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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第八十六章 手放す日の時刻表



 白い紙は、三日間、机の上にあった。


 澪は何度か筆を取り、見出しを書いた。


 守ったもの。


 手放せなかったもの。


 その下へ、同じ言葉が並んだ。


 律。


 柊家。


 供給。


 秩序。


 自分の判断。


 最後の一つを、澪は長く見ていた。


     


 翌週、彼女は律を仕事部屋へ呼んだ。


 息子は書類を持ってきた。


 前回、母に退けられた制度改正の案だった。


「今日は、説明を聞いてくださるのですか」


「ええ」


 澪は頷いた。


「ただし、あなたが望む通りに決めると、約束したわけではないわ」


「承知しています」


 律は向かいへ座った。


 目元は父に似ていた。


 不都合な答えを待っているときの、口を結ぶ癖は、自分に似ていた。


 澪は、そういうことに気づくようになった。


     


 律の案は、母の仕事をすべて否定するものではなかった。


 供給の情報は、集め続ける。


 事故と品質の試験も、国が支える。


 だが、どの商会へ油を売らせるかを、平時から君主が決める必要はない。


 緊急時の介入は、期限を短くする。


 継続を認めるのは、議会。


 異議を申し立てる者は、君主の許可を待たず、裁判所へ行ける。


「いまも、異議は受け付けているわ」


 澪が言った。


「受け付ける窓口はあります」


 律は答えた。


「そのあとで、母上の判断を覆せる者が、少なすぎます」


 彼女は、息子を見た。


 以前なら、誰が責任を取るのかと尋ねただろう。


 その言葉を、飲み込んだ。


「覆した結果、困ることが起きたら」


「その決定をした者が、説明します」


「遅かったら、取り戻せないこともある」


「母上の決定でも、同じです」


 澪は、膝の上で手を握った。


 息子は視線を逸らさなかった。


     


「あなたが継いだら、私のしたことを、随分変えるのね」


 少しだけ、寂しさが声に出た。


 律は、すぐには答えなかった。


「残したいものも、たくさんあります」


「例えば」


「記録を取ること。できないことを、先に確かめること。油の量と、運ぶ力を、別々に考えないこと」


 澪は、目を伏せた。


「ただ、それを、母上でなければできない仕組みにはしたくありません」


 窓の外で、庭師が枝を切っていた。


 鋏の音が、短く聞こえた。


 澪は机の上の白い紙を、息子へ見せた。


 律は見出しを読んだ。


 その下にある、同じ言葉の列を見た。


 母の顔へ、目を戻した。


     


「私が守ったものと、私が手放せなかったものを、同じだと思わないで」


 澪は言った。


 律は、静かに聞いていた。


「役に立ったものも、あるわ。必要だった時も、あった。でも、必要だったことを理由に、ずっと持っていてよいとは限らなかった」


 彼女は紙を引き戻した。


「あなたに、帝位を必ず守れとは言わない」


 息子の表情が変わった。


「守るために、誰を黙らせなければならないのか。そのたびに、考えて」


 律は、しばらく黙っていた。


 やがて、深く頭を下げた。


 澪は、その礼を途中で止めなかった。


     


 制度を変える作業は、思いのほか難航した。


 権限を失う役所は、反対した。


 特別な配分を受けていた工場も、反対した。


 道路の整備を早めてもらった町の代表は、今度は議会の順番を待つのかと訴えた。


「陛下がお決めになれば、済むことです」


 幾度も、そう言われた。


 澪は、その言葉に助けられてきた年月を思った。


 頼まれ、決め、動く。


 その繰り返しの中で、自分がいなければ止まるものを、増やしてきた。


「私が決めない場合にも、済むようにします」


 彼女は答えた。


 相手は、困った顔をした。


 澪も、同じ顔をしたくなった。


     


 非常措置の最後の延長案には、終了の日付が記された。


 今度は、同じ文面での再延長を認めない。


 新しい措置が必要なら、通常の法を作る。


 議会は審議し、修正を加え、承認した。


 澪は署名した。


 手が、少し痛んだ。


 書記が気づき、筆の太いものを勧めた。


「最近は、細かな文字が書きにくくて」


 彼女が言うと、書記は、自分の父も同じだと答えかけた。


 途中で、口を閉じた。


 澪は笑った。


「お父さまは、どうしていらっしゃるの」


 若い書記は、ようやく話した。


     


 退位について告げたのは、その年の秋だった。


 発表の前に、澪は離宮を訪ねた。


 夫は、庭へ出ることが少なくなっていた。


 窓際の椅子に座り、膝へ毛布を掛けていた。


「律へ、譲ります」


 澪が言うと、彼は頷いた。


「聞いています」


「もう、根回しをしているのね、あの子」


 夫は、小さく笑った。


「あなたにも、そういうところがあった」


 澪も笑った。


 しばらく、庭を見た。


 噴水はなかった。


 低い鉢に、雨水が溜まっていた。


     


「あなたは、怖くありませんか」


 夫が尋ねた。


「怖いわ」


 澪は、すぐに答えた。


「知らないところで、間違ったことが決まるかもしれない。私なら止めたのにと思うことも、きっとある」


「それでも」


「ええ」


 夫は、自分の手を見た。


「私は、退くときに、それを言えなかった」


 澪は黙った。


 夫は顔を上げた。


「あなたに、よくやったと言うべきなのでしょうね」


「言わなくて、いいの」


 彼女は静かに答えた。


「私があなたから取ったものまで、よかったことには、できないわ」


 夫は目を閉じた。


 そのあと、少しだけ頷いた。


     


 帰る前に、彼が澪を呼び止めた。


「これからは、何を」


「まだ、よく分からない」


「仕事をしない日は、落ち着かないでしょう」


「そうね」


 澪は笑った。


 夫は、窓辺の机を見た。


「私は、初めの頃、一日が長すぎました」


「今は?」


「庭の木が、いつ芽を出すか、少し分かるようになった」


 澪は、彼の見ている木へ目を向けた。


 長い間、同じ窓から見てきたのだろう。


「私も、何か、分かるようになるかしら」


「なると思います」


 夫は答えた。


 その声には、もう、彼女の判断を求める響きがなかった。


     


 退位の儀式で、澪は冠を外した。


 律は、すぐには受け取らなかった。


 母の前へ進み、深く礼をした。


 澪は、その頭を見ていた。


 熱を出した夜、寝台のそばで数えた呼吸を思い出した。


 父の指を握った、小さな手も。


 冠を渡すと、息子は両手で受けた。


 新しい誓約には、君主の権限を限る、改められた条文が含まれていた。


 澪はそれを聞いた。


 自分の言葉を求められない時間が、ゆっくり始まっていた。


     


 宮殿を離れる日に、持ち出す荷を減らした。


 公務の記録は、国の保管庫へ渡した。


 柊家の事業に関わるものは、法務へ。


 父の帳面と、祖母ミーナの私的な記録は、自分で持った。


 最後に、鍵の掛かる小箱を開けた。


 手紙が、年月順に束ねてあった。


 初めの頃の、細くはっきりした文字。


 やがて、線が太くなった。


 最近のものは、行の間隔が広かった。


 澪は、箱ごと鞄へ収めた。


 侍女が、小さな木の舟を持ってきた。


「こちらも、お持ちになりますか」


「ええ」


 澪は受け取った。


 船底には、薄い木片が、今も糸で留められていた。


     


 新しい住まいは、帝都の外れにある屋敷だった。


 父母が暮らした家ほどではないが、庭があった。


 初めて公務のない朝、澪は早く目を覚ました。


 報告を待つ必要はなかった。


 それでも、机へ座った。


 白い紙を出した。


 ユリアンへ、退位したことは既に知らせていた。


 今朝、何を書けばよいのかは、分からなかった。


 窓へ、一羽の鳥が来た。


 枝に止まり、首を傾けた。


 澪は、その鳥を見ながら書いた。


『今日は、何も決めなくてよい朝です。


 こんな日を、どう使えばよいか、まだ慣れません』


 書いてから、少し笑った。


『そちらへ、行ってもよいでしょうか』


 次の行へ移れなかった。


 彼の身体は、以前ほど丈夫ではない。


 自分も、長い旅をしばらくしていない。


 会って、何を言うのだろう。


 書きかけの紙を、机の上へ置いた。


 今度は、引き出しへ隠さなかった。


     


 その日の午後、ノルディエラから電報が届いた。


 差出人は、ユリアンではなかった。


 彼が長く指導してきた、工場の技師だった。


 澪は立ったまま、文面を読んだ。


 急に容体が悪くなった。


 医師がついている。


 今朝から、呼びかけへの返事がない。


 知らせるべきか迷ったが、机にあった手紙を見て、送った。


 最後に、屋敷の住所と、医師の名が記されていた。


 澪は、もう一度、最初から読んだ。


 紙を持つ指が、少し震えた。


     


 路線図を広げた。


 帝都から、北の港へ。


 船で渡り、その先を鉄道で。


 四日。


 接続がよければ、もっと早い便がある。


 澪は時刻表を探した。


 以前なら、誰かを呼べばよかった。


 特別の列車も、船の待機も命じられただろう。


 いま、彼女は机の抽斗を一つずつ開けた。


 見つけた時刻表の頁をめくる。


 今日の夕刻に、北行きの列車があった。


     


 呼鈴へ伸ばしかけた手を、止めた。


 従者をつければ、宮中へ報告が行く。


 安全の確認が始まり、先方へ受け入れを求め、日程が組み直される。


 身体を案じる者たちが、善意で自分を待たせる。


 澪は、椅子から立った。


 旅用の小さな鞄を出した。


 着替え。


 眼鏡。


 薬。


 財布。


 ユリアンからの、最後の手紙。


 鏡の前で、髪をまとめ直した。


 宝石を外した。


 長年、身につけていた柊の留め具だけが、卓上に残った。


     


 律へは、短い手紙を書いた。


『友人の容体が悪く、会いに行きます。


 私の旅として、出かけます。


 護衛も従者も、つけないでください。


 着いたら、知らせます』


 そこで、少し迷った。


 友人。


 間違いではない。


 それだけでは、なかった。


 澪は、紙を新しくしなかった。


 最後に書き足した。


『長く、会いたかった人です』


     


 玄関で、家令が驚いた顔をした。


「どちらへ、お出かけに」


「駅へ」


「では、馬車と、お供を」


「馬車だけ、お願い」


 家令は、彼女を見た。


 澪は、小さな鞄を持ち直した。


「私が帰るまで、家を頼みます」


 その言葉に、彼はすぐには答えなかった。


 やがて、深く頭を下げた。


「お身体を、大切に」


「ええ」


 澪は頷いた。


 泣くのは、まだ早かった。


     


 駅には、人が溢れていた。


 仕事を終えて帰る者。


 荷を抱えた商人。


 子を連れた家族。


 誰も、彼女の前で道を空けなかった。


 澪は切符売場の列へ並んだ。


 窓口の係員が、行先を尋ねた。


 彼女は港の名を告げた。


「お一人ですか」


「はい」


 代金を出し、切符を受け取った。


 薄い紙だった。


 これまで、数えきれないほどの列車を動かしてきた。


 自分のために切符を買う手順を、こんなにも知らなかった。


     


 ホームへ出ると、機関車が蒸気を吐いていた。


 澪は車体の端にある、製造者の小さな銘板を見た。


 柊の印。


 父の鉄道が、ここまで来ていた。


 自分の押さえた港が、その先にあった。


 彼らが作り、動かし、時には人を縛るためにも使った網が、今日は、一人の男へ会いに行く道になっていた。


 車掌が、乗車を促した。


 澪は手すりを握った。


 段が、少し高かった。


 自分の足で、上がった。


     


 列車が動き出した。


 屋根が、柱が、ホームの人影が、後ろへ流れた。


 澪は窓側の席へ座り、鞄を膝に置いた。


 同じ街からユリアンを送り出した日、彼女は汽笛だけを聞いた。


 今日は、その音の中にいた。


 窓硝子に、年を取った自分の顔が映っていた。


 称号を外しても、若い娘へ戻れるわけではなかった。


 それでも、行くことはできる。


 澪は電報を取り出した。


 握りすぎて、折り目が深くなっていた。


「待っていて」


 誰にも聞こえない声で、言った。


 列車は北へ向かって走り続けた。

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