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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第九十章 陛下の署名



 書類は、母より先に部屋へ届いていた。


 大きな箱が二つ。


 一方には工事局の記録、もう一方には内務局と宮廷からの指示書が収められていた。文書官が紐を解くと、古い紙と革の匂いがした。


 律は、一番上の簿冊に触れた。


 表紙の隅に、水に濡れた跡が残っていた。


「移転先の町から戻されたものです」


 文書官が言った。


「保管庫が浸水した年がありまして」


「今回の工事より、あとですか」


「はい」


 律は手を止めた。


 洪水を防ぐ工事の記録が、洪水で濡れていた。


 ただ、それが何を意味するのかは、まだ分からなかった。


 彼は簿冊を開く前に、年を帳面へ書いた。


     


 母が入ってくると、文書官たちは席を立った。


 ミレイナは卓上を見渡した。


「閲覧した記録は、すべてここに?」


「確認できた範囲では」


 年配の文書官が答えた。


「欠けているものは別紙にまとめてございます」


「なくなった理由も?」


「分かるものは」


「分からないものも、そのまま残して」


 母は律の向かいに座った。


 今日は、二人だけではなかった。


 文書官が二人、工事局の元書記が一人。それから、律の求めで記録を取る若い速記官がいた。


 母はその青年を見た。


「私の発言も記録するのね」


「はい」


 律は答えた。


「あとで訂正があれば、元の発言を残して追記します」


 母は頷いた。


「始めましょう」


     


 最初の報告は、母の記憶にあった通りだった。


 下流では三度の氾濫が続き、耕地が失われていた。堤防の修繕だけでは足りない。川筋を改め、上流に貯水施設を設ける必要がある。


 計画には、二つの村の移転が含まれていた。


「この決定をしたのは、私です」


 母が言った。


 速記官の筆が走った。


 律は古い地図を見た。


 青く引かれた新しい川筋の脇に、二つの村がある。


 村の名は、完成後の地図から消えていた。


「反対は?」


「ありました」


「どの程度ですか」


 工事局の元書記が、椅子の上で身じろぎした。


「用地と補償に関する異議でございまして、事業そのものへの反対とは――」


「私に届いた報告では、そう整理されていたわ」


 母が言った。


「住民の申し立ては、原文があるでしょう」


 文書官が、一つの包みを引き寄せた。


 何枚もの紙が綴じられていた。


 律は最初の一枚を読んだ。


 補償額を増やしてほしい、という願いではなかった。


 移転先の井戸が足りない。


 共同の水場まで遠く、雨が降ると道が崩れる。


 病人を運ぶ車が入れない。


 家を建てる前に、そこを直してほしい。


 末尾には、同じ姓がいくつも並んでいた。


「この申し立ては?」


 母は差し出された紙を受け取った。


 最後まで読み、日付を確かめた。


「原文は、初めて見る」


 律は隣の報告書を開いた。


 同じ日付の要約があった。


〈一部住民、移転条件への不満を理由として退去を拒否。補償増額を要求。〉


 彼は二枚を並べた。


 元書記は、卓を見つめていた。


「誰が、こうまとめたのですか」


「地方の担当官から上がったものを、局で整理しております」


「整理した人の名は?」


「当時の起案簿を見れば……」


「見てください」


 母が言った。


 元書記が、初めて顔を上げた。


 彼女は、もう一度申し立てへ目を落としていた。


     


 病気の報告は、移転開始から十一日目に出ていた。


 続く月報には、死者が記されていた。


 律が最初に見つけた診療所の記録より、さらに早い報告だった。


 水場の衛生状態が悪い。


 住居が密集している。


 給水と排水を改善しなければ、患者は増える。


「これは、読みました」


 母が言った。


 律は顔を上げた。


 母は、受領欄の脇にある書き込みを指した。


 細く、右上がりの字だった。


〈給水の改善を急がせること。医師および物資を追加。〉


 律の知っている字だった。


「派遣は?」


「医師一名が、三日後に到着しております」


 文書官が答えた。


「薬品の搬入は、その翌日。井戸の掘削は……」


 彼は頁を繰った。


「十九日後です」


「十九日?」


 母が繰り返した。


「掘削具と運搬車の手配に遅れが出たと」


「その間、工事は続いていますか」


 律が尋ねた。


 誰もすぐに答えなかった。


 元書記が、別の簿冊を開いた。


「続いております。主要工区を先に終えなければ、雨季に間に合わないため」


 律は物資の配分表を見た。


 車両は、工事現場へ出ていた。


 石材と鉄材を運ぶ予定で、日付が埋まっている。


 仮設集落の給水に必要な車も、同じところから出すはずだった。


「止めるよう、進言はなかったのですか」


 母は、箱の底に近い一冊を示した。


「その中に、あるはずよ」


     


 母の署名は、頁の下にあった。


 上には、二つの意見が並んでいた。


 医務官は移転の中断を求めていた。


 工事局は、雨季前の完成を逃せば、下流の都市と耕地が再び危険にさらされると訴えていた。


 母の裁可は、工事の継続だった。


 衛生対策を同時に進めること。


 医療支援を増やすこと。


 その条件を付けたうえで、移転を続けること。


 律は署名から目を離せなかった。


「母上が、決めたのですね」


「ええ」


「病気が広がっていると知っていて」


「知っていた」


 速記官の筆先が、紙を擦った。


「なぜ」


 母は、地図を引き寄せた。


 下流の街を指で押さえた。


「前年には、ここで大勢が家を失った。倉庫が浸かり、備蓄が腐った。次の雨季までに工事が終わらなければ、同じことが起きると報告された」


「だから、移転を」


「続けさせた。医師と水を届ければ、病気は抑えられると考えた」


 母は自分の署名を見た。


「届く速さを、確かめ切らなかった」


 律は黙っていた。


 怒鳴られるより、言い逃れをされるより、苦しかった。


 母が、何も考えずに命じたのなら、責める言葉を見つけられたかもしれない。


 だが、そこには別の土地に暮らす人々がいた。


 前年の洪水で死んだ人がいた。


 その人たちを救おうとした署名で、こちらの集落には病人が増えていた。


「決めたあと、現地へ行きましたか」


「工事の完成前に、一度」


「仮設集落へは?」


 母は首を横に振った。


「行かなかった」


「なぜですか」


「日程を変えるべきではないと、警備と工事局に言われた。私も、それを受け入れた」


 律は、記念式典の帽子の列を思い出した。


 自分は、あの中にいた。


 母の隣で花束を受け取った。


 速記官が紙を替えた。


 その小さな音で、ようやく律は顔を上げた。


     


 午後になって、一枚の指示書が見つかった。


 地方評議会に、診療所の月報の写しが提出されかけていた。


 それを保留するよう、内務局から通知が出ていた。


〈事業継続への混乱を避けるため、関連報告は中央に集約し、対外説明を統一する。〉


 律は日付を確かめた。


 最初の死者が出てから、十二日後だった。


「これは?」


 母の顔が変わった。


 文書官は、指示書の裏を見せた。


 宮廷への報告欄があった。


 その横に、短い書き込みがある。


〈説明の混乱を避ける措置を了承。〉


 母の印が押されていた。


「母上」


「覚えている」


 彼女は言った。


「現地で、工事を止めれば病気は消えるという噂が広がっていた。給水路を壊そうとした者もいると報告された」


「死者の報告を、議会へ出さない理由になりますか」


「ならないわ」


 あまりに静かな返事だった。


 律は、用意していた次の言葉を失った。


「私は、出ている情報を整理するつもりで承認した。けれど、この措置で、現地の人が私たちの説明と違うことを言う場所まで塞いだ」


 母は速記官へ目を向けた。


「今の発言は、残して」


 青年は深く頭を下げ、慌てて筆を動かした。


「この印は、私のものです」


 母は続けた。


「知らなかった部分があることと、私が承認したことは、別に記録して」


     


 閲覧を終えたとき、外はもう暗かった。


 文書官たちは、持ち出された頁を一枚ずつ数えた。


 律は窓際に立った。


 中庭に電灯が点っていた。


 以前は、灯火係が梯子を持って歩いていたという。今は離れた場所の操作で、庭の灯りが一斉に点く。


 書類の中には、この宮殿の照明工事に使われた費用も載っていた。


 治水工事と同じ年度だった。


 直接の関係はない。


 そう考えたあとで、なぜ自分がすぐにそう言い聞かせたのか、律は気づいた。


「私を、軽蔑した?」


 母の声がした。


 文書官たちは隣室へ移っていた。


 律は振り返った。


 母は卓の向こうで、一人座っていた。


「分かりません」


 彼は答えた。


「今、何を思えばいいのか」


「そう」


「でも、これを見せてくれた母上を、軽蔑したくはありません」


 母の表情が揺れた。


 そのあと、ゆっくり首を振った。


「そのことを、取り引きにしては駄目よ」


「取り引き?」


「書類を出したから許されるなら、私は、いつ何を出すかで、あなたの気持ちまで動かせる」


 律は母を見つめた。


「母上は、僕にどうしてほしいのですか」


 彼女はすぐには答えなかった。


 卓上には、裁可書が残っている。


「今夜だけなら、何も聞かずに、そばに座っていてほしい」


 律は目を伏せた。


「明日は?」


「明日は、また調べなさい」


 彼は母の隣へ椅子を運んだ。


 しばらく、二人とも話さなかった。


     


 アンナと会ったのは、二日後だった。


 新聞社に近い、小さな部屋だった。


 下では印刷機が動いている。床を通じて、足裏に振動が届いた。


「眠っていないでしょう」


 彼女は律の顔を見るなり言った。


「少しは」


「少し、は便利な言葉ね」


 アンナは窓を閉めた。


 室内には、刷り上がった紙と熱い油の匂いが混じっていた。


 律は椅子へ座らず、鞄から紙を出した。


「頼みたいことがある」


 彼女の手が止まった。


 律は、その一瞬を見た。


 記事を止めろと言われるのだと、彼女は思った。


 彼は紙を卓へ置いた。


「治水工事で移転させられた村を、取材してほしい」


 アンナは彼を見た。


「会社の事故とは、別の件?」


「母の治世のことだ」


 彼女は紙へ目を落とした。


 律が記したのは村名と年月、現在の移転先、それから文書の所在だった。


「これは、そのまま記事にしてほしいという意味?」


「まだ、僕の説明だけでは書かないでほしい」


「それは、こちらで決めることよ」


「うん」


 律は頷いた。


「君自身で、話を聞いてほしい。僕が同席しないところで」


 アンナは紙を読み直した。


「資料は、私にも見られるの?」


「閲覧を認める手続きを求める。君だけでなく、ほかの新聞と研究者にも」


「陛下は?」


「まだ話していない」


 彼女は顔を上げた。


「先に、私へ?」


「母に許してもらってからでなければ、こんな話もできないのか。それが、分からなくなった」


 アンナは紙を卓へ戻した。


 外の通りを、荷車が通った。


「私に、あなたを許すことはできないわ」


「許してほしいんじゃない」


「でも、そう聞いてしまいそうになるの。あなたが苦しそうだと」


 律は口を閉じた。


 アンナは近づき、彼の頬へ触れた。


「だから、今は少しだけ、仕事の話をやめる」


 彼女の手は、温かかった。


 律はその手首に額を寄せた。


「会いたかった」


「私も」


 顔を上げると、彼女はすぐそばにいた。


 唇が触れた。


 印刷機の音は、止まらなかった。


 誰かが階段を駆け上がり、扉の前を通り過ぎた。


 二人は少し離れ、それから、互いの額を合わせた。


「この取材で、君が母を傷つけるかもしれない」


 律は言った。


「ええ」


「僕も、君を恨むかもしれない」


 アンナの指が、彼の襟元で止まった。


「そのときは、私に言って」


「記事を変えてくれる?」


「変えるべき間違いがあれば」


 律は目を閉じた。


 少しして、小さく笑った。


「君は、優しくない」


「今、かなり優しくしているつもりだけれど」


 彼は彼女を抱き寄せた。


 アンナの腕が、ゆっくり背中へ回った。


     


 宮殿へ戻ると、律の机に一通の封書が届いていた。


 柊家の事業評議会からだった。


 西部工場に関する調査への協力は継続する。


 ただし、企業の会計記録には、王室の資産運用と国家事業に関する支出が含まれる。


 それらを第三者へ開示するには、陛下の裁可が必要である。


 律は椅子に座った。


 アンナが追っている政治献金の帳簿も、同じ理由で止められるのだと分かった。


 続く頁には、宮廷の法務官の見解が添えられていた。


 皇太子には、独立して公開を決める権限はない。


 王室財産に関する裁可は、君主に属する。


 律は最後まで読んだ。


 昨日なら、母に署名を求めに行っただろう。


 今日も、それが一番早い。


 母が認めれば、開く。


 母が認めなければ、閉じたままになる。


 彼は封書を持って、地下へ降りた。


     


「公開する権限が、ないそうです」


 律が読み上げると、CHUYUはしばらく黙っていた。


「どの記録も?」


「王室に関わる部分は」


「では、持ち主と、公開を決める人が同じなのね」


「そういうことになる」


 律は帳面を開いた。


「母が許せば、見せられる」


「あなたは、それを頼むの?」


「頼めば、認めてくれるかもしれない」


 口にしてから、律は筆を置いた。


 CHUYUは促さなかった。


 隣室で、当直の技師が椅子を動かした。


「僕が継いだら、僕が決めることになる」


 律は言った。


「その次は、僕の子が」


 頁の上に、母の署名を写した紙があった。


 工事を続ける署名。


 説明の統一を認める印。


 そして、書類の閲覧を認めた、数日前の署名。


 どれも同じ手で書かれていた。


 律は新しい頁を開いた。


「まず、法務官に聞いてみます」


「何を?」


「陛下の署名がなくても、記録を見られるようにするには、何を変えなければならないのか」


 CHUYUの声が返った。


「長い話になりそうね」


「ええ」


 律は帳面へ、その問いを書いた。


 その下に、まだ余白があった。



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