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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第八十二章 出発を命ずる者



 ユリアンからの返事には、鳥の絵があった。


 上手な絵ではなかった。


 嘴と尾の長さだけが妙に細かく、脚は二本の線で済まされていた。


『私が思い浮かべたのは、こちらです。


 違う鳥でしたら、窓から見える向きで描いてください。機関とは関係ありませんが、気になります』


 澪は、机に片肘をついて笑った。


 自分がそうしていることに気づき、姿勢を正した。


 部屋には、誰もいなかった。


 彼女は、もう一度、絵を見た。


 その下に、短い文章があった。


『名前が決まらないうちは、鳥の方も、好きに来られそうですね』


 返事を書こうとしていたところへ、書記が来た。


 国の監督下に置く研究事業について、閣議へ出す案がまとまったという。


 澪は手紙を引き出しへ入れた。


 鳥の絵が、最後まで見えていた。


     


 新しい案では、内燃機関の研究に関わる設備と技師を、必要に応じて国の事業へ組み入れることになっていた。


 協力には、対価を支払う。


 ただし、技師が担当を離れること、国外で指導すること、製造図を第三者へ渡すことには、許可を要する。


 期限は、非常措置が解除されるまで。


 澪は、その一行を何度も読んだ。


「解除の見込みは、示されているのですか」


 書記は首を振った。


 彼女は紙を置いた。


「陛下に、お時間をいただいてください」


     


 夫は、その案を既に承認するつもりだった。


「研究をまとめれば、設備も人も、重複せずに済みます」


「異なる場所で試すから、違う失敗が分かることもあります」


「今は、使えるものを早く作る必要がある」


 澪は夫を見た。


 即位から、まだ一年に満たなかった。


 地方の兵は大半が戻っていた。街で大きな騒乱も起きていない。


 それでも非常措置は延長され、軍への予算は増え続けていた。


「何に使うためですか」


「国を守るためです」


「誰から」


 夫の顔が強張った。


 澪は、問いを引かなかった。


「必要な備えをすることと、できることをすべて国のものにすることは、違います」


「国のものにするとは、誰も言っていない」


「持ち主が断れず、技師が離れられず、期限も分からないのなら、同じことになります」


 夫は席を立った。


 窓際へ行き、しばらく黙っていた。


「あなたは、なぜ、いつも私に反対する」


 澪は答えなかった。


「私が承認するものには、条件をつける。軍が求めれば、根拠を求める。伯爵が案を出せば、権限を狭めようとする」


「そのために、私を委員会へお入れになったのでは」


 夫が振り返った。


 その顔を見て、澪は初めて、自分が正しい言葉を選べば話が通じると思っていたことに気づいた。


 夫は、正しさを聞きたいのではなかった。


 自分を信じてほしかったのだ。


 けれど、信じることを理由に渡してしまえば、取り戻せなくなるものがあった。


     


「ロシュフォール氏を、行かせてください」


 澪は言った。


 夫の表情が変わった。


「結局、その話ですか」


「向こうで学べることがあります。こちらの工房も、研究を続けられます」


「いま、重要な技師を国外へ出す理由はない」


「既に、製造の指導を引き継いでいます」


「彼の代わりがいると?」


「一人でしかできない仕事を、減らしてきたのです」


 夫は彼女を見据えた。


「あなたは、彼を失いたくないのだと思っていた」


 澪は息を止めた。


「だから、残るようにすれば、あなたも安心するのではないかと」


 しばらく、声が出なかった。


 夫は彼女の沈黙を見て、ようやく視線を落とした。


 澪は、机の端へ手を置いた。


「私のために、彼を留めないでください」


 声は震えなかった。


 そのことが、自分でも不思議だった。


「そのようなものを、私はいただけません」


     


 許可が出るまで、さらに六週間かかった。


 国外へ渡す図面は、一枚ずつ定められた。


 軍の費用で行った研究は除外された。滞在先から報告を出す義務も課された。


 それでも、ユリアンは出国できることになった。


 澪は、夫との間にどのような話があったかを、彼へ知らせなかった。


 許可の通知には、出発の日も記されていた。


 春の最初の定期船。


 帝都を発つのは、その三日前だった。


     


 出発前の協議は、柊家の事務所で行われた。


 澪は、最後の確認のために出席した。


 もう、誰も彼女を、ただの出資者としては迎えなかった。


 椅子が引かれ、人が立ち、発言の前に顔を確かめる。


 ユリアンだけが、以前と同じように、契約の不明な箇所を指摘した。


「こちらの製造許諾は、私の滞在先が変わっても続くのですか」


 澪は、その文章を見た。


 国外での居所が変わる場合は、出資者と承認官庁へ届け出る。


 研究先の変更には、あらためて同意を得る。


「工房へ知らせていただければ」


 彼女は言った。


「資金を使う研究については、こちらにも相談を」


「では、出資を受けない仕事は」


 澪は顔を上げた。


 ユリアンが彼女を見ていた。


「それまで、私が許す必要はありません」


 彼は頷いた。


 書記が修正を書き込んだ。


 それだけのやり取りなのに、澪には、彼が一歩ずつ自分から離れる道を確かめているように思えた。


    


 協議が終わると、澪は少しだけ残るよう頼んだ。


 同席者たちは隣室へ移った。


 扉は、わずかに開けられたままだった。


「船には、慣れているの?」


 澪が尋ねた。


「バフラーンへ行ったときは、よく眠れました」


「私は、あまり」


「存じています」


 彼は少し笑った。


「着く前の日、食事にいらっしゃらなかった」


「覚えていたの」


「ええ」


 それきり、二人とも黙った。


 澪は膝の上で手を重ねた。


「向こうで、自由に研究してほしいの」


 ユリアンは、彼女を見た。


「こちらから求める報告は、必要なものだけにする。費用も、約束通りに」


「ありがとうございます」


「困ったことがあれば、知らせて」


「はい」


 礼儀正しい返事が、胸に刺さった。


 澪は、声を落とした。


「あなたを、遠ざけたいのではないの」


 ユリアンの指が止まった。


     


 彼は、すぐには答えなかった。


 澪は待った。


「では、なぜ」


 ようやく、彼が言った。


「ここで、続けることはできないのでしょうか」


 澪は顔を上げた。


「あなたが望んだ仕事よ」


「ええ。行きたいと申し上げました」


 彼は静かに頷いた。


「それでも、今は、行くことだけが、すべてを穏やかにするのだと感じます」


 澪の喉が詰まった。


「私がいなければ、あなたも、陛下も、研究の話をしやすくなる」


「違うわ」


 即座に言った。


 けれど、その先が続かなかった。


 ユリアンは、彼女を責めなかった。


 それが、かえって辛かった。


「向こうへ行くことは、私の決定です」


 彼は言った。


「それは、変わりません」


 澪は、ようやく息を吸った。


 彼は、もう一度だけ彼女を見た。


「ただ、あなたに、行ってよいと言っていただくのは、思っていたより辛い」


     


 澪は机へ手を伸ばした。


 彼の手の、すぐそばへ置いた。


「行ってほしくない」


 声は小さかった。


 初めて、そのまま言った。


 ユリアンの手が動いた。


 指先が、彼女の指へ触れた。


「……それを、聞きたかったのだと思います」


 彼は言った。


 澪は顔を伏せた。


 涙を落とすまいとして、まばたきをした。


「でも、行って」


 触れた指に、力が入った。


「ここで、あなたの仕事まで、私たちの争いにしたくないの」


 ユリアンは目を閉じた。


 彼女が守ろうとしているものは分かった。


 その中に自分がいることも。


 それでも、差し出された道の先は、彼女のいない国だった。


 彼は、澪の指を一度だけ握った。


 それから、離した。


     


 出発の日、澪は駅へ行かなかった。


 夫とともに、地方の代表団を迎える予定があった。


 正午、挨拶の途中で、遠くの汽笛が聞こえた。


 彼女は話している男の顔を見ていた。


 口元が動いていた。


 何を言っているのか、ほんの数秒、分からなくなった。


 隣で、夫が答えた。


 澪は微笑みを戻した。


 その日、彼女が返事を誤ることはなかった。


     


 ユリアンは、窓側の席に座った。


 駅の柱が動き、ホームが後ろへ流れた。


 見送りに来た職人たちが、手を上げた。


 彼も手を上げた。


 帝都を離れると、線路は低い丘の間へ入った。


 柊家の資金で敷かれた線路だった。


 彼は鞄から、小さな紙を出した。


 鳥の絵を描いたあと、澪が送り返してきたものだった。


 枝に止まる鳥は、彼の絵よりずっと丸かった。


『尾は、こちらの方が短いと思います』


 その下に、澪、とだけ書かれていた。


 ユリアンは紙を畳んだ。


 向かいの席に、誰かの荷物が置かれた。


 彼は窓へ顔を向けた。


     


 最初の一年、手紙は届いた。


 港の風。


 工場の朝の鐘。


 同じ寸法に仕上げた部品が、別の機関にも収まったこと。


 澪は、庭の鳥と、母の花壇と、道路沿いにできた小さな店のことを書いた。


 仕事の報告は、別の封筒で送られた。


 二年目、ノルディエラの工場は研究設備を増やした。


 ユリアンは滞在を延ばした。


 帝国では、国外との技術協力について、さらに細かな規定が加えられた。


 帰国すれば、次の出国を認められるか分からない。


 工房の者たちは、仕事を続けるなら、当面は向こうに残る方がよいと書いた。


 澪も、同じ結論を認めた。


 その返事に、行ってほしくない、とは書けなかった。


     


 三年目、澪に息子が生まれた。


 夫は寝台のそばで、何度も子の顔を覗き込んだ。


 抱き方を教えられても、肩に力が入っていた。


「そんなに、難しいですか」


 澪が尋ねると、彼は真剣に頷いた。


「落とすわけにはいかない」


 彼女は笑った。


 息子は、父の指を小さな手で握った。


 夫が、顔を上げた。


 その目の喜びを見て、澪の胸にも温かいものが満ちた。


 家の記録には、古い言葉の名を残した。


 柊律。


 公には、レオンハルト。


 クララが見舞いに来ると、赤子を抱きながら、二つの名を順に呼んだ。


 澪は、その声を聞いて眠った。


     


 出産の知らせへ、ユリアンから手紙が届いた。


『ご無事で何よりでした。


 お子さまが、よく眠り、よく食べ、健やかに育たれるよう願っています』


 祝いの品は、小さな木の箱だった。


 角を丸くした積み木が入っていた。


 歯車はなかった。


 澪は、それが彼らしいと思った。


 赤子のそばで、一つずつ積み上げた。


 律が手を伸ばすには、まだ早かった。


 それでも、崩れないように、ゆっくり積んだ。


     


 その頃には、自動車は工房の敷地だけを走るものではなくなっていた。


 始動には手間がかかった。


 坂では力が足りず、故障も多かった。


 それでも、荷を積み、決めた町まで往復する車が現れた。


 点火装置を直す者。


 燃料を調整する者。


 車輪のゴムを替える者。


 変速の歯車を削る者。


 澪は、それらを一つの会社へ収めるより、契約でつなぐ方が速いと覚えた。


 修理所へ道具を貸し、販売所へ貯蔵設備を置き、道路の修繕へ資金を出した。


 車が増えれば、燃料が売れた。


 燃料が買え、故障を直せる場所が増えれば、車を買う者も増えた。


 その一方で、鉄道の収入が落ちた町では、駅の人員が減らされた。


 澪は報告を読んだ。


 代わりの仕事を用意するよう命じた。


 すべての者に、間に合ったわけではなかった。


     


 皇帝は、息子の誕生を喜んだ。


 同時に、継承を揺るがすものへ、以前より敏感になった。


 地方の王族が兵を集めれば、調査を命じた。


 議会が軍の予算を削れば、再審議を求めた。


 非常措置は、名称を変えながら残った。


 ヴァレク伯爵は、そのたびに必要な文面を整えた。


 供給委員会も、臨時の機関ではなくなりつつあった。


 澪はその席で、軍へ渡す油の量を知り、鉄道の余力を知り、どの町に何日分の食料があるかを知った。


 夫が地方の不穏を案じると、彼女のもとへも数字が集まった。


 大臣たちは、会議の前に澪へ説明するようになった。


 決定を覆されないためだった。


 やがて、説明ではなく、判断を求める者も現れた。


     


 最初の噂は、宮中の食堂で囁かれた。


 帝国を動かしているのは、陛下か、皇后か。


 澪は、それを侍女の顔色から知った。


 夫は、誰かが報告するより前から気づいていた。


 夕食の席で、彼は彼女へ尋ねた。


「今日、軍務卿と何を話しました」


「西部への輸送です。橋の修繕が終わるまで、別の経路へ回します」


「私には、まだ届いていない」


「明日の会議へ出すと、伺っています」


 夫は杯を置いた。


「私の知らないところで、決まることが増えましたね」


 澪は、答える前に息子を見た。


 律は隣の部屋で食事を終え、乳母の手を引いていた。


 父を見つけて、笑った。


「お父さま」


 夫の顔が、ほんの一瞬、和らいだ。


 そのあと、彼は澪へ目を戻した。


「あとで、話しましょう」


     


 その冬、軍の工場で、大きな不正が見つかった。


 納めたはずの機関がない。


 動かないものを、完成品として数えている。


 燃料と機械油の帳簿も合わない。


 供給委員会の監査が、最初の食い違いを見つけた。


 調べるほど、財務と軍の高官の名が出た。


 澪は報告を夫へ渡した。


 皇帝は最後まで読み、書類を閉じた。


「この監査を、いったん止めてください」


 彼女は、夫を見た。


「なぜですか」


「今、軍を割るわけにはいかない」


「調査を止めれば、何を守ることになるか、お分かりですか」


 夫は、机を強く押さえた。


「私が、この国を守るために言っていることを、あなたは一度でも、そのまま受け入れたことがあるのか」


 澪は動かなかった。


 初めて会った夜、彼は修理の報告書より、職人の説明を聞きたいと笑っていた。


 その顔が、目の前の顔へ重なった。


「ありません」


 澪は答えた。


 夫の目が細くなった。


「考えずに受け入れることを、私はお約束しておりません」


     

 翌朝、監査の責任者が拘束された。


 理由は、軍の機密を漏らした疑い。


 澪の委員会から、記録が押収された。


 昼には、皇后の権限を見直す案が、宮中の会議へ提出された。


 柊家の事業持分を、公的な管理へ移す。


 供給と輸送を、皇帝直属の機関へまとめる。


 皇后は、養育と宮中の務めに専念する。


 ヴァレク伯爵の名は、提出者の中になかった。


 ただ、その文面には、彼が何年も使ってきた言い回しがあった。


     


 澪は仕事部屋で、拘束された者の名を読んだ。


 何度も、数字を確かめさせた相手だった。


 都合の悪い不足を報告してきたこともあった。


 そのたびに、彼女は、隠さず出すよう求めた。


 求めた結果、彼は牢へ入った。


 澪は椅子から立った。


 扉を開けると、廊下に見慣れない衛兵がいた。


 礼をした。


 道は空けなかった。


「陛下は、お部屋でお休みいただくようにと」


 澪は、衛兵の顔を見た。


 若い男だった。


 命じた者へ責任を返すような目をしていた。


 彼女は扉の内側へ戻った。


 鍵は、外から掛けられなかった。


 掛ける必要がないのだと、澪には分かった。


     


 机の引き出しには、海の向こうから届いた手紙があった。


 最近のものには、工場の窓から見える港が描かれていた。


 船の帆。


 低い倉庫。


 岸壁に止まった、一羽の鳥。


 澪は手紙へ触れた。


 ここへ帰ってきてほしいと、初めて、何の言い訳もなく思った。


 けれど、彼を出しておいてよかったとも思った。


 自分がどちらのために泣きそうなのか、分からなかった。


 扉が、控えめに叩かれた。


 侍女が入ってきた。


 両手で持った盆に、茶と、薄い本が載っていた。


 祖父・黎明の憲章の解説書だった。


 頁の間に、一枚の紙が挟まれていた。


 父の筆跡で、短く書かれていた。


『原本の控えは残っている。


 議会へ渡すか。


 お前が決めろ』


 澪は、何度もその文字を読んだ。


 廊下には、衛兵がいる。


 宮殿の外には、父の鉄道がある。


 港には、自分が押さえた船がある。


 各地の工場と町は、明日届く油を待っている。


 彼女は机へ座った。


 返事を書くために、白い紙を一枚、前へ引き寄せた。

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