第八十九章 母の声、記録の声
母は、一人で地下へ降りてきた。
侍従は階段の上で待たせてあるという。いつもの胸飾りも、肩に留める徽章もなかった。
律は入口で迎えた。
「技師たちは?」
「隣室です。電源と冷却は見ています」
「そう」
母は手袋を外した。
その指が、扉の縁に一度触れた。
律は先に立とうとしたが、母は動かなかった。
「お母様?」
「少し、待って」
顔を見て、彼は黙った。
国務会議でも、外国の使節との会見でも、母が扉の前で立ち止まるところを見たことはなかった。
やがて彼女は、小さく息を吸った。
「もう、大丈夫」
作業台の音声器具を見たとき、母の足が止まった。
部屋の奥には、白い布をかけた義体がある。
視線はそちらへ向き、それから、小さな黒い筒へ戻った。
「ここから、話すのね」
「はい」
律が答えるより先に、声がした。
「澪?」
母の唇が開いた。
すぐには声にならなかった。
「……ええ」
「来てくれたのね」
「来たわ」
母は椅子に座らなかった。
作業台の前に立ち、両手で手袋を握っていた。
「私の声、分かる?」
「分かる」
短い返事だった。
母は笑おうとした。
「ずいぶん、変わったでしょう」
「聞いているところよ」
母の指が、手袋を強く握った。
「あなたは、変わらないのね」
「それは、まだ分からない」
CHUYUの声は穏やかだった。
「長く止まっていた。読めない記録もあるし、あなたの顔も見えない」
母はゆっくり頷いた。
それから、見えていないことに気づいて言い直した。
「ええ。そうね」
律は椅子を引いた。
母はようやく腰を下ろした。
「黎明のことを、話してくれる?」
母は膝の上へ手を置いた。
「律から聞いたのね」
「亡くなったことは」
「そう」
天井の灯りが、母の髪を照らしていた。
白いものが増えていることを、律はそのとき初めてはっきり見た。
「最期は、眠る時間が長くなっていたわ。食べる量も、少しずつ減っていた」
母はゆっくり話した。
「医師たちは、苦しくないようにしてくれていた。少なくとも、そう努めていた」
「あなたは、そこにいた?」
「最後の朝には、間に合わなかった」
律は顔を上げた。
母は机の木目を見ていた。
「前の晩には会ったの。もう遅いから帰れと言われて。翌朝、知らせが来たときには……」
言葉が途切れた。
CHUYUは待った。
「もう一晩、いればよかったと、何度も思った」
「前の晩には、何を話したの?」
母はしばらく考えた。
「窓を開けてほしい、と。部屋が暑いと言っていたわ。私は、冷えるから少しだけと答えた」
彼女の口元が、かすかに動いた。
「そんな話よ」
「ほかには?」
「水を飲んだ。枕を直した。それから、私がまだ部屋にいるのを見て、帰りなさい、と」
母は両手を重ねた。
「もっと、何か聞けたはずなのに」
音声器具から、小さな雑音がした。
CHUYUはすぐには話さなかった。
「聞きたかったことは、今もある?」
「あるわ」
「私にもある」
母は顔を上げた。
声のする場所を、まっすぐ見た。
律は、静かに立ち上がった。
「外で待っています」
母は彼を見た。
引き留めなかった。
「ありがとう」
扉を閉める直前、律は母の声を聞いた。
「あなたのことも、話したのよ」
返事は、閉まる扉に遮られて聞こえなかった。
廊下には、冷却水の流れる音が響いていた。
律は壁際の長椅子に座った。
隣室から主任技師が顔を出した。
「異常はありません」
「ありがとうございます」
主任は戻りかけ、律の顔を見て足を止めた。
「茶を?」
「いただきます」
渡された茶は、渋かった。
律は両手で湯飲みを包んだ。
昨夜から開いていた帳面は、上着の内側にある。
最初の頁には、三つだけ書いていた。
家史の記述。
原記録。
確認できないこと。
線を引いて分けたその頁を、母にはまだ見せていなかった。
扉が開いたのは、茶が冷めたころだった。
母は手袋を片方だけ着けていた。
「もう、よろしいのですか」
「今日は、ここまでにするわ」
彼女は律の隣へ座った。
宮殿の廊下にある椅子なら、付き添いが先に座面を確かめる。ここでは母が自分で腰を下ろし、少し背を丸めた。
「懐かしかったですか」
尋ねると、母は首を横に振りかけた。
「懐かしいだけなら、よかったのだけれど」
律は黙って待った。
「私が知っていることを、あの人は知らない。あの人が覚えている日の私は、もう、ここにはいない」
母は着けていない方の手袋を見た。
「それでも、澪と呼ばれると、返事をしてしまうのね」
律は母の横顔を見た。
彼には、その名を持つ母の人生のうち、知らない部分があまりに多かった。
翌日、アンナから短い便りが来た。
〈エミルの母親が、職場を変えられました。
本人の希望だったと、会社は答えています。
私は、本人に確認します。〉
律は二度読んだ。
調査を命じた。
報告を待っていた。
その間にも、誰かは配置を変え、書類を整えていた。
彼は返事を書きかけて、手を止めた。
宮殿へ呼び出せば、母親は断れないだろう。
工場へ行けば、また監督の前で尋ねることになる。
律は事業評議会の書記を呼んだ。
「事故に関する書類と、記事が出てからの人事記録を保全してください。原本の差し替えを認めないように」
「承知しました」
「調査を受ける人の上司に、聞き取りを任せないでほしい」
書記の筆が止まった。
「では、どなたに」
「工場と雇用関係のない者を選びます。本人が代理人を立てるなら、同席を認めてください」
「そのような手順は、前例が……」
「費用と人選を、今日中に相談しましょう」
書記が去ると、律はアンナへ返事を書いた。
〈知らせてくれて、ありがとう。
記録の保全と、会社から離れた聞き取りの準備を進める。
まだ、彼女を守れると約束できる段階ではない。
それでも、配置が変わった理由を、会社の回答だけで終わらせない。〉
書き終えても、胸の重さは消えなかった。
自分の便りが届くより先に、彼女は今日も新しい職場へ行っている。
CHUYUが家史の最初の照合結果を示したのは、その日の夕方だった。
律は昨日の帳面を開いた。
保管責任者も同席している。中枢から読み出した文字列を、新しい記録装置へ受け取る作業が始まっていた。
ただし、転記には時間がかかった。
読める形式への変換が必要なものもあり、破損した部分は空欄として残された。
「今日は、一件だけ」
CHUYUが言った。
「女神の鉄槌について」
律は家史の栞を開いた。
そこには、一枚の挿絵があった。
空から降り注ぐ光。
膝をつく敵兵。
遠くで両手を合わせる民。
律は子どものころ、その絵を指でなぞったことがある。
「本文を読んで」
求められ、彼は読み上げた。
「神意を騙り、民を虐げた勢力は、天より下された鉄槌によって潰えた。これにより諸領は大戦を免れ、帝国統一の礎が築かれた――」
「そこまでで」
律は口を閉じた。
「私の記録では、使われたのは装置による攻撃。威力と投射条件を事前に検討している」
保管責任者の筆が止まった。
律は挿絵を見た。
「神罰では、なかった」
「少なくとも、攻撃を行った側は、何が起きるか知っていた」
「誰が決めたのですか」
「命令と、その前後の記録を分けて確認する必要がある。今、読めている部分だけで、全員の関与は確定できない」
律は帳面に書いた。
命令系統、未確認。
「犠牲者は?」
「推定値が残っている」
CHUYUが数字を告げた。
律は筆を止めた。
家史には、数字がなかった。
敵勢力が潰えた、としか書かれていない。
「全員、兵士ですか」
「そうは確認できない」
「では、民間人も」
「攻撃範囲に、兵士以外の人がいた可能性を示す記録がある。ただし、私は一人ずつの身元を知っているわけではない」
律は、告げられた数字の横に線を引いた。
確定した死者数ではない。
それでも、書かなければいなかったことになる。
「この攻撃で、大戦は避けられたのですか」
「その後に起きた戦闘と、起きなかった戦闘は、同じようには数えられない」
CHUYUは答えた。
「攻撃によって降伏した勢力はある。それを、ほかの選択がすべて不可能だったという証明にはできない」
律は長く、その頁を見つめた。
英雄の決断。
幼いころ、そう教えられた。
何人もの教師が、同じ言葉を使った。
彼は挿絵の下へ紙を挟み、見えなくした。
だが、本は閉じなかった。
「あなたは、止めなかったのですか」
律が尋ねると、部屋の空気が変わった。
保管責任者が顔を上げた。
CHUYUはすぐに答えなかった。
「私の応答記録にも、確認が必要」
「覚えていない?」
「記憶として参照できる部分と、原記録として照合できる部分が、完全には重なっていない」
律は声を落とした。
「すみません」
「聞いていい」
CHUYUは言った。
「私は記録を示す側にいる。でも、それだけで、その出来事の外に立てるわけではない」
保管責任者の筆が、再び動き始めた。
「私が提供した情報や、止めようとして伝えたこと、伝えなかったこと。それも調べて」
律は顔を上げた。
「あなた自身の記録も?」
「ええ」
彼は帳面の頁を一枚めくった。
CHUYUの関与。
そう書くと、音声器具の向こうから声がした。
「まだ結論は書かないでね」
「書いていません」
「よかった」
ほんの少し、空気が緩んだ。
律はその声を聞きながら、ようやく息を吐いた。
照合は、一つの出来事で終わらなかった。
兄弟の争いを扱った章には、途中から出所のない説明が増えていた。
家史では、裏切りと和解が鮮やかに描き分けられている。だが、残っている書簡には、返事のない問いがあり、同じ日の命令に食い違いがあった。
事故報告には、別の問題があった。
CHUYUが保管していた写しと、後年の編纂資料で、行数が違っていた。
「ここです」
保管責任者が、二枚の転記を並べた。
律は指で追った。
機械の異常についての記述。
作業継続の指示。
医師の到着時刻。
その間にあった数行が、編纂資料では抜けていた。
「写し間違いでしょうか」
責任者が言った。
「その可能性も残して」
CHUYUが答えた。
「ただ、一度ではない」
律は抜けた箇所を読んだ。
そこには、人の名があった。
数ではなかった。
誰かの姓と、誰かの名。
律は一人目を帳面へ写した。
二人目を書き終えたとき、母が幼い自分の名を教えてくれた日のことを思い出した。
律。
何度も書き直し、母がその上へ小さな丸をつけた。
この人たちにも、字を教えた誰かがいただろう。
母の治世に入ったところで、律は一度、作業を止めた。
「今日は、ここまでにしますか」
保管責任者が尋ねた。
律は返事をせず、並べられた書類を見た。
河川工事の完成報告だった。
母が即位してから進めた、大規模な治水事業の一つ。
氾濫は減った。
下流に耕地が増え、収穫量が上がった。
律も記念式典へ連れていかれたことがある。まだ背が低く、演壇からは人々の帽子ばかり見えた。
「これは、どこから?」
「私の停止後の記録よ」
CHUYUが答えた。
「保管責任者が接続してくれた公文書の写し。私自身が見た出来事ではない」
律は二枚を並べた。
一枚は工事局の完成報告。
もう一枚は、現地の診療所から上がった月報だった。
工事局の報告では、住民移転は完了していた。
診療所の記録では、移転先で発熱と下痢が広がっていた。
死者が記されていた。
幼い子どももいた。
律は、その月を見た。
記念式典の、ひと月前だった。
「これは、宮殿へ届いていますか」
「受領印はあるわ」
CHUYUが言った。
「ただし、それでお母様が読んだとまでは言えない」
律は受領印を見た。
日付。
部署。
担当者の署名。
その先は、まだ分からなかった。
「調べます」
彼は言った。
声が、自分でも驚くほど小さかった。
夕食の席で、母は律の皿を見た。
「食べていないわね」
「少し、考え事を」
「地下のこと?」
「はい」
母は使用人へ目を向けた。
皿を下げる手が止まった。
「少し、二人にして」
扉が閉まると、食堂は急に広くなった。
律は用意してきた書類を、卓上へ置いた。
「この治水工事を、覚えていますか」
母は表題を見て、頷いた。
「覚えているわ」
「移転先で、病気が出ています」
「ええ」
律は母を見た。
否定されると思っていたわけではない。
それでも、返事の早さに息が詰まった。
「亡くなった人も」
「知っている」
「工事の完成報告には、ありません」
母は書類を引き寄せた。
目を通すあいだ、律は膝の上で手を握っていた。
「当時の記録を、全部集めなければ話せないことがある」
母は言った。
「これだけを見て、説明してほしくありません」
「律」
「僕は、この工事を誇りに思っていました」
言った瞬間、子どものような言い方だと思った。
母も、そう聞いただろうか。
だが彼女は、諭すような声を出さなかった。
「誇りに思っていた人は、あなたのほかにもいるわ」
「亡くなった人の家族も、そうでしょうか」
母は目を閉じた。
しばらくして、書類を卓へ戻した。
「明日、当時の報告を取り寄せます」
「母上が読んだものも、読まなかったものも、分かるようにしてください」
母は彼を見つめた。
その目に浮かんだものを、律は読み切れなかった。
やがて、母は頷いた。
「分かったわ」
律は席を立てなかった。
聞くべきことを聞いた。
それなのに、母を傷つけたことしか感じられなかった。
母も立たなかった。
二人の間で、料理が冷めていった。
夜更け、律は地下へ戻った。
CHUYUはすぐに彼だと分かった。
「話したのね」
「はい」
「どうだった?」
「母は、知っていました」
声に出すと、また胸が痛んだ。
「僕は、知らなければよかったと思いました」
CHUYUは黙っていた。
「一瞬です。でも、そう思った」
律は作業台に手をついた。
「母を疑うために、あなたを起こしたわけではないのに」
冷却水の音が続いていた。
「その気持ちも、帳面に残しておけば?」
CHUYUが言った。
「何のために」
「あとで、自分がどこで読むのをやめたくなったか、分かるように」
律は椅子に座った。
帳面を開き、しばらく白いところを見ていた。
それから、短く書いた。
〈母が知っていたと聞き、調査をやめたいと思った。〉
筆先が止まった。
「CHUYU」
「何?」
「あなたは、母をどう思いますか」
「会ったばかりの今の澪と、私の記録にいる澪と、まだうまくつながっていない」
「そうですか」
「だから、また話したい」
律は顔を上げた。
音声器具は、動かなかった。
小さな黒い筒の向こうに表情はない。
それでも、母が今朝この部屋へ来たことを、彼女も大切にしているのだと分かった。
「僕もです」
律は言った。
帰る前に、彼は保管責任者への指示を書いた。
読み出した原記録は、原本と転記を分けて保管すること。
欠損した箇所を、推測で埋めないこと。
閲覧した者と、複写した箇所を記録すること。
筆を置いたあと、彼はもう一行を加えた。
〈皇太子の要請によっても、原記録の削除および改変を行わない。〉
その一行を、長く見た。
「署名したの?」
CHUYUが尋ねた。
「これからです」
律は公的な名を書いた。
リヒト。
乾くのを待ってから、紙を立会人用の机へ置いた。
母を愛している。
その気持ちは、今日も変わらなかった。
ただ、明日取り寄せられる書類の中に、母に読んでほしくない頁があったとしても、もう、自分の手で抜くことはできない。
律は帳面を閉じ、灯りの残る部屋を出た。




