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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第八十三章 扉の外の帝国



 澪は、父への返事を三行で終えた。


『議会の監査委員長へ。


 同じ写しを、議長と憲章裁判所へも。


 渡した時刻と、受け取った者の名を残してください』


 最後に、古い言葉で署名した。


 澪。


 侍女が紙を受け取った。


「危ないことを、頼んでいるわ」


 澪が言うと、彼女は折った紙を本の表紙へ挟んだ。


「旦那さまからは、難しければ持ち帰れと」


「そうして。少しでも無理だと思ったら」


 侍女は頷いた。


 盆を持ち上げる。


 扉が開いた。


 衛兵が、盆と本へ目を向けた。


「読み終えられたものです」


 侍女が言った。


 衛兵は本の間を確かめ、通した。


 返事は、表紙を覆う薄い革の内側にあった。


     


 議会へ資料が届いたのは、その日の夕刻だった。


 暁人自身は、建物へ入らなかった。


 柊家の法務を預かる者と、記録の管理者が持参した。


 封を切った監査委員長は、最初の数枚を読んでから、扉を閉めさせた。


 燃料の納入量。


 軍の工場が受領した数量。


 代金の支払先。


 製造したとされる機関の番号。


 同じ番号が、別の工場でも使われていた。


 存在しない倉庫へ、油が運ばれたことになっていた。


「原本は」


「保管場所を分けております」


 法務の男が答えた。


「必要であれば、照合に応じます」


 委員長は顔を上げた。


「皇后陛下は、これをご存じか」


「監査を命じられた方です」


 男は、それ以上言わなかった。


     


 皇帝が妻の部屋へ来たのは、日付が変わる前だった。


 澪は立ち上がらなかった。


 机には、読んでいた憲章の解説書が置かれていた。


 夫はそれを見た。


「外へ、何を知らせました」


「監査の記録を、議会へ渡すよう頼みました」


 彼は扉を閉めた。


 廊下にいた者たちの気配が、遠くなった。


「あなたは、私の妻です」


 澪は頷いた。


「はい」


「なぜ、私の敵へ渡す」


「議会は、陛下の敵ではありません」


「私を裁くために使われる」


「ならば、調査を止めずに、説明をなさってください」


 夫の顔が歪んだ。


 怒りだけではなかった。


 彼女が自分を選ばなかった。


 その思いが、表情に出ていた。


     


「私に、父のようになれと言った者が何人いたと思う」


 彼は低い声で言った。


「即位する前から、父ならどうした、父はこう決めたと。それが今度は、あなたなら分かる、皇后へ聞けばよいと」


 澪は、夫を見た。


「私が、頼りなかったのですか」


 その問いは、彼女を強く揺らした。


 夫が父帝の手を握っていた夜を思い出した。


 そばにいてほしいと頼まれたことも。


「一人で決めなければならないと、お考えになったことが、怖かったのです」


 澪は答えた。


「私も、議会も、軍も、陛下へ違うことを申し上げます。そのたびに、従うか、退けるかだけをお選びになるなら、最後には、同じ返事をする者しか残りません」


 夫は口を閉じた。


 澪は、声を落とした。


「私は、あなたに、そうなってほしくなかった」


     


 長い沈黙があった。


 夫は、机に置かれた本へ手を伸ばした。


 開かなかった。


「議会へ、取り下げるよう言いなさい」


 澪は首を振った。


「もう、私だけの記録ではありません」


「まだ、止められる」


「止めません」


 夫は手を引いた。


 そのとき、澪は、今まで自分がどこかで待っていたことに気づいた。


 彼が分かってくれること。


 怒りが過ぎれば、以前のように話せること。


 窓辺で茶を飲み、言いすぎたと互いに笑えること。


 その望みだけでは、牢にいる者を出せなかった。


     


 翌朝、柊家の帝都商館へ兵が入った。


 帳簿と電信の記録を押さえる。


 軍需契約に関わる資料は、すべて確認する。


 責任者には、建物を出ないよう命じられた。


 暁人は、その場にいた。


 兵を率いる将校へ、命令書を見せるよう求めた。


 将校は差し出した。


 皇帝の印があった。


 暁人は最後まで読んだ。


「従います」


 彼は言った。


 部下たちが父の顔を見た。


「ただし、押収するものは、一点ずつ目録に。持ち出す者の名も書いていただく」


「必要なものは、こちらで判断する」


「ならば、その判断を、記録に残してください」


 将校は暁人を睨んだ。


 父は、目を逸らさなかった。


     


 その日の午後から、油の出荷に遅れが出た。


 柊家が止めたのではなかった。


 軍が帳簿と担当者を押さえたため、どの荷を、どこへ送るかを確認できなくなった。


 駅の貨車には、油の樽が積まれていた。


 港には、船が着いていた。


 しかし、受領の書類が揃わない。


 検印を持つ役人は、責任を取れず、荷を動かさなかった。


 軍の車庫から、催促が来た。


 鉄道の修繕所からも来た。


 病院の予備電源を扱う者が、必要な油の残量を知らせてきた。


 夕方には、各地の数字が議会へ集まり始めた。


 澪が何年もかけて整えた報告の書式だった。


     


 ヴァレク伯爵は、すぐに対処を命じた。


 軍の管理者を置く。


 必要な出荷を再開する。


 だが、精製所の責任者は、命令を受けると質問を返した。


 どの品質の油を、どの機械へ送るのか。


 既に約束した民需を、どこまで後へ回すのか。


 船と列車の枠は、誰が確保するのか。


 命令書には、答えがなかった。


「現場を動かせ」


 伯爵は役人へ言った。


「担当者が、文書での指示を求めております」


「この時に、手続きを盾にするか」


 役人は黙った。


 いつも、手続きを守るよう求めていたのは伯爵自身だった。


     


 議会は、緊急の審議を開いた。


 拘束された監査官の出席。


 押収した記録の保全。


 軍需契約の支払先の調査。


 それらを求める決議が、予想以上の賛成を得た。


 柊家へ好意的な者ばかりではなかった。


 道路への投資を批判してきた議員もいた。


 油の価格が高いと、何度も澪を責めた者もいた。


 その一人が立ち上がった。


「私は、皇后の商売を守るために賛成するのではない」


 議場が静かになった。


「記録を出した者が牢へ入り、記録に名前のある者が調査を命じている。そのままでよいかを、問うている」


 決議は可決された。


     


 その知らせは、律を通じて澪へ届いた。


 母に会いたいと泣いた子を、乳母が連れてきたのだった。


 澪は寝椅子へ座り、息子を膝へ抱いた。


 律は、いつもと違う部屋の様子を見回した。


「お母さま、きょうも、ここ?」


「ええ」


「お外、いかない?」


「今日は、行かないわ」


 子は彼女の袖を掴んだ。


 乳母が外套を受け取るふりをして近づき、紙を一枚、寝椅子の陰へ置いた。


 澪は、律の髪を撫でた。


 息子が積み木を並べ始めてから、紙を読んだ。


 議会の決議。


 憲章裁判所からの、拘束の適法性に関する照会。


 そして、監査記録の中に、伯爵の管理する基金への送金が見つかったこと。


 澪は紙を畳んだ。


 息子の積み木が崩れた。


 律が、彼女を見上げた。


「もういっかい」


 澪は床へ膝をついた。


「ええ。もう一回、やりましょう」


     


 危機が決定的になったのは、皇帝が議会の閉会を命じた夜だった。


 非常時における秩序の維持。


 軍需情報の漏洩防止。


 その二つを理由に、審議を中断する。


 同時に、監査委員長と数名の議員を、事情聴取のため確保するよう命令が出た。


 帝都警備隊の司令官は、命令書を受け取り、法務官を呼んだ。


「従える命令か」


 法務官は、憲章と照合した。


「議員の拘束には、議会の承認か、現行の重大犯罪を示す手続きが要ります」


「非常命令だ」


「その条項で、免責までは停止されておりません」


 司令官は、机へ両手を置いた。


 軍が動かなければ、皇帝に逆らうことになる。


 動けば、憲章に反する。


 明け方までに、彼は返答を書いた。


 拘束の実行を保留し、適法な手続きを求める。


 その写しを、議会と裁判所へ送った。


     


 朝、澪の部屋の扉が開いた。


 皇帝ではなかった。


 宮中の法務長と、警備隊の司令官が立っていた。


 澪は椅子から立った。


「何があったのですか」


 法務長が一礼した。


「陛下に、これ以上の勅命をお出しにならぬよう、お願いしております」


「夫は、どこに」


「執務室に。護衛は、そのままです」


 澪は二人を見た。


 司令官の顔は硬かった。


 法務長は、眠っていない目をしていた。


「議会の代表が、皇后陛下のお考えを伺いたいと」


 澪はすぐには答えなかった。


 扉が開いている。


 道を塞ぐ衛兵は、もういなかった。


 そのことが、何を意味するか、分かった。


     


 議長は、宮殿の小会議室で待っていた。


 宰相。


 憲章裁判所の長。


 軍の統帥を担う者。


 教団の代表。


 澪が入ると、全員が立った。


 彼女は椅子へ座らず、尋ねた。


「監査官は」


「釈放の手続きを進めています」


「父の商館にいる兵は」


「資料の保全を確認したうえで、引き揚げさせます」


 澪は、そこで初めて椅子へ腰を下ろした。


 議長が一枚の文書を出した。


 皇帝の政務の一時停止。


 議会と裁判所の確認のもと、統治を代行する者を置く。


 その候補に、彼女の名があった。


     


「私は、皇族として生まれた者ではありません」


 澪は言った。


「継承法も、承知しています」


 裁判所の長が答えた。


「これは、現時点での継承ではありません。統治を止めないための、期限を限った代行です」


「夫が、認めなければ」


「その場合には、議会の決議と、裁判所の判断をもって行います」


 澪は文書へ目を落とした。


 任期。


 権限。


 報告の義務。


 軍の指揮。


 財政の執行。


 かつて自分が委員会の設置案へ書き加えたものに、よく似ていた。


 ただし、扱うものは油だけではなかった。


     


「なぜ、私なのですか」


 澪が尋ねた。


 宰相が答えた。


「各地の供給を把握しておられる。軍にも、議会にも、産業界にも、話を通せる」


「柊家の娘だから」


 誰も、すぐには否定しなかった。


 澪は、その沈黙を受け止めた。


 議長が言った。


「それも、理由の一つです」


 彼は、彼女を見た。


「ですが、今回の記録を、握り潰さずに出されたことが、最も大きい」


 澪は、机の下で手を握った。


 自分の利益と関係のない行為だったとは言いきれない。


 父の会社も、息子の将来も、守ろうとしていた。


 それでも、牢にいる者を見捨てたくなかったことは本当だった。


     


「先に、夫と話をさせてください」


 澪は言った。


 司令官が、わずかに身じろぎした。


「お一人では」


「扉の外に、お待ちになって」


 彼女は立ち上がった。


「逃がすためではありません」


 言ってから、その言葉が必要になったことを、悲しく思った。


     


 夫は、執務机の前に立っていた。


 剣も、書類も、そのまま置かれていた。


 彼女が入ると、顔を上げた。


「あなたが、来るのですね」


 澪は扉を閉じた。


 夫は、疲れ切っていた。


 昨日まで命令を下していた人が、いま、誰が入ってくるかを待っている。


「あなたに、頼めばよかった」


 彼は言った。


 澪は足を止めた。


「最初から、軍のことも、父のことも、怖いと。私には分からないことがあると」


 彼は、微かに笑った。


「そう言えば、あなたは、私のそばにいてくれましたか」


 澪の目に涙が浮かんだ。


「いました」


 夫は彼女を見た。


「今、そう言うのは、簡単ですね」


 澪は頷いた。


「ええ」


 弁解はできなかった。


     


「私を、廃するのですか」


 彼が尋ねた。


「今、求められているのは、政務の代行です」


「その先は」


 澪は答えなかった。


 夫は、その沈黙で理解した。


 窓の外へ顔を向けた。


 庭の噴水が動いていた。


 二人が、まだ婚約する前に、修理を待っていた噴水だった。


「律を、頼みます」


 夫が言った。


 澪は顔を覆いそうになった。


 こらえた。


「あなたも、あの子の父です」


「そうでいられるように、してください」


 彼は、初めて彼女へ願った。


 命じる声ではなかった。


 澪は近づき、夫の手を取った。


 彼はすぐには握り返さなかった。


 しばらくして、その指が動いた。


     


 会議室へ戻ると、澪は文書の修正を求めた。


 拘束した者への扱いを、公開の手続きで審査する。


 皇帝の身柄と生命を保障する。


 息子の養育を、政争の道具にしない。


 代行の権限には、期限と議会への報告義務をつける。


 そのうえで、彼女は署名した。


 皇后ミレイア。


 翌朝、帝国全土へ布告が送られた。


 軍の部隊には、現在地を保ち、中央の新たな指示を待つよう命じられた。


 鉄道には、民需を含む運行の継続。


 港には、荷役の再開。


 精製所には、既に認められた供給を止めないこと。


 命令は、澪が整えてきた電信と帳簿の経路を使って、各地へ届いた。


     


 その夜、仕事部屋に父が来た。


 暁人は、娘の前で礼をしなかった。


 扉が閉まると、しばらく顔を見た。


「食べたか」


 澪は首を振った。


 父は、持ってきた包みを机へ置いた。


 母が焼かせたパンだった。


 澪は一つ取った。


 一口食べてから、ようやく泣いた。


 父は椅子を引き、向かいへ座った。


 慰めなかった。


 ただ、彼女が食べ終えるまで、そこにいた。


     


 海の向こうへ政変の知らせが届いたのは、二十日後だった。


 新聞には、皇后が統治を代行するとあった。


 ユリアンは工場の事務室で、その記事を読んだ。


 彼女の名が、幾度も出ていた。


 供給を回復した。


 軍の分裂を防いだ。


 憲章を守った。


 そのどれにも、彼女が夜、何を思っているかは書かれていなかった。


 彼は白い紙を出した。


『ご無事でしょうか』


 書いてから、次の行を空けた。


『こちらの港にも、あの鳥に似たものが来ます。


 まだ、名前を調べていません』


 ユリアンは、ペンを止めた。


 称号も、国のことも、書かなかった。


 彼女が決めなくてよい話を、一つだけ届けたかった。

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