第八十四章 女帝の名
夫のいない朝の食卓で、律は何度も扉を見た。
「お父さま、まだ、おしごと?」
澪は匙を置いた。
「今は、別のお屋敷で休んでいらっしゃるの」
「いつ、かえる?」
乳母が目を伏せた。
澪は息子の顔を見た。
「まだ、決まっていないわ」
「ぼく、いってもいい?」
彼女は頷いた。
「会えるようにしましょう」
その約束を、誰かの判断へ預けたくなかった。
夫が移された離宮は、帝都から半日の場所にあった。
庭へ出ることはできた。
書物も、手紙も受け取れた。
ただし、訪ねる者は確認され、外出には許可を要した。
澪は、その条件を決めた文書へ署名していた。
息子を連れて訪ねた日、夫は窓辺に立っていた。
律は顔を見るなり、駆け寄った。
「お父さま!」
夫は膝を折り、子を受け止めた。
抱き上げる動作が、以前より慣れていた。
澪は入口に立ったまま、二人を見ていた。
律は持ってきた積み木の箱を開け、父の膝へ一つずつ並べた。
夫は、その一つを取った。
「これは、何になる?」
「えき」
「駅か」
「お母さまの、きしゃが、とまるの」
夫の手が止まった。
澪は、その顔を見なかった。
息子が庭へ出たあと、二人は向かい合って座った。
夫は、卓上の新聞を畳んだ。
議会で、自分の退位が審議されていることを知っていた。
「代行では、済まないのですね」
澪は頷いた。
「今のままでは、誰の命令が有効か、各地で争いになります」
「私が、もう命じなければよい」
「お名前を使う者がいます」
夫は目を閉じた。
離宮へ移ったあと、彼の名で軍へ指示を送ろうとした者がいた。
署名は偽造だった。
しかし、どこまで本人の意思かを巡り、部隊が動きかけた。
澪は、その命令を止めさせた。
夫は、知らなかったと言った。
彼女は信じた。
それだけで、問題は終わらなかった。
「退位すれば、律が継ぐのでしょう」
夫が言った。
澪はすぐには答えなかった。
彼は、その間に気づいた。
「……あの子ではないのですか」
「幼い皇帝の名で、誰が決めるのか。また同じ争いになります」
「あなたが、摂政になればいい」
「私の決定へ反対する者が、律を担ぐことになります。あの子が何も知らないうちから」
夫は椅子の肘掛けを握った。
「だから、あなたが帝位へ?」
澪は顔を上げた。
まだ、公には提案されていなかった。
けれど、夫にも、その先は見えていた。
「求める声があります」
「あなたは、どうしたい」
澪は膝の上の手を見た。
以前なら、守るためだと言っただろう。
帝国を。
息子を。
父の築いた事業を。
それらは、今も理由だった。
しかし、供給の数字を読み、人を動かし、止まったものが再び動き始めるのを見るたび、自分ならできると思う気持ちも育っていた。
「私が、引き受けるべきだと考えています」
夫は、長く彼女を見た。
「そうですか」
声は静かだった。
「今度は、あなたが答えるのですね」
*
退位の合意には、十七日かかった。
夫は、不正を命じたとの記載を拒んだ。
澪も、その一文を入れさせなかった。
調査で確かめられた責任と、政争の中で付け加えられた非難を、同じ文書へ並べたくなかった。
憲章に反する拘束を命じたこと。
議会の審議を止めようとしたこと。
不正の調査を、軍の統制を理由に妨げたこと。
それらについては、夫も署名した。
退位後の身分と生活。
律との面会。
離宮の警備。
すべてを定めた最後の紙に、彼は長く手を置いていたという。
澪は、その場に立ち会わなかった。
次の問題は、澪自身の帝位だった。
皇帝の配偶者であることは、継承の権利を意味しない。
祖父の黎明も、帝国を支えた宰相だった。
柊家には、王朝の血統を名乗る根拠がなかった。
議会の会議で、その点は繰り返し問われた。
「商会を治める力と、帝国を治める資格は、同じではない」
一人の議員が言った。
澪は、傍聴席でその声を聞いた。
正しい問いだと思った。
別の議員が答えた。
「血統だけで資格が決まるなら、今回の命令を、我々は拒めなかった」
議論は、日が暮れても続いた。
結局、憲章に従う特別の継承法を制定することになった。
議会の両院による承認。
裁判所による手続きの確認。
君主が憲章を守る誓約。
そのうえで、ミレイアを新たな統治者として推戴する。
既存の皇族からは、激しい反発があった。
軍でも、受け入れない将校がいた。
澪は、一人ずつ会った。
最初に合意したのは、帝都警備隊と、主要な輸送拠点を守る部隊だった。
彼らは、宮廷の派閥争いで補給を止められることを恐れていた。
澪は、軍の給与と食料を確保した。
同時に、部隊の移動には、正式な指揮系統と記録を求めた。
産業界には、契約を政変のたびに無効にしないと約束した。
労働者の代表には、賃金の遅配と、閉鎖された工場の調査を命じた。
議会には、予算と監査の権限を残すと誓った。
すべての約束が、同じ方向を向いていたわけではなかった。
軍へ回す金が増えれば、町の工事は遅れる。
工場を守れば、競合する小さな工房は苦しくなる。
澪は、選ばなければならなかった。
選ぶたびに、理由を書かせた。
やがて、その理由を問う声より、早く決めてほしいという声の方が大きくなった。
ヴァレク伯爵の逮捕は、即位の審議が終わる前に行われた。
軍需の代金の一部が、彼の管理する基金を経由していた。
帳簿には、実体のない支払先があった。
伯爵は、すべてを私財へ入れたわけではないと主張した。
地方の有力者への支援。
宮廷の維持費。
表へ出せない交渉の費用。
「帝国を動かすには、記録にできぬ金も要ります」
予備審問で、彼はそう述べた。
澪は報告を読み、公開の審理を命じた。
伯爵を早く処分すべきだという者がいた。
彼を知りすぎたまま喋らせるべきではないという者もいた。
澪は、その申し出を退けた。
それでも、裁判に提出された記録には、軍の求めによって伏せられた箇所が残った。
彼女は、その処理を認めた。
その紙にも、自分の署名があった。
即位の儀式で、澪は一人で進んだ。
父の腕には、掴まらなかった。
夫も、隣にはいなかった。
通路の先に、憲章の原本と、帝冠が置かれていた。
先に、憲章へ手を置いた。
統治の権限は、法に従って行使する。
人の生命と財産を、恣意によって奪わない。
議会を尊重し、定められた手続きへ従う。
澪は、誓いを一つずつ口にした。
帝冠は、想像していたより重かった。
立ち上がると、人々が頭を下げた。
拍手が起きた。
父の勝利を祝った、遠い日の広間を思い出した。
母は、あのとき泣いた。
今日は、泣かせたくないと思った。
*
祝賀の列には、軍人も、商人も、教団の長も並んだ。
誰もが、帝国を救ったと称えた。
誰もが、自分たちの願いを、言葉のどこかへ添えた。
澪は笑顔で受けた。
顔も、声も、よく覚えておこうとした。
祝いが終わる頃には、頬の筋肉が痛んでいた。
仕事部屋へ戻ると、父と母が待っていた。
暁人は、娘の前で初めて正式な礼をした。
澪は、それを最後まで受けることができなかった。
「お父さま」
父が顔を上げた。
彼女は近づき、その腕を掴んだ。
クララが、静かに帝冠へ目を向けた。
「重そうね」
「ええ」
「外しても、いいのでしょう」
澪は、思わず笑った。
母は娘を椅子へ座らせ、侍女とともに冠を外した。
額に跡が残っていた。
クララは指で、そこへ触れた。
何も言わなかった。
最初の一年、澪はよく働いた。
供給委員会を再編した。
港と鉄道、道路の輸送情報を、同じ役所で照合できるようにした。
精製所の増設が進み、燃料販売所が街道沿いに増えた。
自動車は、まだ高価だった。
故障も多かった。
それでも、医師を運ぶ車が現れ、郵便を運ぶ車が現れた。
荷を積む車は、橋の耐荷重を超えないよう制限された。
速度と通行方向を定める規則が作られ、修理工場には、燃料を安全に抜く場所が求められた。
澪の名は、道路の開通式でも、工場の看板でも使われた。
鉄道会社は、一部の小口輸送を失った。
その代わり、遠い町から集められた荷を、大量に運ぶようになった。
すべてが滑らかに移ったわけではなかった。
閉じた駅には、草が生えた。
新しい道路から外れた宿場は、客を失った。
その報告は、繁栄を示す数字の後ろへ綴じられた。
即位から二年目、議会は非常措置の一部廃止を求めた。
地方の兵は戻り、軍需の不正も裁判に付された。
そろそろ、通常の手続きへ戻すべきだという声だった。
澪は案を読んだ。
閣僚たちは反対した。
いま権限を手放せば、港の整備が遅れる。
油の供給を、各商会の判断だけへ戻すのは危険だ。
自動車と道路の制度は、まだ揃っていない。
澪自身も、そう思った。
期限を延ばす代わりに、報告を詳しくする。
議会の監査を受ける。
その条件を加え、彼女は継続へ署名した。
署名を終えたあと、しばらく、ペンを置けなかった。
海の向こうから、即位を祝う手紙が届いていた。
公式なものは、工場と大学の連名だった。
もう一通、薄い封筒があった。
『冠は、重いですか』
最初の一行を読んで、澪は椅子へ背を預けた。
『新聞の絵では、よく分かりませんでした。
こちらの工場では、車の冷却を改めています。長く走ると、やはり熱が逃げません。
窓辺に置く椅子を、一つ買いました。仕事を持ち帰らないつもりでしたが、今のところ、図面が座っています』
澪は、指で目元を押さえた。
続きを読んだ。
『こちらは、変わりありません。
あなたが、お変わりになったことを、責める意味ではありません。
ただ、お伝えしておきたくなりました』
返事は、夜更けに書いた。
昼間の決裁で、指が少し痛んでいた。
『冠は、重いです。
外している時間の方が長いのに、つけていないときにも、重さが残ります』
書いてから、窓を見た。
庭は暗かった。
机の上へ視線を戻した。
『あなたの椅子に、図面以外のものが座る日は、ありますか』
そこまで書いて、顔が熱くなった。
女帝になっても、こんな一行を前に迷う。
澪は、紙を破らなかった。
下に、小さく書き加えた。
『私は、ときどき、工房の車に座った日のことを思い出します。
まだ、どこへも走らなかった日です』
返事が届くまで、ひと月半かかった。
その間に、二つの工場が稼働した。
地方で起きた抗議に、警備隊が出た。
負傷者の報告を読み、澪は調査を命じた。
律は熱を出し、三晩、彼女は子の寝台へ通った。
熱が下がると、息子は何事もなかったように、積み木で駅を作った。
ユリアンからの手紙が届いた日も、澪は会議へ出る支度をしていた。
封を切った。
『椅子には、私が座っています。
一人で暮らすには、十分な部屋です』
彼女は、その二行を長く見た。
下に、続きがあった。
『私も、あの日を覚えています。
動かなかったことまで含めて、大切な日です』
澪は手紙を畳んだ。
胸へ当てようとして、扉の外の気配に気づいた。
書記が、会議の時刻を告げた。
「今、参ります」
彼女は答えた。
手紙を引き出しへ入れ、鍵を掛けた。
そして、大陸の油と鉄道と軍を動かすために、扉を開けた。




