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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第八十五章 残してきた名前



 即位から十二年目の春、帝都と北の港を結ぶ急行列車が増発された。


 以前は途中で一泊した旅が、その日のうちに終わる。


 港では船が待ち、海峡の向こうでも鉄道に乗り継げるようになった。


 開通を祝う席で、澪は所要時間を聞いた。


 十日余りだった旅が、天候に恵まれれば四日になる。


 出席者たちは、交易の利益を語った。


 魚を傷めずに運べる。


 機械の部品が早く届く。


 技師が、工場を長く空けずに行き来できる。


 澪は頷いて聞いた。


 四日。


 その数字だけを、会議が終わったあとも覚えていた。


     


 ユリアンは、帰ってこなかった。


 一年の予定だった滞在は延び、共同研究の契約は改められた。


 向こうの工場には、彼が育てた技師たちがいた。


 帝国の工房にも、彼の図面で学んだ者たちがいた。


 名前は、どちらの国でも知られるようになった。


 始動の不確かだった機関は、何度も改良された。


 点火。


 燃料の供給。


 冷却。


 潤滑。


 力を伝え、速さを変える仕組み。


 一つが良くなると、次に弱いところが壊れた。


 そのたびに、材質を変え、寸法を変え、使い方を書き直した。


 いまでは、毎朝、決めた時刻に走り出す車があった。


 雨の日には遅れ、寒い朝には始動を手伝わなければならない。


 それでも、荷を届けて帰ってきた。


 澪は、それを知っていた。


 工業省からの報告より少し先に、海の向こうから、失敗も含めた手紙が届いた。


     


『先週、坂の途中で止まりました。


 後ろから来た荷馬車の御者が、馬の方が賢いと言いました。


 その日は、反論できませんでした』


 澪は、その文章を食卓で思い出し、笑ってしまった。


「何か、よい知らせですか」


 隣にいた律が尋ねた。


 もう、子どもの声ではなかった。


 背丈は母の肩を越え、近頃は閣議の一部へ出席するようになっていた。


「機関の技師から、手紙が来たの」


「ロシュフォール先生?」


 澪は顔を上げた。


「知っているの」


「大学で、お名前を聞きました。こちらの車にも、先生の改良が使われていると」


 律は、少し身を乗り出した。


「一度、お会いしたい」


 澪は杯へ手を伸ばした。


「……そうね」


「母上は、昔からご存じなのでしょう」


「ええ」


 それ以上を尋ねられる前に、彼女は手元の皿を見た。


 息子は、答えの短さを不思議に思ったようだった。


     *


 夫は、離宮で暮らしていた。


 髪に白いものが混じり、長く歩くと杖を使うようになった。


 律は、月に二度、父を訪ねた。


 澪も、折々に同行した。


 初めの数年は、会うたびに言葉を探した。


 やがて、庭の木と、息子の学業と、互いの身体のことなら話せるようになった。


 ある日、夫は律の書いた論文を机へ置いた。


「私より、よく考えています」


 澪は頁をめくった。


 題は、非常措置と議会の監督について、だった。


 彼女は、顔を上げた。


 夫は窓の外を見ていた。


「私にも、あなたにも、読ませたいのでしょうね」


 澪は答えず、最初から読み直した。


     


 帝国は、豊かになっていた。


 海沿いに新しい精製所ができた。


 石油を運ぶ船は、樽を積むものから、船内の槽へ直接入れるものへ変わりつつあった。


 漏れを防ぐ仕切りと管。


 蒸気を逃がす設備。


 荷を移す手順。


 火災が起きるたび、決まりは増えた。


 街道には給油所が並び、町の修理工場には、車輪と歯車と工具が吊られた。


 舗装された道では車が速くなり、人を轢く事故が増えた。


 速度を制限すると、運送の商人が不満を言った。


 車体と制動装置を検査すると、検査を受けられず廃業する者が出た。


 澪は報告を読み、必要な制度だと判断した。


 事故は減った。


 廃業した者の名は、次の年の統計には出なかった。


     


 軍も、油を使うようになった。


 最初は、工場の機械と、車両の潤滑。


 次に、物資を運ぶ自動車。


 やがて、重い装備を牽く試作車が現れた。


 国境の向こうで兵が動くと、帝国も演習を増やした。


 澪は戦争を望まなかった。


 けれど、備えを減らせば、交渉の場で弱くなると言われた。


 精製所を増やし、備蓄を積み、港を整えた。


 その設備は民間にも使われ、商人たちは称賛した。


 軍は、彼女の治世で補給が安定したと称えた。


 教団は、飢えと暗闇を減らした統治者として祈りを捧げた。


 澪のもとへ届く報告は、次第に整っていった。


 不手際は、解決してから書かれる。


 失敗は、改良の経過として綴られる。


 誰かが強く反対した案は、意見の調整を経た案として上がってきた。


 彼女は、以前より短い時間で、多くの決定ができるようになった。


     


 父が亡くなったのは、秋だった。


 最期まで、鉄道の報告を読んでいた。


 澪が寝台へ来ると、暁人は書類を閉じた。


「今日は、仕事の話はやめて」


 彼女が言った。


「お前が来る前から、読んでいた」


「では、続きを明日に」


 父は、返事をしなかった。


 澪は椅子を寄せた。


 以前ほど大きく見えない手を、両手で包んだ。


「私、うまくできているかしら」


 尋ねるつもりはなかった。


 言葉が先に出た。


 父は娘を見た。


「俺に聞いて、安心するな」


 澪は、笑おうとした。


 できなかった。


「最後まで、褒めてくださらないのね」


 父の指が、わずかに動いた。


「よく、やった」


 澪は顔を伏せた。


 しばらくして、父は続けた。


「だから、次も正しいとは、思うな」


 その言葉が、父から教えられた最後の仕事の話になった。


     


 葬儀のあと、クララは宮殿へ移ることを断った。


「この家に、いたいの」


 澪は頷いた。


 父の書斎は、そのまま残された。


 机の上には、修繕を待つ駅の一覧があった。


 澪は、その駅へ予算をつけさせた。


 父を悼む事業として発表された。


 それでも、修繕の優先順位を尋ねた役人はいなかった。


     *


 灯花が宮殿を訪ねたのは、その冬だった。


 叔母は、小さな革の袋を持っていた。


「本当は、もう少し早く渡そうと思っていたの」


 澪は袋を受け取った。


 中には、布で包まれた帳面があった。


 古い紙の匂いがした。


「祖母ミーナのものよ」


 灯花が言った。


「公の記録ではないわ。家で書いていたこと」


 澪は表紙を開いた。


 最初の頁に、日付と、人の名があった。


 治療を受けた者。


 帰っていった者。


 戻らなかった者。


 途中から、書き込みが増えた。


 薬が足りない。


 家へ帰すには遠すぎる。


 治ったと発表されたが、まだ働けない。


 澪は頁をめくった。


 ある一節で、手が止まった。


『治った人だけを、皆の前へ出さないでください』


     


 灯花は、何も説明しなかった。


 澪が続きを読むのを待った。


 治療の成果を示す席へ、歩けるようになった者たちが招かれた。


 寝台から起きられない者は、来なかった。


 死んだ者は、数として報告された。


 ミーナは、その席のあとで、短い文章を書いていた。


『喜んではいけないのではありません。


 来られなかった人が、いなかったことになるのが怖いのです』


 澪は帳面を閉じた。


 しばらくして、また開いた。


「なぜ、今、私に」


 声が少し掠れた。


 灯花は膝の上で手を重ねた。


「私が、持っていられるうちに」


「私に、何かおっしゃりたいの?」


「あるわ」


 叔母は、彼女を見た。


「でも、これを読めば、あなたが自分で考えると思ったの」


     


 その夜、澪は建設と雇用の報告を取り寄せた。


 道路沿いに増えた商店。


 新しい精製所の生産量。


 港の取扱高。


 どの数字も、嘘ではなかった。


 彼女は書記へ尋ねた。


「移転した村の、その後の記録は」


「補償は、完了しております」


「補償したあとです」


 書記は、手元の紙を探した。


 なかった。


「廃止した駅で働いていた者は」


「再配置できた人数なら」


「できなかった者は?」


 書記は黙った。


 澪は、その沈黙を見ていた。


 かつて自分が恐れた、都合の悪いことを言えない顔だった。


「責めているのではありません」


 そう言ってから、澪は気づいた。


 責めるつもりはないと、自分が思えば済むわけではなかった。


「調べ方から、考えてください。分からないものは、分からないと書いて」


 書記は深く頭を下げた。


 澪は、その礼が終わるまで、何も言わなかった。


     


 数日後、ユリアンから手紙が来た。


 父の死を悼むものだった。


『お父上は、私の説明を、簡単には信じてくださいませんでした。


 そのために、確かめてから申し上げる癖がつきました。


 今は、そのことを、ありがたく思います』


 澪は、声を漏らして笑った。


 涙が出た。


 手紙の後半には、近況があった。


 寒い朝、指がこわばるようになったこと。


 若い技師から、座って指示するよう言われること。


 以前、自分が年長の者へ同じことを言ったのを覚えているので、強くは逆らえないこと。


 澪は、文字へ触れた。


 彼も、歳を取っていた。


 離れてからの年月が、初めて、身体の重さになって胸へ落ちた。


     


 彼女は、その夜、私的な返事を書いた。


 父のこと。


 母のこと。


 律が、憲章について自分へ意見したこと。


 祖母の帳面を読んだこと。


『私は、良くなったものを、たくさん数えてきました。


 その陰にいる人を、忘れないつもりでした。


 つもりでいることと、覚えていることは違うのですね』


 そこでペンを止めた。


 続けて書いた。


『あなたは、私に、まだ言いにくいことを言ってくださいますか』


     


 返事には、長い慰めはなかった。


『言います。


 ただ、私も、あなたに嫌われたくないと思っています。


 そのために、言わずにいたことがないとは、申し上げられません』


 澪は、その一文を何度も読んだ。


『それから、前の手紙で、身体のことを少し書きましたが、食事は取れています。


 家政を手伝ってくれる者には、一人で暮らすなら、せめて薬を置く場所くらい決めろと言われました。


 若い頃は、もっときちんとしていたはずなのですが』


 彼女は、口元を押さえた。


 一人で暮らす。


 その言葉は、長い年月、変わらなかった。


 自分は、彼へ何を願ってきたのだろう。


 変わらずにいてほしいと。


 元気でいてほしいと。


 自分の知らない幸せを見つけたなら、喜ばなければならないと考えながら、その知らせが来ないことに、安堵してきた。


 澪は、手紙を机へ置いた。


 初めて、返事に時間をかけず、一行を書いた。


『あなたが一人でいることを、私は嬉しいと思ってきました。


 それを、申し訳なくも思っています』


 消そうと思った。


 消さなかった。


     


 海の向こうで、その手紙を読んだユリアンは、長く椅子に座っていた。


 窓の外に、港が見えた。


 髪は薄くなり、眼鏡を使うようになった。


 机の引き出しには、何年も前の車台の図が残っていた。


 二つの椅子。


 彼は、その紙を出さなかった。


 目を閉じた。


 誰かと暮らす機会がなかったわけではない。


 親しい者から、家庭を持つよう勧められたこともあった。


 そのたびに、断ってきた。


 澪がいつか来ると信じていたのではなかった。


 ほかの誰かの隣で、彼女を思う自分にはなりたくなかった。


 ユリアンは眼鏡を外した。


 しばらくしてから、返事を書いた。


『申し訳なく思わないでください。


 私が、選んだ暮らしです』


 次の行へ移るまで、少し時間がかかった。


『あなたからの手紙が来る日は、よい日です。


 それで、十分だった日が、たくさんあります』


     


 澪は、その返事を、律が退出したあとの部屋で読んだ。


 息子は、近頃、自分の判断へ正面から反対するようになった。


 非常措置を終えること。


 供給委員会を通常の役所へ戻すこと。


 君主の権限を、さらに法で限ること。


 その日も、二人は言い争った。


 澪は、まだ早いと答えた。


 律は、いつなら遅くないのかと尋ねた。


 答えられなかった。


 彼女はユリアンの手紙を畳み、祖母の帳面の隣へ置いた。


 守ってきたものはある。


 失いたくなくて、握り続けたものもある。


 二つを分けて書き出そうとして、澪は白い紙を前へ置いた。


 最初の一行が、なかなか書けなかった。

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