第九十二章 灯りの向こうの人



 記事が出た朝、宮殿の食卓には新聞がなかった。


 律は席に着く前に気づいた。


 いつもなら、母の椅子の左に、主要な新聞が重ねて置かれている。


「朝刊は?」


 給仕が一瞬、目を伏せた。


「本日は、陛下のお食事のあとにと」


「誰の指示ですか」


「私よ」


 母が入ってきた。


 手に、折り畳んだ新聞を持っていた。


「もう読んだわ。食卓にまで並べなくてもいいでしょう」


 律は椅子を引いた。


 母は向かいに座り、新聞を自分の脇へ置いた。


 見出しの下に、アンナ・エステールの名が見えた。


「回答は、載っていましたか」


「載っていたわ」


 母は茶を注がれるのを待った。


「私の裁可で移転を続けたことも、説明を統一する措置を了承したことも」


「そうですか」


「あなたは、何が載るか知っていた?」


「詳しくは」


 母の指が、カップの取っ手に触れた。


「そうね。彼女は、あなたにも原稿を見せないでしょうね」


 律は母を見た。


 その言い方に、責める響きはなかった。


 かえって、返す言葉が見つからなかった。


「名前があったわ」


 母が言った。


「亡くなった人たちの」


 律は新聞へ目を向けた。


「村に、記録が残っていたそうです」


「あなたは、読んだのね」


「まだ全部は」


「読んで」


 母は新聞を卓の中央へ押した。


 律は受け取った。


 細かな活字の列に、十三の名が並んでいた。


 最年少は二歳だった。


 彼はその行で目を止めた。


 母はもう、何も言わなかった。


     


 午前の会議は、予定より早く始まった。


 内務卿は記事の写しを卓へ置き、冒頭から声を硬くした。


「陛下のご説明を、そのまま陛下への非難に使っております」


「説明を求められたから、説明したのよ」


 母が答えた。


「ですが、治水事業によって救われた下流の住民については、扱いが小さい。これでは、事業全体が誤りだったかのように受け取られます」


 律は記事を開いた。


 下流の被害が減ったことも、収穫が回復したことも書かれていた。


 ただ、それは死者の名を消してはいなかった。


「誤りの箇所を、特定できますか」


 律が尋ねた。


 内務卿は彼を見た。


「事実だけが問題なのではございません」


「では?」


「書き方です。陛下のご判断により、子どもが死んだと読める」


 律は返事をしかけ、母が片手を上げた。


「そのつながりを、私たちは調べているところでしょう」


「陛下」


「工事を続ける判断が、その子にどこまで影響したのか。水が届かなかった理由は何か。記事に異論があるなら、そこを調べて答えて」


 内務卿は口を閉じた。


 代わって、宮廷の広報官が発言した。


「記者の身分については、確認が必要かと」


 律の背が固くなった。


「身分?」


「皇太子殿下と、個人的なご交際があると聞いております」


 部屋の空気が変わった。


 法務官が、伏せていた目を上げた。


 広報官は律を見ず、母へ向かって続けた。


「宮廷への接近によって情報を得たのであれば、通常の取材とは異なります。また、記事の背景に、殿下と陛下のご意見の相違があると受け取られるおそれも――」


「彼女への取材対応を、僕との関係で変えないでください」


 律は言った。


 思ったより大きな声が出た。


 母が彼を見た。


 広報官も、ようやく律へ向き直った。


「殿下をお守りするために申し上げております」


 律は卓の下で手を開いた。


 ここで言い争えば、交際を否定するよう求められるか、彼女を守るために権限を使うことになる。


「僕が渡したのは、調べるべき村の名と、記録の所在です」


 彼はゆっくり言った。


「その事実は、公表して構いません。記事の証言を集めたのは彼女です。原稿を見せてもらったこともありません」


 広報官は言葉を選ぶように間を置いた。


「では、ご関係についても、お認めになるので?」


 律は母を見た。


 母は答えを代わってはくれなかった。


「彼女の了承なく、ここで発表はしません」


 法務官が筆を取った。


 内務卿は、不満げに椅子へ背を預けた。


 母は会議を進めた。


「記事への回答は、記載された事実への回答に限ります。記者の私生活を使う必要はありません」


     


 会議を終えると、母は律を呼び止めた。


「一緒に歩いて」


 二人は中庭へ出た。


 朝の雨が上がり、石畳の目地に水が残っていた。


「彼女とのことを、皆が知り始めているわ」


「はい」


「あなたたちがどれほど静かに会っていても、いずれそうなる」


 律は庭木の濡れた葉を見た。


「隠しているつもりはありません」


「守りたいものがあって、話さずにいることもあるでしょう」


 彼は母を見た。


 母は前を向いて歩いていた。


「母上は、彼女を宮殿へ呼びたいですか」


「あなたの恋人としてなら、いつか会いたい」


「記者としては?」


「質問を送ってくる人には、もう会っているような気がするわ」


 律は少し笑った。


 母も口元を緩めたが、すぐに真顔へ戻った。


「あなたが会うために動くだけで、何人もの人が動く。彼女の勤め先にも、その家にも、目が向く」


「分かっています」


「いいえ。あなたは今日から、少しずつ分かるの」


 母は立ち止まった。


 細い枝から、雨の滴が落ちた。


「会いたいなら、会っていらっしゃい。ただ、彼女にも、何が起きているか話して」


     


 アンナは、新聞社の裏口から出てきた。


 律を見ると足を止め、それから彼の後ろに立つ護衛へ目を向けた。


「今日は、店じゃないの?」


「少し歩ける?」


「少しなら」


 彼女は鞄の紐を肩へ掛け直した。


 目の下に、薄い影があった。


「眠った?」


 律が尋ねると、アンナは彼を見た。


「その質問、返していい?」


「僕は、昨夜は眠った」


「では、あなたの勝ち」


 川沿いの道へ出ると、印刷機の音が遠くなった。


 午後の日差しが、石壁に残る水を光らせていた。荷馬車が橋を渡り、その後ろを、小さな貨物自動車がゆっくり追っていった。


 運転手が二度、短く警笛を鳴らす。


 馬が耳を伏せた。


「まだ、馬の方が嫌がっているね」


「歩く人もよ。先週、記者仲間が泥を跳ねられたわ」


「運転手を取材した?」


「怒鳴っただけだと思う」


 律は笑った。


 アンナも笑い、その笑顔が消える前に、彼は彼女の手を取った。


 彼女の指が少し動いた。


 けれど、離れなかった。


     


 川の曲がり角に、小さな焼き菓子屋があった。


 窓際の台に、蜂蜜を塗った菓子が並んでいる。


 律が足を止めると、アンナが呆れた顔をした。


「お昼、食べていないのね」


「会議が長くなって」


「あなた、いつか会議中に倒れるわよ」


「地下では、茶が出る」


「茶は食事ではありません」


 店で二つ買い、二人は川べりの石段へ座った。


 護衛は道の上に残った。


 律は紙包みを開き、一つをアンナへ渡した。


 菓子はまだ温かかった。


「今日、会議で君のことが出た」


 彼は言った。


 アンナは菓子を口へ運ぶ手を止めた。


「記事への抗議?」


「それも。でも、僕との関係を調べるべきだという話になった」


 彼女は川を見た。


「そう」


「驚かないんだね」


「昨日、新聞社へ二人来たわ。宮廷の人かどうか、名乗らなかったけれど」


 律は身体を起こした。


「何を聞かれた?」


「あなたと、どこで知り合ったのか。どれくらい会っているのか。家族は、私がここで働いていることをどう思っているのか」


「なぜ、知らせてくれなかった」


 アンナは彼を見た。


「知らせたら、どうするつもりだった?」


 律は返事に詰まった。


 調べる。


 来た者を特定する。


 やめさせる。


 どれも、すぐに命じられることだった。


 アンナは菓子の包みを持ち直した。


「編集長に伝えたわ。今度来たら、質問は書面で受けることにした」


「怖くなかった?」


「少し」


 彼女は素直に答えた。


「あなたを怖いと思ったわけではないのよ。でも、あなたと会っていることを、ほかの人が何に使うかは、私にも止められない」


 律は膝の上を見た。


 先ほどまで繋いでいた手が、今は離れている。


「会わない方が、楽なのかな」


 言ってから、彼は顔を上げた。


 アンナは黙っていた。


 その沈黙が怖くなった。


「君のために、という意味では――」


「分かっているわ」


 彼女は彼の言葉を遮った。


「今、それを綺麗に言い直さないで」


 川面を、枯れ葉が流れていった。


 律はしばらく、それを見送った。


「僕が、楽になりたいのかもしれない」


「ええ」


「君を好きでいることと、家を調べることが、いつも同じ場所でぶつかる」


「私も、そうよ」


 アンナは小さく息を吐いた。


「あなたに会いたい日に、あなたの母親へ質問状を書く。返事を読んで、あなたの顔を思い出す。記事にする言葉を選ぶとき、優しくしすぎていないか、疑う」


 律は彼女を見た。


「それでも、会いたい?」


 アンナは持っていた菓子を、紙の上へ置いた。


「会いたいから、ここにいるの」


     


 彼女の唇に、蜂蜜が少しついていた。


 律は指を伸ばしかけ、止めた。


「何?」


「ここ」


 自分の唇を指すと、アンナは舌先で反対側を確かめた。


「違う」


「じゃあ、取って」


 彼は笑った。


 親指で拭うと、彼女がその手を捕まえた。


 指先が、彼の掌に触れた。


 律は彼女へ身を寄せた。


 最初の口づけは短かった。


 離れると、アンナは川の上の道へ目を向けた。


「見られているかしら」


「護衛には」


「ほかには?」


「分からない」


「正直でよろしい」


 彼女はそう言い、今度は自分から彼の襟を引いた。


 少し長く唇が重なった。


 律の手が彼女の背へ回る。


 薄い外套の下に、呼吸の動きが伝わった。


 彼は目を閉じた。


 記事も、署名も、母の顔も、消えたわけではなかった。


 それでも、今ここにいるアンナの温かさを、ほかの何かのために手放したくなかった。


 離れたあと、彼女は額を彼の肩へ預けた。


「菓子が冷めたわ」


「僕のせい?」


「半分は」


 律は笑い、彼女の手をもう一度握った。


     


 新聞社へ戻る道で、アンナは取材先の話をした。


「亡くなった子のお母さんがね、記事になるのかと聞いたの」


「何と答えた?」


「名前を載せてよいか、確かめたわ」


 律は足を緩めた。


「載せてほしいと言われた?」


「ええ。でも、そのあとで、陛下を困らせたいわけではないと」


 彼は黙った。


「前の冬には、陛下が送った穀物で助かったそうよ。だから、ずっと言えなかったって」


 アンナの靴音が、石畳に響いた。


「感謝しているから、死んだ子のことを話してはいけない気がしたのね」


「母が、それを命じたわけではない」


 言ってから、律はアンナを見た。


 彼女は頷いた。


「そうね」


「……ごめん。分かっている」


「あなたのお母様が、すべての沈黙を命じたとは書かないわ」


 律は息を吐いた。


 アンナは彼の手を握ったまま、続けた。


「でも、話せなかった人がいたことは、書く」


     


 宮殿へ届いた抗議文は、その日のうちに七通になった。


 地方の有力者から。


 事業評議会から。


 治水事業に関わった旧臣の一族から。


 記事は、帝国の繁栄を支えた者たちを辱める。


 皇太子がその記者と交際しているなら、公平な調査は望めない。


 恋人に促され、家の財産を開こうとしているのではないか。


 律は最後の一文を読み、紙を机へ置いた。


 アンナと会えば、調査は恋のためだと言われる。


 会うのをやめれば、彼らは正しかった顔をするだろう。


 彼は法務官を呼んだ。


「記録の検査役の人選から、僕を外してください」


 法務官は立ったまま、彼を見た。


「殿下は、調査を提案されたお立場です」


「提案は続けます。でも、誰が調べるかを僕が決めれば、僕の調査になります」


「では、どなたに」


「評議会の推薦を受けたい。会社の利害関係者は申告させる。母上の承認が必要な部分は、今は残るでしょう。でも、任期の途中で簡単に解任できないようにしたい」


 法務官は腰を下ろした。


「理由は、ご交際への批判でございますか」


「それもあります」


 律は否定しなかった。


「でも、君主と記者が親しいときだけ、公平さが問題になるわけではない。評議員と会社が金をやり取りしているときも、同じはずです」


 法務官は、しばらく彼を見つめた。


 やがて書類を引き寄せた。


「利害関係の申告から、条文にしましょう」


     


 夜、研究所では、新しい送電計画の図面が広げられていた。


 善一AIへ現地の技術を説明するため、主任が持ち込んだものだった。


「発電機の出力を上げれば、それで済むと思っている人が多いんです」


 主任は疲れた声で言った。


「送る線も、途中の設備も、使う側の装置も要る。工場へ電動機を入れるなら、故障したときに直せる者も育てなければ」


「電気を売ったあとも、仕事が続くわけだな」


 善一AIが答えた。


「そうです。ところが、利益の見積もりには、修繕の人件費が妙に少ない」


 律は図面を覗き込んだ。


 送電線の経路に、いくつもの印がついていた。


「この丸は?」


「優先して接続する工場です」


「住宅地は」


「次の段階です」


「診療所は?」


 主任は別の図面を探した。


 すぐには見つからなかった。


 律は机上の灯りを見上げた。


 川沿いの菓子屋にも、新聞社にも、宮殿にも灯りがある。


 その先に、夜になると火を落とす村がある。


「どこへ先に送るかは、誰が決めていますか」


「出資者と、事業部で」


「都市は?」


「費用を出すなら、交渉に入ります」


 律は図面の余白へ、診療所の名を書いた。


 主任がそれを見て、静かに言った。


「追加するなら、費用が要ります」


「分かっています」


「誰が払うかも、決めないと」


 律は筆を止めた。


 以前なら、自分の名で進めさせただろう。


 彼は図面から手を離した。


「市へ、必要な費用を示してください。診療所に電気があると、夜の処置に何が使えるか、医師にも聞きましょう」


 主任は頷き、図面に新しい番号を振った。


     


 その夜遅く、アンナから便りが届いた。


 紙は、記事の校正に使ったものの裏だった。


〈今日は、ありがとう。

 帰ってから気づいたけれど、あなた、私の菓子まで一口食べたでしょう。

 次は二つ買ってください。私の分を。〉


 律は声を出して笑った。


 便りの下に、もう一行あった。


〈今度は、取材のない日に会いたい。何を話せばいいか、二人で困りましょう。〉


 彼は机に向かった。


〈それなら、僕にも少し有利な話題がある。

 君が笑うとき、最初にどちらの口元が上がるか、知っている。〉


 書いてから読み返し、顔が熱くなった。


 丸めようとして、やめた。


 続けて書いた。


〈次は、川の上流へ行こう。

 菓子は四つ買う。

 そのうち二つには、手を出さないと約束する。〉


 封をする前に、彼はもう一度、アンナの便りを読んだ。


 机の反対側には、検査役の選任案が置かれていた。


 朝になれば、法務官が取りに来る。


 律は二通を重ねず、離して置いた。


 アンナへの封筒には、公的な名を書かなかった。


 律、とだけ記した。


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