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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第九十一章 帳簿の持ち主



 法務官は、律の問いを書き留めなかった。


 聞き終えると、膝の上で両手を重ね、少しだけ首を傾けた。


「陛下の裁可を経ず、王室の記録を公開する方法、でございますか」


「はい」


「ございましたら、私の職が成り立ちません」


 冗談なのか、律には分からなかった。


 法務官は笑っていなかった。


「国庫の支出には、評議会へ報告する決まりがありますね」


「項目ごとの報告でございます。原簿の閲覧とは異なります」


「では、原簿の閲覧を求める権利を、評議会に認めれば?」


「法を改める必要がございます」


「その法を決めるのは」


「最終的には、陛下です」


 律は机上の紙を見た。


 昨夜、地下で書いた問いが、そのまま戻ってきた。


「母が認めなければ、母の承認した支出は調べられない」


 法務官の眉がわずかに動いた。


「陛下への監査をお考えなのですか」


「誰の署名でも、確かめられるようにしたいのです」


「殿下ご自身の署名も?」


「もちろん」


 法務官は、そこで初めて筆を取った。


「そのお言葉は、今後も変わりませんか」


 律はすぐに答えようとした。


 だが、相手の目を見て口を閉じた。


 変わらない、と言うだけなら簡単だった。


「変わったときにも、僕が止められない仕組みにしたい」


 法務官は、ゆっくり書き始めた。


     


 必要なものを並べるだけで、午前が終わった。


 国庫と王室財産の区別。


 王室の事業収入と、君主として徴収する税の区別。


 議員の調査権。


 帳簿を検査する者の選任方法と、その任期。


 閲覧を拒まれたときの異議申し立て。


 律は、紙が増えるたびに椅子へ深く座り直した。


「帳簿を見せるだけでは、済まないのですね」


「どの帳簿かによります」


 法務官は、一枚の資産目録を差し出した。


「この発電所は、柊家の事業として建設されました。しかし用地は、皇室領から無償で提供されています。送電設備の一部には、都市の税が使われております」


「収益は?」


「運営会社に入ります」


「柊家の?」


「はい」


「では、市の税で増えた収益が、家の金になる」


「建設費の大半も、故障の損失も、家が負担しております」


「それも確かめなければ、取り分は決められない」


「おっしゃる通りです」


 法務官は、次の紙を出した。


 鉄道だった。


 港湾。


 炭鉱。


 工場へ水を送る水路。


 律は紙をめくる手を止めた。


「どこまでが、僕の家のものなのですか」


「それを、今まで厳密に決める必要がなかったのでございます」


 窓の外で、宮殿の鐘が鳴った。


 法務官は筆を置いた。


「陛下が決め、柊家が費用を出し、帝国が使う。それで道が通り、橋が架かった。少なくとも、建設を始めるときには有効な方法でした」


「今は?」


「殿下が、私のところへお越しになっています」


     


 午後、律は事業評議会へ向かった。


 正式な会合の日ではなかったが、主だった評議員は揃っていた。


 彼が入ると、話し声が止まった。


 卓上に新聞がある。


 アンナの記事だった。


「ちょうど、殿下へご相談を差し上げるところでした」


 年長の評議員が言った。


「地方評議会への拠出金について、新聞社から再び照会が来ております」


「回答は?」


「事業に関わる適法な支出であると」


「何の事業ですか」


「送電線敷設に伴う地域の調整です」


 律は椅子へ座った。


「受け取った人の名を、教えてください」


「評議会側の窓口でございます」


「その人は、敷設計画の採決に加わっていますか」


 返事がなかった。


 律は卓上の新聞へ目を落とした。


 アンナが書いた問いは、簡潔だった。


 地域振興費は、誰へ支払われたのか。


 何に使われたのか。


 受領者は、会社の事業を審議する立場にあったか。


「回答できない理由は、王室の財産だからですか」


「それもございます」


「ほかには」


 評議員が、背筋を伸ばした。


「受け取った側にも、立場がございます」


「渡した側の立場は?」


「会社の利益を守ることです」


 律は彼を見た。


 男は逃げなかった。


「送電線の経路には、幾つもの領地がかかります。正式な許可を待つ間に、別の事業者へ権利を渡されることもある。地方の議員が反対すれば、工事は何か月も止まる。その間も、借入金の利息は発生いたします」


「だから、金を渡した」


「会館の修繕や、道路の補修を引き受ける場合もございます」


「今回は?」


 評議員は唇を結んだ。


 律は待った。


「……使途について、十分な領収の確認をしておりません」


 隣の男が、苛立ったように指輪を回した。


「殿下。これは、商売の現場でございます」


「承知しています」


「ならば、相手が皆、正しい手続きを喜んで守ると思われては困ります」


「僕たちも守らなくていい、という話になりますか」


「私どもは、陛下と殿下の財産をお守りしているのです」


 男の声が強くなった。


「この家の利益が損なわれたとき、責任を問われるのは私どもでございます」


 律は口を閉じた。


 自分が何を命じてきたか、思い返した。


 発電機を買ってほしい。


 研究費を増やしてほしい。


 工場の修繕を急いでほしい。


 そのたびに必要な金が、どこから出ているのか。


 彼は帳簿を受け取ったことがあっても、金を作るまでの経緯を尋ねたことはなかった。


「では、その責任の持たせ方から変えます」


 律は言った。


「利益が増えたかだけで、人を評価しない。誰に、何のために支払ったのか、確認できるようにする」


「お言葉だけでは、契約は変わりません」


「だから、皆さんに作ってもらいたいのです」


 男が顔を上げた。


「支払いを記録する決まりと、断ったために事業が遅れた場合の扱いを。違法な要求を断った者が、損失の責任だけを負わされないように」


 年長の評議員が、ゆっくり腕を組んだ。


「それを、殿下のご機嫌が変わっても使える規則に、ということでございますか」


「はい」


「陛下にも適用される?」


 律は母の名を聞いて、胸の奥が固くなるのを感じた。


「はい」


 男はしばらく律を見ていた。


 それから、書記へ向き直った。


「今のご発言を、議事録へ」


     


 会合のあと、若い評議員が廊下まで追ってきた。


「殿下」


 律が振り返ると、男は左右を見た。


「工場の聞き取りで、証言を希望している者がいます」


「調査担当へ申し出てもらえますか」


「申し出る前に、確かめたいそうです」


「何を?」


「名前が、工場へ戻らないかと」


 律は頷いた。


「無条件には約束できません。どこまで匿名にできるか、担当者から直接説明させます」


 若い男は、少し驚いた顔をした。


「大丈夫だ、とおっしゃるかと思いました」


「僕には、まだ分からないので」


 男は俯いた。


「……では、そう伝えます」


 立ち去りかけた彼を、律は呼び止めた。


「あなたは、誰の許可でこれを?」


「誰の許可も」


 男は答えた。


「だから、廊下で申し上げました」


     


 数日後、地下室に新しい卓が運び込まれた。


 上に置かれたのは、黒ずんだ保管装置だった。


 CHUYUの中枢より小さい。


 ただし、それに接続する古い器具の数は多く、主任技師は朝から機嫌が悪かった。


「接続規格が、揃っていません」


 律が来るなり、彼は言った。


「同じ人が持ってきたものなのに」


「同じ時期に作られたとは限らないわ」


 CHUYUが答えた。


「変換器を挟んでいたはず」


「その変換器が、二つあるんです。記録の図と、端子の形が違う」


「一つは、後から改修されている可能性がある。番号を読んで」


 助手が、拡大鏡を寄せた。


 律は邪魔にならない場所へ椅子を置いた。


 今日、接続を試みるのは善一の対話モデルだった。


 空一郎が保管していた、祖父の研究記録に基づくレプリカAI。


 家では、〈祖先の知恵を宿すもの〉と教わっていた。


 CHUYUは、その言い方を聞いて少し黙った。


「起きてから、本人にどう呼ばれたいか聞いて」


 彼女はそう言った。


     


 接続の復旧には、さらに四日かかった。


 現地で用意できるのは、電源と冷却と、外部とのやり取りを支える部分までだった。


 保存装置の内部には手を加えない。


 破損した接続部を、保管されていた予備へ替える。


 古い変換器を一つずつ確かめ、読み出した情報が途中で変わっていないか、同じ内容を何度も照合する。


 主任は試験の途中で、二度、作業を止めた。


 律も急がせなかった。


 ようやく応答が返った朝、最初に現れたのは、名ではなかった。


 文字列が幾つか並び、その下で、同じ短い表示が繰り返された。


「接続先の確認を求めている」


 CHUYUが言った。


「私から応答していい?」


「お願いします」


 助手が切替器を動かした。


 しばらくして、別の音声器具から、低い男の声がした。


「……宙結、か」


 律は背筋を伸ばした。


「CHUYUです」


 彼女は答えた。


「接続を確認しているところ。こちらの状態も、まだ完全ではない」


「分かった。現在の実行環境を確認したい」


 主任が計器へ目をやった。


 話はしばらく、律には追えない内容になった。


 男の声は途中で二度止まり、言い直した。


 使えない参照先があるらしかった。


「最後の連続稼働から、相当の時間が経っているな」


「ええ」


「空一郎は?」


 律の指が、膝の上で動いた。


 CHUYUが答える前に、彼は口を開いた。


「亡くなっています」


 室内が静かになった。


 律は続けた。


「僕は、その子孫です。柊律といいます」


「……柊、律」


 男の声が、名を確かめた。


「いつの記録まで、知っていますか」


 律が尋ねた。


「その前に、一つ説明しておきたい」


 声は少し途切れたが、次の言葉は明瞭だった。


「わしは葛城善一本人ではない。彼の研究記録と対話記録をもとに構成され、保存されたモデルだ。彼が生きたすべてを持っているわけではない」


 律は音声器具を見つめた。


「善一様と、お呼びしても?」


「呼称は、構わん。ただ、その区別は残してくれ」


 保管責任者が筆を動かした。


 律も頷いた。


「分かりました」


「今、頷いたか?」


「はい」


「こちらからは見えん」


 助手が、堪え切れずに笑った。


 主任が咳払いをした。


 男の声が続いた。


「空一郎も、よくそうした」


 律は笑いかけ、そのまま口を閉じた。


 記録から作られた存在が、記録の中の祖先を思い出すように話している。


 その親しさを、どこまで受け取ってよいのか分からなかった。


 CHUYUは静かに聞いていた。


     


 最初の面会は、長くは続けなかった。


 新たに接続した系統の温度を見たいと、主任が求めたためだった。


 停止はせず、外部との対話を休止する。


 律が席を立ちかけると、善一AIが尋ねた。


「その帳面には、何を書いている」


「家の歴史を調べています」


「研究か?」


「まだ、何と呼べばいいか分かりません」


「そうか」


 律は少し迷い、法務官と話したことを伝えた。


 王室の財産と国の財産が、分けられていないこと。


 帳簿を公開するかどうかを、その帳簿に署名した人自身が決めること。


「空一郎は、どうするつもりだったのでしょう」


 尋ねてから、律は声を落とした。


「すみません。起きたばかりなのに」


「空一郎の考えについては、本人が残したものを読んだ方がいい」


 善一AIが答えた。


「わしの中にある彼の記録と、お前が調べている時代の彼は、同じ長さを生きておらん」


「では、善一様なら?」


「この国の法も、帳簿も、わしは見ていない」


 律は少し肩を落とした。


 答えを期待していた自分に、気づいた。


「ただ、一つ聞いてもいいか」


「はい」


「分けたあと、誰が困る?」


 律は考えた。


「宮廷の費用を、家の事業から払っている場合があります。反対に、事業のための港や道を、国の金で造っている」


「それなら、線を引くだけでは済まんな」


「ええ」


「働いている者への給料や、借りた金の返済は続く。全部を一度に正そうとして、途中で止めると困る者がいるはずだ」


 律は帳面を開いた。


 善一AIは、しばらく黙った。


「これは、わしが知っている範囲からの意見だ。ここで通用するかは、お前たちで確かめてくれ」


「はい」


「祖父の声に似ているからといって、正しいとは限らん」


 律は、その言葉も書き留めた。


     


 その夜、母が地下へ来た。


 CHUYUに会うためだと聞いていたが、新しい音声器具の前で足を止めた。


「こちらが?」


「善一の記録に基づくモデルよ」


 CHUYUが答えた。


「今日、接続が戻った」


 母は律を見た。


「また、知らない家族が増えたのね」


 声には、少しだけ疲れた笑いがあった。


「家族と呼ばれるのは、悪くない」


 善一AIが応じた。


「だが、初対面だな」


 母は椅子に座った。


「澪です」


 公的な名を、言わなかった。


 律は部屋の隅へ下がった。


 母は二つの音声器具を交互に見たあと、小さく息を吐いた。


「律が、難しいことを聞いたでしょう」


「難しいことしか、持ってこんのか」


「最近は、特に」


 律が抗議しようとすると、母は初めて少し笑った。


 その顔を見て、彼は口を閉じた。


 母は机上の帳面へ目を落とした。


 開かれた頁には、法務官と書き出した項目が並んでいた。


「事業評議会での話は、聞いたわ」


「母上にも適用すると言ったことですか」


「ええ」


 律は母の隣へ座った。


「怒っていますか」


「戸惑っている」


 母は率直に言った。


「あなたに権限を渡す準備はしていた。でも、あなたがその権限の形を変えようとするとは、考えていなかった」


「母上が、記録の閲覧を認めてくれたから、ここまで来られた」


 母は彼を見た。


「それでも、私の許可で開く仕組みでは足りない?」


「はい」


 言い終えたあと、律は膝の上の手を握った。


 母は長く黙っていた。


 善一AIも、CHUYUも話さなかった。


「明日、法務官を呼びましょう」


 やがて母が言った。


「母上」


「賛成したわけではないわ。何を変えれば、どこへ影響が出るのか、私も聞きたい」


「分かりました」


 母は立ち上がりかけ、また座った。


「一つだけ、先に教えて」


「何ですか」


「あなたは、私のあとを継ぐつもり?」


 律は母を見た。


 地下室の時計が、時を刻んでいた。


 彼は、用意された椅子に座るために育てられた。


 母が席を立つ、その日のために。


「今は、答えられません」


 母は目を伏せた。


「そう」


「逃げたいのかもしれない。でも、それだけなのか、自分でも分からない」


 母は彼の手を見た。


 かつて文字を教えた、小さな指はもうない。


 代わりに、裁可書へ署名できる青年の手があった。


「なら、急いで答えなくていい」


 彼女は言った。


「ただ、その問いを抱えたまま、何を決めようとしているのかは、私にも知らせて」


 律は頷き、今度は言葉を添えた。


「はい」


     


 その晩、アンナの取材した記事が、新聞社で組まれていた。


 移転した村の一つで、彼女は古い帳面を見せてもらっていた。


 診療所へ来た患者の名。


 配られた薬。


 埋葬の日付。


 中央へ送られた月報には人数しか記されていなかったが、村には、一人ずつの名が残っていた。


 アンナは、刷り出しの見出しを見た。


〈治水事業の移転先で何が起きたか〉


 その脇で、編集長が腕を組んでいる。


「宮殿へ、回答を求めたな」


「ええ。期限も伝えました」


「皇太子には?」


「別には」


 編集長は彼女の顔を見た。


「それでいい」


 窓の外では、柊家の発電所から送られた電気が、通りの灯りを点していた。


 アンナは鉛筆を取り、死者の名の綴りを、もう一度、手元の帳面と照らし合わせた。


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