第八十七章 栄光編 Prologue 二つの名前
これまでのあらすじ ――柊家、三代の歩み
【空一郎の帝国――始祖・空一郎と、初代・黎明】
時空転移の事故によって異世界へ漂着した柊空一郎は、故郷へ帰る術を失いながらも、AI《CHUYU》とともに新たな土地で生き始める。科学の知識を人々へ伝え、医療、農業、工業を育てた彼は、愛する者たちと家族を築き、やがて帝国の礎を残した。
その志を継いだ息子・黎明は、宰相として国の制度を整え、憲章によって権力を律する道を模索する。鉄道と電信が距離を縮め、柊家は国を支える存在へ成長した。しかし、受け継がれた知識と莫大な富は、次の世代に新たな争いをもたらす。
【復讐編――二代目・暁人】
黎明の子ら、暁人、星司、灯花。家族を結んでいた絆は、秘密と不信、そして復讐によって傷ついていく。
暁人は鉄道と資金の網を使い、敵を追い詰める。だが、証拠を得るために続けさせた危険な取引が惨事を招き、星司は妻を失った。暁人が勝利を収めても、弟の喪失は埋まらず、妹・灯花の取りなしも兄弟の隔たりを消すことはできなかった。妻クララへの愛さえ、その勝利に安らぎを与えなかった。
父の勝利と母の涙を見て育った娘・澪は、守られるだけでは、自分も大切な人も守れないと考えるようになる。
【野望編――三代目・澪/ミレイア】
澪は石油に新たな可能性を見いだし、採掘から精製、港、船、販売所までを結ぶ事業を築く。灯油、機械油、グリース、アスファルト、そして内燃機関の燃料。黒い油は、工場と道路を変え、柊家の力をさらに広げていった。
皇太子との政略結婚によって皇族となった澪は、宮廷の思惑と夫との対立を経て、自ら帝位を握る。一方、心を寄せる技師ユリアンとは、身分と責任、資源と技術の独占をめぐる衝突によって隔てられた。国外へ渡った彼と、澪は長い年月、手紙を交わし続ける。
大陸随一の権力を得た澪は、晩年、自らの繁栄の陰で取り残された人々へ目を向け、権限を手放して息子・律へ帝位を譲った。そしてユリアンの危篤を知ると、従者をつけず、一人の澪として彼のもとへ向かう。最期に愛を伝え合った二人は、短いながらも、ようやく互いの隣にいる時間を得た。
空一郎が蒔き、黎明が育て、暁人と澪が大きく広げた柊家の事業。その富と技術、栄光と傷を受け継ぎ、第四世代・律の時代が始まる。
栄光編――第四世代「王冠を置いた当主」
主役:柊律〈リツ〉/公的名リヒト
律は、その朝、二通の手紙を受け取った。
一通には、皇太子リヒト殿下、とあった。
厚い紙に金の縁取り。封蝋には帝国の紋章が押されている。翌月の国務会議への臨席と、皇太子として初めて行う工業地区視察について、宮内官が細かな予定を書き連ねていた。
もう一通は、薄い封筒だった。
宛名は、律へ。
封を切ると、インクの匂いがした。
〈今夜、七時。いつもの店。
護衛は入口まで。
あなたの会社の話をします。
その前に、少しだけ、あなたに会いたい。〉
署名は、アンナ。
律は二枚の紙を並べた。
一方には、彼の座る椅子まで指定してあった。
もう一方には、来るかどうかさえ書いてなかった。
宮殿の南向きの小食堂では、母が先に朝食を始めていた。
ミレイナ女帝。
食卓の上には、パンと果物、それから三冊の報告書が載っている。母は一冊を左手で押さえ、右手に持った匙を、途中で止めていた。
「冷めますよ」
律が言うと、母は顔を上げた。
「誰に似たのかしら。朝から小言を言うところ」
「お母様でしょう」
「私は、あなたほど口うるさくなかったわ」
そばに控えた侍従が、慎重に表情を消した。
律は母の向かいに座った。
窓辺の花瓶には、白い小さな花が挿してあった。母は豪華な花を好まない。庭師が整えた大輪の花より、庭の片隅に咲いていたものを摘ませることが多かった。
その手が、ときどき遠くの窓へ伸びかけるのを、律は知っていた。
そこから見える線路は、北へ向かっている。
「今日も工場へ?」
「西部の発電設備を見に行きます」
「昨日、担当局から説明があったでしょう」
「説明した人は、あそこで夜を過ごしたことがありません」
母は匙を置いた。
「また、現場の人に何か言われたのね」
「言われる場所へ行かなければ、聞こえませんから」
母の目が細くなった。
叱られるかと思ったが、彼女は報告書を閉じた。
「帰ったら、私にも聞かせて」
「都合の悪い話も?」
「あなたまで、都合のよい話しかしなくなったら困るわ」
律は少し安心した。
母は、そう言える人だった。
飢饉の年に穀物の備蓄を開放し、地方領主の抵抗を押し切って用水路を通した。産院と学校が増えた。かつて馬車で何日もかかった土地へ、今は列車でその日のうちに行ける。
律が幼いころ、視察先の女が母の手を取って泣いたことがある。
この子は冬を越せました、と。
女の背にいた子どもは、律と同じくらいの年だった。
その記憶を、彼は疑ったことがない。
「お母様」
「何?」
「工場で働く人が、柊の名を嫌うこともあると知っていますか」
母は彼を見たまま、しばらく答えなかった。
「知っているわ」
「なぜでしょう」
「理由は、一つではないでしょうね」
「聞いたことは?」
「あるわ」
「誰からですか」
食堂の時計が、小さく鳴った。
母は膝に置いていた布を畳んだ。
「律。何を聞いたの」
その呼び方に、彼は顔を上げた。
食卓には侍従がいた。扉の向こうには、記録を取る秘書官もいる。
母が彼を律と呼ぶのは、二人だけのときが多かった。
「まだ、十分には」
「なら、十分に聞いていらっしゃい」
母は言った。
「ただし、誰か一人の苦しみを聞いたとき、自分がすべて分かったと思わないこと」
「お母様も、そうしましたか」
口にしてから、律は自分の声の硬さに気づいた。
母は怒らなかった。
窓辺の白い花を一度見て、それから答えた。
「できなかったこともあるわ」
西部工業地区には、新しい音が増えていた。
蒸気機関の規則正しい響きに交じって、発電機の低い唸りが続いている。
まだ工場全体を電気で動かせるわけではない。作業場の天井には、主軸から延びる革帯が何本も走っていた。そこへ試験用の電動機が持ち込まれ、一角の旋盤だけが別の速度で回っていた。
「これなら、機械を軸の下へ並べる必要がなくなります」
技師は興奮して説明した。
「材料の流れに合わせて配置できます。工場そのものを組み直せるんです」
律は頷いた。
「故障したら?」
「今は、一台止まると修理に時間がかかります。巻線のできる職人が足りません」
「そちらも報告に入れてください」
視察用に磨かれた通路の外では、少年が床の油を拭いていた。
律が目を向けると、監督が先に声を上げた。
「そこを空けろ。殿下がお通りだ」
少年は立ち上がりかけ、右手を床についた。
左の袖は、手首のところで結ばれていた。
律は足を止めた。
「その腕は、ここで?」
少年の目が監督へ動いた。
「殿下。その件は補償も済んでおります」
監督が言った。
律は少年から目を離さなかった。
「名前を聞いてもいいかな」
「……エミルです」
「今はいくつ?」
「十五です」
監督が何か言いかけた。
律は初めて、彼の方を向いた。
「本人に聞いています」
それだけで、通路の空気が変わった。
監督は黙った。
少年まで、青ざめた。
律はその顔を見て、自分の声がここでは命令になることを思い出した。
「答えたくなければ、いい」
言い添えても、少年の肩は下がらなかった。
「十四のときです。帯に、巻かれて」
「事故の記録を見せてもらえますか」
律が尋ねると、今度は工場長が答えた。
「もちろんでございます」
その返事は、あまりに早かった。
七時を少し過ぎて、律は店に入った。
アンナ・エステールは、奥の席で新聞を読んでいた。
「遅刻」
「工場を出るのが遅くなった」
「皇太子殿下は、時間もお持ちじゃないのね」
「君には、そう呼ばれたくない」
「では、座って。律」
彼女は新聞を畳んだ。
濃い色の髪を後ろでまとめている。右の中指には、いつも薄くインクがついていた。律は一度、その指を洗ってやろうとして笑われたことがある。
明日もつくのに、と。
「食べた?」
「まだ」
「よかった。私も」
「待っていてくれた?」
「勘違いしないで。先に食べると、あなたが私の皿ばかり見るから」
律は笑った。
アンナも笑った。
卓の下で、彼女の靴先が彼の靴に触れた。
宮殿では、誰もそんなことをしない。
給仕が去ると、アンナは鞄から紙の束を出した。
「西部工業地区へ行ったんですって?」
「もう知っているのか」
「新聞記者ですから」
「十五歳の少年に会った。左腕を失っていた」
アンナの指が止まった。
「エミル?」
律は彼女を見た。
「知っているんだね」
「三度、会ったわ。最初は話してくれなかった。お母さんが、仕事を失うと困るからって」
「補償は済んだと聞いた」
「お金は払われている」
彼女は一枚の紙を差し出した。
「受領の条件を読んで」
律は読んだ。
事故について社外へ話さないこと。
会社および監督者に、以後の請求を行わないこと。
母親の継続雇用は、会社の判断によること。
「これは……」
「あなたが今日見せてもらった事故報告には、何と書いてあった?」
「本人の不注意による負傷」
「防護覆いを外していたことは?」
「なかった」
「止めるよう申し出た職工が、配置を変えられたことは?」
律は答えなかった。
料理が運ばれてきた。
二人は給仕が皿を置く間、黙っていた。
湯気の向こうで、アンナは彼を待っていた。問いを引っ込めてはくれなかったが、返事を急がせもしなかった。
「記事にするのか」
「する」
「その紙だけで?」
「いいえ。証言と、医師の記録と、工場に残った修繕の伝票。照合しているところ」
律は紙を卓へ戻した。
「ほかにもあるんだね」
「労働者の集会が解散させられたあと、会社から地方評議会の有力者へ渡ったお金がある。帳簿には地域振興費と書かれている」
「政治献金だと?」
「そこを調べている」
「誰が許可した」
「それを、あなたの家へ質問することになる」
律の背後で、誰かが椅子を引いた。
一瞬、護衛が来たのかと思った。
ただの客だった。
それでも彼は、店の入口を見てしまった。
アンナは、それを見ていた。
「ここで話したことを、記事にはしないわ」
「君は、僕を信じている?」
「信じているから、先に伝えたの」
「止めてほしいと言ったら?」
アンナは目を伏せた。
彼女が紙の角を揃える音がした。
「言わないでほしい」
小さな声だった。
律は、彼女が仕事の話をしている間、ずっと背筋を伸ばしていたことに気づいた。
「言われたら、あなたがどんな人か、知ってしまうから」
彼は卓の上へ手を伸ばした。
アンナは少し迷ってから、その手に自分の手を重ねた。
中指の横に、今日もインクがついていた。
「エステールという名を、お母様は覚えていた」
律が言った。
アンナの目が上がった。
「私のことを話したの?」
「名前だけ。イグナーツの一族か、と聞かれた」
「そうよ。父方の」
「君は、彼について何を聞いて育った?」
「家で語られる話はいくつかあるわ。語る人によって、ずいぶん違うけれど」
「僕の家も、そうなのかもしれない」
アンナは彼の手を握り直した。
「確かめるつもり?」
「確かめたい」
それは、まだ約束と呼べるほど強い言葉ではなかった。
アンナも、そう受け取ったらしかった。
「それなら、最初に見つけた答えだけで終わりにしないで」
宮殿へ戻ると、母の執務室には灯が残っていた。
律は扉の前で迷い、ノックした。
「入りなさい」
母は眼鏡を外した。
「工場の話?」
「はい」
彼はエミルのことを話した。
事故報告のことも、アンナが集めている資料のことも。
母は途中で口を挟まなかった。
「その記者は、あなたに何を求めているの」
「取材への回答を」
「それだけ?」
「少なくとも、記事を止めるよう頼んでほしいとは思っていません」
母の口元に、かすかな疲れが浮かんだ。
「その人を、大切に思っているのね」
「はい」
「なら、あなたが不用意に何か言うだけで、その人を疑う者が出ることも覚えておきなさい」
「僕と会うことが、彼女の弱みになる」
「そうよ」
「母上と会う人も、皆そうだったのですか」
母は答えず、机の上の書類を一枚裏返した。
その仕草を、律は見逃さなかった。
「古い記録を調べたいのです」
「何の?」
「家の記録です。事業と、統治の。編纂された家史ではなく、そのもとになったものを」
「文書局へ申し出ればいいわ」
「研究所に保管されているものも」
母の手が止まった。
「地下の保管区画?」
「はい」
「あそこは、長く閉じている」
「知っています」
「動かせない装置もあるわ」
「だから、調べたいのです」
母は椅子に背を預けた。
律は、拒まれると思った。
しかし、母が尋ねたのは別のことだった。
「何が出てきても、読むつもりなのね」
「そのために行きます」
母は彼を長く見つめた。
やがて、机の引き出しから小さな鍵を出した。
「保管責任者へ、私から連絡しておくわ」
差し出された鍵を、律は受け取った。
母の指は、思っていたより冷たかった。
地下の保管区画では、扉を開けるだけで半日かかった。
錠が錆びついていたのではない。外側の機械錠を開けたあと、内部の安全装置を確認しなければならなかった。
律は技師たちと一緒に待った。
ようやく入った室内には、乾いた空気が残っていた。
棚に収められた器具。封印された部品箱。読める文字と、今の技師には読めない記号で埋まった帳面。
奥には、人の形をしたものが横たわっていた。
白い布の下に、肩と膝の輪郭が見えた。
「義体です」
保管責任者が言った。
「記録では、CHUYUと呼ばれています」
律はその名を知っていた。
幼い黎明のそばにいた、未来から来た存在。
家史の挿絵では、いつも穏やかに笑っていた。
「こちらが中枢の保管槽です。ただ、動かせるかどうかは分かりません」
責任者は、隣の金属製の筐体を示した。
主任技師が背面へ回り、手灯りを寄せた。
「同じものを作れと言われても、私たちには無理です」
「作り直すつもりはありません」
律は答えた。
「残っているものを、動かす方法を調べてほしい」
技師は頷き、持ってきた帳面を開いた。
「まず電源です。工場用の発電機をそのままつなぐわけにはいきません。電圧の変動が大きすぎる。専用の調整装置と蓄電池を組み合わせる必要があります」
「冷却は?」
「配管を検査します。循環用のポンプはこちらで作れますが、内部の装置は触る前に記録を読みたい。交換できる部品があるかも確認しないと」
律は棚の方を見た。
密封された箱の一つに、古い字で〈予備〉と書かれていた。
「時間は、どれくらいかかりますか」
「調べるところからです。約束はできません」
「では、調査と復旧の計画を。危険があれば、その都度止めて報告してください」
技師たちは、初めて少し肩の力を抜いた。
律は作業台に残されていた一冊の帳面を開いた。
最初の頁に、黎明の名があった。
その下には、稼働時間と電源の状態が、細かな字で並んでいた。
日々の記録だった。
食事をし、誰かと話し、眠るまでを生きていた人のそばで、この装置も動いていた。
律は奥の義体を見た。
もし、声が戻るなら。
その声は、彼を誰だと思うのだろう。
空一郎でも、黎明でもない。
父祖に似た目をして、父祖の知らない服を着た青年に、何を尋ねるのだろう。
「殿下」
責任者に呼ばれ、律は振り返った。
「復旧命令の書面には、皇太子殿下のお名前で?」
「ええ」
差し出された紙に、彼はリヒトと署名した。
ペンを置こうとして、余白に目が留まった。
そこへ、小さくもう一つの名を書いた。
律。
技師たちが運び込む道具の音が、長く閉ざされていた部屋に響き始めた。




