第八十八章 声の帰る日
最初に復旧したのは、天井の照明だった。
地下室の隅で、小さな電球が頼りなく光った。
技師たちは誰も歓声を上げなかった。主任技師は壁の計器をにらみ、若い助手は時計を見ながら数値を帳面に書きつけた。
しばらくして、電球が一度だけ暗くなった。
「駄目だ」
主任が言った。
「今の落ち込みを、中枢へ通すわけにはいかない」
助手が唇を噛んだ。
「発電機の回転は、ほとんど変わっていません」
「ほとんど、では足りないらしい」
主任は保管記録を指で叩いた。
そこに書かれた許容値は、彼らが工場で扱う機械より、はるかに厳しかった。
律は作業台の脇で、冷めた茶を飲んでいた。
「何が要りますか」
「調整器の作り直しを。それと、蓄電池を増やしたい」
「見積もりを出してください」
「もう三度目です」
「僕も数えています」
主任がようやく彼を見た。
「殿下は、いつまで待てますか」
律は天井の電球を見上げた。
「壊さずに済むまで」
調査開始から七週間が過ぎていた。
宮殿では、皇太子が地下の古道具に金を注ぎ込んでいる、と囁かれていた。
支出は柊家の研究費から出している。それでも、家の会計係は渋い顔をした。
「同じ額で、新しい紡績機を何台買えるか、ご存じですか」
「知りません。比較表を作ってください」
翌日には、表が届いた。
律は目を通し、研究所へ持っていった。
主任技師はそれを見て、低く唸った。
「嫌なものを見せますね」
「僕も、そう思いました」
「やめますか」
「あなたは?」
主任は返事の代わりに、作業着の袖をまくった。
冷却水の循環管には、まだ目に見えない漏れがあった。
古い接続部の封止材は硬化している。似た材料を使うだけでは、長く持たない。技師たちは保存されていた整備記録を読み、意味の分からない単語を別の帳面から探し、使える継手を一つずつ確かめた。
中枢そのものは、開けなかった。
保管槽の診断端子へ電力を通せるようになってから、内部の状態を調べた。
補助電源の高密度部品に異常が一つ見つかった。
この世界の工房では作れないものだった。
棚に残されていた予備品の箱を開くと、同じ番号の部品が二つ入っていた。
主任は、しばらくそれを見つめた。
「一つ使えば、残りは一つです」
「はい」
「動かない理由が、これだけとは限りません」
律は、箱の蓋に残る古い筆跡を見た。
これを収めた人も、いつか予備が尽きることを考えただろうか。
「交換した理由と、外した部品の状態を残してください」
「もちろんです」
「次の人が、同じところからやり直さずに済むように」
主任は頷いた。
外された小さな部品は捨てられず、日付を書いた箱へ移された。
アンナの記事が載ったのは、そのころだった。
朝刊の一面ではなかった。
三面の、下半分だった。
律はそれを意外に思ったが、読み終えるころには、その場所の意味が分かった。
記事は皇太子を責めていなかった。
女帝の名も、見出しにはなかった。
西部工業地区で起きた三件の事故と、負傷者への補償契約、事故前に出されていた修繕申請を、日付に沿って並べていた。
少年の名は伏せられていた。
それでも、律には分かった。
左腕を失った十五歳の少年が、その後も同じ作業場で油を拭いている。
その一行を、彼は二度読んだ。
会社側の回答も載っていた。
〈規定に従い、適正に処理している。〉
律が担当者から聞いた説明と、ほとんど同じだった。
昼には、柊家の事業評議会から呼び出された。
「殿下が、あの記者に資料を渡されたのですか」
年長の評議員が尋ねた。
「渡していません」
「では、なぜ、これほど内部の事情に詳しいのでしょう」
「働いている人に聞いたからでしょう」
「社員には守秘の義務があります」
「腕を失ったこともですか」
部屋が静かになった。
律は卓上の新聞を引き寄せた。
「記事に誤りがあるなら、訂正を求めてください」
「そういう問題ではありません。取引先も読んでおります」
「なら、取引先にも説明が必要です」
「殿下」
評議員は声を落とした。
「いずれ、これらすべてをお継ぎになるのですよ」
律は窓の外へ目を向けた。
中庭では、庭師が剪定した枝を束ねていた。
誰もが彼に同じことを言う。
いずれ、あなたのものになる。
だが、エミルの腕が失われたとき、彼のものだったのは何なのだろう。
「調査をしてください」
律は言った。
「記事にある事故と、その後の処理について。現場の責任者だけで終わらせず、修繕の費用を誰が止めたのかまで」
「それは、会社の信用を――」
「調査をしない理由も、記録に残してください」
評議員の顔から、表情が消えた。
その日の夕方、研究所に着いた律は、いつもより長く手を洗った。
水が冷たかった。
怒りに任せて言ったつもりはない。
それでも、最後の一言で相手を従わせたことは分かっていた。
工場の少年に質問したときと、同じだった。
再起動試験の日、母は来なかった。
国務会議がある、と伝言があった。
代わりに、短い手紙が届いた。
〈無理をさせないように。
人にも、残されたものにも。〉
律はそれを上着の内側に入れた。
地下室には、六人の技師と保管責任者が集まっていた。
隣室で発電機が回っている。
蓄電池は満充電。電圧の記録は、昨日から許容範囲を保っていた。冷却水の流れも安定している。
白い布をかけられた義体は、部屋の奥に横たわったままだった。
そちらの接続は外されている。
関節の駆動部も、感覚系も、まだ検査が終わっていなかった。中枢が起動できたとしても、人の姿で目を開けることはない。
作業台の上には、ありふれた音声用の器具が置かれていた。
振動板と、黒く塗られた小さな筒。
未来から来た声が通るには、あまりに粗末に見えた。
「途中で異常が出たら、こちらで止めます」
主任が言った。
律は頷いた。
「お願いします」
保管責任者が記録を読み上げた。
日付。時刻。立会人。
そのあとで、主任が最後の接続を入れた。
筐体の奥で、小さな光が点った。
助手が息を呑んだ。
「補助系、応答しています」
「温度は」
「上昇しています。範囲内」
律には、正面に浮かぶ文字の一部しか読めなかった。
短い表示が現れ、消えた。
また現れた。
長い時間が過ぎたように思えたが、壁の時計は二分しか進んでいなかった。
音声器具から、乾いた雑音がした。
主任が片手を上げた。
全員が動きを止めた。
もう一度、雑音。
それから、声がした。
「……黎明は、どこ?」
律は答えられなかった。
呼びかけは、あまりにも自然だった。
隣の部屋へ行った子どもを探すような声だった。
家史の中の名が、突然、誰かの待っている人になった。
「黎明?」
もう一度、声がした。
「呼んでもらえる?」
律は作業台へ近づいた。
「僕は、律といいます」
自分の声が掠れた。
「公的には、リヒトと」
短い沈黙があった。
「あなたは、誰の子?」
「澪の息子です」
「……澪」
その名が、ゆっくり繰り返された。
何かを確かめるような間があった。
「現在の日付を教えて」
保管責任者が答えた。
声は、すぐには戻らなかった。
隣室の発電機の音が、急に大きく聞こえた。
「暦は、変わっていない?」
「はい。起算は同じです」
「記録の欠損ではないのね」
責任者が律を見た。
律は頷いた。
「長い間、停止していました」
「黎明は?」
彼は手を握った。
「亡くなっています」
声が途切れた。
助手が計器へ顔を寄せた。
主任は何も言わず、その肩に手を置いた。
律は続けた。
「僕が生まれるより、前に」
天井の電球が、小さく唸っていた。
誰も、時計を見なかった。
「……そう」
ようやく、声が返った。
「亡くなったの」
「はい」
「苦しんだ?」
律は口を開き、閉じた。
家史に書かれた最期なら、知っている。
穏やかだった、と。
一族に見守られた、と。
だが、その場にいた人から聞いたことはなかった。
「分かりません」
彼は答えた。
「確かめずに、穏やかだったとは言えません」
また、間があった。
「分かった」
声は静かだった。
「あとで、記録を読ませて」
再起動後の確認は、予定より長くかかった。
CHUYUは、自分の状態を一つずつ調べた。
使える記憶領域。
読み出せない箇所。
接続されていない外部装置。
彼女は義体を動かすよう求めなかった。
「今はつながないで。こちらから確認できない経路が多すぎる」
主任が、深く息を吐いた。
「助かります。正直、そちらはまだ手に負えません」
「交換した部品の記録はある?」
「ここに」
「読み取れる場所に置いて」
助手が紙を持ち上げ、そこで困った。
目が、ない。
律も同時に気づいた。
「僕が読みます」
「お願い」
律は交換の日付と部品番号、検査時の異常を読み上げた。
CHUYUは途中で二度、同じ箇所を繰り返させた。
読み終えると、彼女は言った。
「外した部品は?」
「残しています」
「ありがとう。まだ、役に立つかもしれない」
主任は、何か言おうとして顎を引いた。
七週間のあいだ、彼が保管記録に向かって投げていた問いに、初めて返事が来ていた。
午後、技師たちが交代で食事に出ると、部屋は静かになった。
律は椅子を引き寄せた。
椅子の脚が、床を擦った。
「座ったの?」
「はい」
「疲れているなら、休んで」
「あなたは?」
「まだ、自分の状態を調べているところ」
律は頷きかけ、見えていないことを思い出した。
「分かりました」
少しして、CHUYUが尋ねた。
「あなたの名前。律は、どんな字?」
彼は古い文字の形を、言葉で説明した。
母に習ったときと同じように。
「読める人が、まだいるのね」
「家では、教わります」
「話すのは?」
「少しだけ」
律は迷ってから、日本語で言った。
「おかえりなさい」
発音が正しかったか、不安になった。
しばらくして、同じ言葉で返事があった。
「ただいま」
律は俯いた。
なぜ胸が詰まるのか、自分でも分からなかった。
彼女の帰りを待ったことはない。
彼女と過ごした記憶もない。
それでも、長いあいだ家に残っていた空席へ、誰かが戻ってきた気がした。
「その言葉、誰に教わったの?」
「母です」
「澪が」
「はい」
CHUYUはそれ以上、尋ねなかった。
律は膝の上の手を開いた。
「母に、会いたいですか」
「会いたい」
返事は早かった。
それから、少し間を置いて続いた。
「でも、今日は来なくてもいい。私も、聞いたことを整理したい」
「伝えます」
「律」
「はい」
「黎明のことを教えてくれて、ありがとう」
彼は何も答えられず、ただ椅子に座っていた。
その夜、律は母の執務室へ行った。
扉が開くと、母は立っていた。
いつもなら書類から目を上げる人が、その日は何も手に持っていなかった。
「動いたのね」
「はい」
「話した?」
「話しました」
母の喉が、かすかに動いた。
「最初に、何と?」
律はためらった。
母はそのためらいを見て、視線を落とした。
「……黎明のこと?」
「どこにいるのか、と」
母は机に指を置いた。
そのまま、しばらく動かなかった。
律は、朝まで生きていた人の訃報を告げに来たような気持ちになった。
母にとっては、何年も前の死だった。
CHUYUにとっては、今日だった。
「答えたの?」
「はい」
「そう」
母は椅子に座った。
背もたれには寄りかからず、両手を膝に置いた。
「会いたいと言っていました」
母は目を閉じた。
「私もよ」
その声は小さかった。
律は退出しかけて、立ち止まった。
「母上」
「何?」
「黎明様の最期を、知っていますか」
母は顔を上げた。
「CHUYUに聞かれました。苦しんだのか、と。僕は、分からないと答えました」
長い沈黙のあと、母は頷いた。
「私から話すわ」
*
地下へ戻ると、作業台の灯りだけが残っていた。
当直の助手が、入口の机で数値を記録している。
律の足音に、声が応じた。
「お母様に会えた?」
「はい。明日、ここへ来るそうです」
「ありがとう」
律は椅子に座った。
机の端には、昼間、保管責任者が運んできた家史が置かれていた。CHUYUへ今の時代を伝えるため、どこから読めばよいか、まだ決めていなかった。
「何か、読みましょうか」
「あなたは、もう休んだ方がいい」
「少しだけなら」
「では、目次を」
律は厚い表紙を開いた。
空一郎の渡来。
黎明の治世。
産業の勃興と帝国の危機。
彼は章題を順に読み上げた。
ある箇所で、CHUYUが止めた。
「今の、もう一度」
「女神の鉄槌と、帝国の救済」
声が途絶えた。
律は頁の上に指を置いたまま待った。
「それが、この本での名前なのね」
「違うのですか」
「その出来事に関する記録が、私の中にもある」
律は顔を上げた。
「読めますか」
「全部ではない。照合も必要」
「この本には――」
「律」
彼は口を閉じた。
「今、その本を閉じずに、そばへ置いておいて」
「なぜ?」
「あとで、一緒に読むために」
律は家史を見下ろした。
幼いころから知っている本だった。
挿絵の位置も、母が読んでくれた頁も覚えている。
彼は指を挟んでいた箇所へ、栞を入れた。
そして、机の引き出しから、新しい帳面を取り出した。




