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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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野望編 Epilogue あなたの隣  



 海を渡る船は、半日遅れた。


 澪は、港の待合室で夜を明かした。


 木の椅子は硬く、外套を畳んで背へ当てても、長くは眠れなかった。窓の向こうで、船の灯りが揺れていた。


 乗れない理由は、風だった。


 誰も怠けていない。


 誰かを呼びつけても、海は静まらない。


 澪は、それを知っていた。


 それでも、時計を見るのをやめられなかった。


 朝、係員が出航の見込みを告げると、彼女は誰より早く立ち上がった。


 鞄の持ち手へ、指がうまく掛からなかった。


 握り直した。


     


 船の中では、窓の近くに座った。


 岸が遠ざかる。


 帝国の旗が、次第に小さくなった。


 澪は鞄から、ユリアンの手紙を出した。


『あなたからの手紙が来る日は、よい日です』


 何度も読んだ文章だった。


 いまは、その続きを書けなかった。


 着けば、何を話すのだろう。


 もし、もう何も聞こえなかったら。


 その考えが浮かぶたび、彼女は紙の端を指で押さえた。


 待っていて。


 昨日から、同じことしか願えなかった。


     


 ノルディエラの港に着くと、澪は駅へ急いだ。


 言葉は、若い頃に学んでいた。


 使わない年月の間に、幾つか忘れていた。


 切符売場で聞き返され、地名を書いて見せた。


 係員が頷き、時刻表を指した。


 次の列車は、四十分後だった。


 澪は礼を言った。


 どこへ向かえばよいか、もう一度尋ねた。


 係員は、窓口から身を乗り出して、ホームを示してくれた。


     


 港町の駅で降りたとき、夕方になっていた。


 澪は電報に記された住所を、御者へ見せた。


「ロシュフォール先生のお宅ですな」


 男が言った。


 彼女は顔を上げた。


「ご存じなの?」


「ここでは、たいていの者が」


 御者は鞄を受け取った。


「この前まで、ご自分で車を運転しておられたのですが」


 澪は馬車へ乗った。


 車輪が動く。


 道の先に、海が見えた。


 家々の間を抜けると、小さな工場と、修理を待つ車が並んでいた。


 ここで、彼は暮らしてきた。


 自分が知らない朝を迎え、食事をし、仕事へ出かけていた。


 澪は窓から、その町を見ていた。


     


 家は、二階建てだった。


 広くはなかった。


 玄関の脇に、手入れの行き届いた植木があった。


 澪が扉を叩くと、若い男が出てきた。


 電報を送った技師だった。


 彼女の名を聞き、しばらく声を失った。


「……お一人で」


「はい」


 男は道を空けた。


 中へ入ると、薬の匂いがした。


 階段の途中で、澪は尋ねた。


「生きて、いらっしゃいますか」


 男はすぐに頷いた。


「はい」


 その一言で、脚から力が抜けそうになった。


 手すりを掴んだ。


 男は、彼女が立ち直るまで待った。


     


 寝室の扉は、開いていた。


 窓の近くに寝台があり、脇に医師が立っていた。


 澪は入口で止まった。


 ユリアンは、目を閉じていた。


 頬が痩せていた。


 白い髪が、枕へ広がっていた。


 知っている顔だった。


 知らない年月が、その上に重なっていた。


 澪は、一歩ずつ近づいた。


 誰も、彼女のために名を告げなかった。


     


 椅子へ座り、寝台に置かれた手を取った。


 冷たくはなかった。


 指に、昔の傷が残っていた。


 工房で、図面を押さえていた手。


 袖を掴んだとき、動かなかった腕。


 出発前、自分の指を一度だけ握った手だった。


「ユリアン」


 澪は呼んだ。


 返事はなかった。


 医師が、静かに言った。


「朝から、意識が戻っていません」


 彼女は頷いた。


 手を離さなかった。


「澪よ」


 もう一度、呼んだ。


「来たの」


 部屋の中は、静かだった。


 窓の外で、船の汽笛が鳴った。


     


 澪は顔を寄せた。


「遅くなって、ごめんなさい」


 その言葉を、何度も書いてきた。


 返事が遅れた。


 会議が延びた。


 行けなかった。


 今度だけは、間に合っていてほしかった。


「あなたに、会いたかったの」


 声が震えた。


 ユリアンの指が、かすかに動いた。


 澪は息を止めた。


 見間違いかもしれない。


 彼女は、その手を両手で包んだ。


「ユリアン」


 閉じていた瞼が、わずかに震えた。


     


 医師が、寝台へ近づいた。


 澪は動かなかった。


 ユリアンの目が、ゆっくり開いた。


 焦点は、すぐには合わなかった。


 天井から、窓へ。


 それから、彼女の顔へ。


 彼は長く見ていた。


 澪は笑おうとした。


 涙が、先に落ちた。


「……澪?」


 声は、ほとんど息だった。


「ええ」


 彼女は頷いた。


「私よ」


 ユリアンの眉が、わずかに寄った。


 確かめるように、彼女を見た。


「ほんとうに」


「本当に」


 彼の指が、もう一度、動いた。


 澪の手を、弱く握った。


     


 医師は呼吸と脈を確かめ、若い技師へ小さく合図した。


 二人は、少し離れた。


 あとになって、医師は、あの時に意識が戻るとは思わなかったと話した。


 なぜだったのかは、説明しなかった。


 澪にも、説明は要らなかった。


 彼が、自分を見ている。


 それだけで、部屋の何もかもが変わった。


     


「誰が……」


 ユリアンが言いかけた。


「私に、知らせてくれたの。あなたの、お弟子さんが」


 彼は目を閉じかけ、また開いた。


「連れて、きたのか」


 澪は首を振った。


「一人で来たわ」


 彼の口元が、かすかに動いた。


「困らせた、でしょう」


「ええ。帰ったら、きっと叱られる」


 彼は、息を漏らすように笑った。


 澪も笑った。


 泣きながらだった。


     


 しばらくして、ユリアンは窓の方を見た。


 脇に、一脚の椅子があった。


 使い込まれた木の椅子だった。


「そこへ……」


「座る?」


 彼は、首をわずかに振った。


 澪を見た。


 言葉を探しているようだった。


「来て、ほしかった」


 彼女は顔を伏せた。


 握った手へ、額を寄せた。


「私も」


 それだけでは足りなかった。


 彼女は顔を上げた。


「ずっと、来たかった」


     


 ユリアンは、彼女の顔を見ていた。


 澪は涙を拭いた。


 これ以上、彼へ気を遣わせたくなかった。


 けれど、最後まで落ち着いた顔でいれば、また大切なことを言わずに帰ってしまう気がした。


「あなたを、好きだったの」


 彼女は言った。


「工房へ行く理由を、毎日、探していた頃から」


 彼の目が、わずかに潤んだ。


「手紙が届くと、その日は、何があっても少し嬉しかった。返事が遅れると、怒っているのかしらと考えたわ」


 澪は、小さく笑った。


「あなたが一人だと書いてくれるたびに、安心した。ひどいでしょう」


 ユリアンは首を振ろうとした。


 彼女は、続けた。


「好きだった、ではないのね」


 声を整えた。


「好きよ、ユリアン。今も」


     


 彼は目を閉じた。


 澪は手を握ったまま、待った。


 やがて、彼の唇が動いた。


「私も」


 息を継いだ。


「あなたを……愛しています」


 澪は、泣きながら頷いた。


「ええ」


 彼は、指先へ少し力を込めた。


「ずっと」


 その短い言葉に、二人が別々に過ごした年月があった。


 工房の入口を見た日。


 宮殿の引き出しを開けた夜。


 船を待った冬。


 返事の来ないひと月。


 澪は、彼の手の甲へ口づけた。


「知りたかった」


 声が掠れた。


「あなたの口から、聞きたかったの」


     


「言えば……」


 ユリアンが言った。


 澪は顔を上げた。


「あなたを、困らせると」


「ええ」


「言わなくても……」


 彼はそこで息を継いだ。


 澪が、そっと答えた。


「困っていたわね、私たち」


 彼の口元に、笑みが戻った。


 澪も笑った。


「でも、今日は、困らなくていいの」


 彼女は彼の頬へ触れた。


「私は、会いに来ただけ。何も頼まないわ。何も、決めてもらわない」


 ユリアンは、その手へ顔を少し寄せた。


「いて、ください」


 澪は頷いた。


「ええ」


 今度は、何の条件もつけなかった。


     


 その夜、澪は家から律へ電報を送った。


 無事に着いたこと。


 ユリアンが意識を取り戻したこと。


 しばらく滞在すること。


 それだけを書いた。


 返事は、翌朝届いた。


『承知しました。


 こちらは心配せず、その方のおそばにいてください。


 律』


 澪は、短い文面を何度も読んだ。


 皇帝としての称号はなかった。


 息子から、母への返事だった。


     


 ユリアンは、翌日も目を開けた。


 少しずつしか話せなかった。


 澪は、話すよう求めなかった。


 水を含ませた布で唇を湿らせ、医師の指示通り、身体の向きを変えるのを手伝った。


 彼が眠れば、窓辺の椅子へ座った。


 机の上には、読みかけの本があった。


 図面もあった。


 眼鏡の脇に、帝国から届いた封筒が、何通か置かれていた。


 澪の筆跡だった。


 彼女は、触れなかった。


 ここで彼が暮らしてきた時間を、少しずつ見ていた。


     


 三日目の午後、若い技師が、小さな箱を持ってきた。


「先生が、以前、こちらを」


 ユリアンが、寝台から頷いた。


 澪は箱を受け取った。


 中に、古い紙が入っていた。


 二人乗りの車台の図。


 何度も折り畳まれ、端が柔らかくなっていた。


 澪は顔を上げた。


「あの車?」


 ユリアンは頷いた。


「最初の……」


 彼女は、二つ並んだ椅子を見た。


 細い線の一方は、あとから描き加えられていた。


「私のために?」


 彼は、少しだけ笑った。


「理由は、ほかにも」


「知っているわ。記録を取る人が、乗るためでしょう」


 澪も笑った。


 ユリアンの目が、彼女を見た。


「でも……あなたに」


 彼は息を整えた。


「乗って、ほしかった」


 澪は紙を胸へ引き寄せた。


「乗ったわ」


 彼女は言った。


「あの日、あなたの隣に。動かなかったけれど」


 彼は頷いた。


 その顔が、少し安らいだ。


     


 身体が回復しているわけではないと、医師は伝えた。


 意識が戻っても、衰弱は深かった。


 澪は、最後まで説明を聞いた。


 できること。


 負担になること。


 苦しさを和らげる方法。


 彼女は、かつて大勢の報告を聞いたようには、質問しなかった。


「眠っているときも、声をかけてよいですか」


 それだけ尋ねた。


 医師は頷いた。


「はい。短く、穏やかに」


     


 澪は、帝都の庭の話をした。


 母が植えた花のこと。


 律が、昔、積み木で駅を作ったこと。


 父が、最後まで仕事の報告を読んでいたこと。


 ユリアンが知っている人々は、幾人も、もういなかった。


 彼は時々、目を開けた。


 聞いていることを示すように、指を動かした。


 澪は、そのたびに続きを話した。


 国のことは、少しだけだった。


「油の配分を、私が決めなくてもよくなったの」


 彼女が言うと、ユリアンは目を向けた。


「まだ、腹が立つことはあるわ。そんな決め方では困るでしょうと、言いたくなる」


 彼の口元が動いた。


「言って……よいのでは」


「言っているわ」


 澪が答えると、彼は笑った。


 長くは笑えなかった。


 それでも、二人とも嬉しかった。


     


 五日目の朝、呼吸が浅くなった。


 医師が来た。


 薬を整え、枕の高さを変えた。


 澪は寝台の脇に座り、ユリアンの手を取った。


 彼の目が、彼女を探した。


「ここにいるわ」


 澪が言った。


 彼は、かすかに頷いた。


 しばらくして、手が寝台の上を動いた。


 澪の袖へ触れた。


 何かを求めているようだった。


「近くへ?」


 彼は頷いた。


 澪は医師を見た。


 医師が、身体を支えるのを手伝ってくれた。


     


 澪は寝台の端へ腰を下ろした。


 ユリアンの肩と背を、ゆっくり抱いた。


 軽くなっていた。


 彼の頭が、彼女の胸へ寄った。


 顔にかかる髪を、指で整えた。


 若い頃、外套の留め具へ絡んだ自分の髪を、彼が外してくれたことを思い出した。


 あのときは、動かないでと言われた。


 今日は、彼を動かさずにいようと思った。


     


「澪」


 ユリアンが呼んだ。


「ええ」


 彼は、目を開けようとした。


 澪は頬へ触れた。


「見なくても、ここにいるわ」


 彼の呼吸が、少し落ち着いた。


 やがて、微かな声がした。


「来て……くれた」


「来たわ」


「よかった」


 澪は頷いた。


 涙が、彼の髪へ落ちそうになった。


 顔を少し上げ、こらえた。


「私も、来てよかった」


     


 窓の外で、鳥が鳴いた。


 ユリアンの指が、わずかに動いた。


「あの……」


「鳥?」


 彼は頷いたように見えた。


 澪は窓へ目を向けた。


 枝の先に、小さな影があった。


「名前は、まだ、知らないわ」


 彼の唇に、ほんの少し笑みが浮かんだ。


「いい……」


「ええ。今日は、決めないでおきましょう」


 澪は彼の肩を抱き直した。


 腕の中へ、身体を預けてくれた。


     


 呼吸の間隔が、長くなった。


 医師が近づいた。


 澪は顔を上げなかった。


 ユリアンの額へ口づけた。


「愛しているわ」


 今度は、迷わず言った。


 彼の指が、最後に少しだけ、彼女の袖を握った。


 唇が動いた。


 声は、ほとんど聞こえなかった。


 それでも、澪には分かった。


 彼女は頷いた。


「ええ。聞こえたわ」


     


 次の呼吸を、長く待った。


 澪は腕を解かなかった。


 胸に寄せた頭も、肩へ置いた手も、そのままだった。


 医師が、静かに彼の名を呼んだ。


 返事はなかった。


 やがて、医師は澪へ目を向けた。


 彼女は小さく頷いた。


 分かっていた。


 それでも、もう少し、こうしていたかった。


     


 ユリアンは、澪に抱かれたまま、穏やかに息を引き取った。


 痛みを訴えることも、彼女を探すことも、最後にはなかった。


 澪は頬を、彼の白い髪へ寄せた。


「ありがとう」


 声が震えた。


 何に対してなのか、一つにはできなかった。


 言いにくいことを言ってくれた。


 待たせても、手紙を書いてくれた。


 自分の人生を、自分で選んでくれた。


 そして、最後に、自分を見てくれた。


 澪は彼を抱いたまま、泣いた。


 今度は、誰に聞かれても構わなかった。


     


 葬儀は、小さな教会で行われた。


 工場の技師たち。


 近所の人々。


 教え子と、長く仕事をした者たちが来た。


 澪は一番前に座った。


 冠も、称号を示す飾りもなかった。


 独身を貫いた彼の棺へ、誰が最も近く立つべきかを、尋ねる者はいなかった。


 皆、静かに彼女へ場所を空けた。


 祈りのあと、澪は棺へ手を置いた。


 天国では、もう身体の苦しさがないように。


 そう願った。


 それ以上のことは、願わなかった。


     


 帰る前の日、彼女は窓辺の椅子へ座った。


 港が見えた。


 手紙に描かれていた倉庫。


 岸壁。


 船の出入り。


 ここで、彼は自分の返事を読んだ。


 喜んだ日も、寂しかった日もあっただろう。


 澪は、二人乗りの車台の図を膝へ広げた。


 紙の端に、古い書き込みがあった。


 座席間隔、要再検討。


 彼女は泣きながら笑った。


「近すぎたのね」


 誰もいない部屋で、言った。


 あの日は、それが嬉しかった。


     


 帰りの列車にも、一人で乗った。


 鞄には、車台の図と、彼の家から持ち帰ることを許された手紙の束があった。


 自分が書いた文字を、彼がどのようにしまっていたかを、初めて知った。


 窓の外で、線路が続いていた。


 父は、この道で力を得た。


 自分も、港と油と道路をつないで、世界を動かそうとした。


 その大きな仕事の中で、できなかったことが一つあった。


 好きな人の隣へ、座ること。


 今度は、できた。


 長くはなかった。


 けれど、彼が自分の名を呼んだ。


 自分も、答えた。


 もう、そのことを、何かの役に立つ言葉へ変えなくてよかった。


     


 帝都の駅では、律が待っていた。


 正式な出迎えはなかった。


 息子は、母の小さな鞄を受け取った。


 顔を見て、何も尋ねなかった。


 澪は、彼の腕へ手を置いた。


「会えたわ」


 律は頷いた。


「はい」


「話も、できたの」


 息子は、もう一度頷いた。


 澪は、その肩へ額を寄せた。


 律が、静かに母を抱いた。


 人々は二人のそばを通り過ぎた。


 列車の時刻が告げられ、荷車が動き、誰かが家族の名を呼んだ。


 世界は、いつも通り続いていた。


     


 家へ戻ると、澪は小さな木の舟を、水盤へ浮かべた。


 船底の重りは、今も外せるようになっていた。


 舟はゆっくり進み、向こうの縁へ触れた。


 彼女は、それを持ち上げた。


 水を拭い、机の上へ置いた。


 隣に、二つの椅子を描いた古い図面を広げた。


 どちらも、彼が自分のために考えてくれたものだった。


 澪は椅子へ座った。


 夕方の光が、紙の上へ差していた。


 しばらく、何も決めずに、その光を見ていた。(了)



野望編 あとがき


 「野望編」と銘打ちながら、この物語の底を流れていたのは、長いあいだ互いの名を呼ぶことさえためらった、二人の愛でした。


 澪は、守られるだけの人生を拒み、やがて大陸を動かす力を手に入れます。けれど、権力が増すほど、自分のためだけに使える言葉は少なくなっていきました。会いたい。帰らないで。あなたの隣にいたい。その短い言葉を伝えるために、彼女は生涯の大半を必要としたのです。


 政略結婚は、ただ愛し合う二人を隔てる障害としてだけ存在したのではありません。夫にも孤独があり、澪への親しさがあり、ともに築いた家庭がありました。息子への愛も、帝国を担う責任も、澪にとって偽りではありません。だからこそ、ユリアンへの思いを貫けば、すべてが美しく解決するわけではなかった。その逃げ場のなさが、二人の沈黙を長くしました。


 ユリアンもまた、身分の違いを理由に、ただ身を引いた人ではありません。彼は澪を愛しながら、彼女の判断に異を唱え、彼女の支配を拒みました。愛する人に従うことで、その愛を証明しようとはしなかったのです。澪が最後まで彼の言葉を求めたのは、そのためだったのでしょう。


 二人を遠ざけたのは、宮廷や国境だけではありません。相手を守りたいという思いやりも、ときに二人を隔てました。言えば困らせる。引き留めれば縛ってしまう。そう考えて飲み込んだ言葉が、年月になって積もっていきます。その年月を、手紙だけが細くつないでいました。


 晩年、ユリアンのもとへ向かう澪は、冠を置き、従者をつけず、自分で切符を買います。多くの人や物を動かしてきた彼女が、ようやく自分の願いのために、一人の旅人となる。始祖から受け継がれ、富と権力を生んだ鉄道は、そのとき、一人の女性を、愛する人のもとへ運ぶ道になりました。


 二人に残された時間は、わずかでした。失った歳月を取り戻すことも、思い描いた暮らしを始めることもできません。


 それでも、澪は伝えました。ユリアンも答えました。誰かの立場を案じて言い換えることなく、初めて、互いの思いをそのまま受け取ることができたのです。


 動かなかった車の、隣り合う二つの椅子。

 出せなかった手紙。

 何十年も呼びたかった名前。


 そのすべてを抱いて、最後に澪は、ユリアンの隣へ座りました。


 彼女の腕の中で、彼はもう、思いを隠す必要も、一人でいる必要もありませんでした。

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