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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第八十一章 海の向こうの仕事



 ノルディエラまでの旅程は、一枚の紙に収まった。


 帝都から鉄道で北の港へ。


 港から船で海峡を渡り、沿岸を西へ進む。


 天候がよければ十日余り。


 冬の海では、さらに待つこともある。


 澪は、書記が書き添えた日数を見た。


 十日。


 自分の机で、返事を迷っているだけでも過ぎてしまう時間だった。


「定期の航路なのね」


「はい。荷も人も、同じ船で運んでおります」


「向こうの港から、工場までは?」


「馬車で半日ほどと」


 澪は頷いた。


 書記は、次の指示を待っていた。


 船を押さえるのか。


 費用を調べるのか。


 彼女は、路線図を畳んだ。


「工房から、正式な相談が来るまで、そのままに」


     


 ユリアンからの回答は、三日後に届いた。


 招請を受けるかどうか、まだ決めていない。


 ただし、工房として共同研究の可能性を検討したい。


 先方には、精度の高い旋盤と、歯車を切る設備がある。


 一定期間、技師を送り合えれば、双方に利益が見込める。


 滞在は、初めは一年。


 澪は、そこで読むのを止めた。


 一年。


 自分が皇后になってから、まだ、それほど経っていなかった。


 長いとも、短いとも決められない時間だった。


 彼女は続きを読んだ。


 研究成果の扱い。


 製造を認める地域。


 図面を交換する範囲。


 柊家との契約を損なわないための確認事項。


 最後まで、彼自身が行きたいのかどうかは書かれていなかった。


     


 工房の代表者たちとの協議は、柊家の事務所で開かれた。


 澪は出席しなかった。


 法務の担当者と、機械部門を預かる者へ任せた。


 報告には、ユリアンが同行する場合、彼の留守を担う技師を育てる必要があると記されていた。


 研究は、止めない。


 車台の改良も続ける。


 向こうで作った部品は、寸法と材料を記録して、こちらでも確かめる。


 澪は、費用の欄へ目を落とした。


 受け入れ先が負担する分。


 工房が持つ分。


 柊家へ求める分。


 自分が支払えば、彼は海を渡れる。


 支払わなければ、残るかもしれない。


 その考えが浮かんだことを、彼女は誰にも知られたくなかった。


     


 父へ相談したのは、翌朝だった。


 暁人は招請状の写しと、費用の見込みを読んだ。


「仕事としては、悪くない」


 澪は頷いた。


「向こうの設備は、こちらより揃っているそうよ」


「職人もいる。何より、使う者が増える」


 父は、成果の取り決めを指した。


「ここは、詰めろ。向こうで改良したものを、こちらが使えなくなっては困る」


「ええ」


 暁人は書類を戻した。


「お前は、何を迷っている」


 澪は、机の木目を見た。


「彼がいなくなると、こちらの研究が遅れるわ」


「誰を残すか、工房が考える」


「戻ってこないかもしれない」


 言ってから、彼女は顔を上げた。


 父は、すぐには返事をしなかった。


「それも、契約には書ききれん」


 やがて言った。


「一年後に戻す約束はできる。戻ったあと、何を望むかまでは決められん」


 澪は、紙の端を押さえた。


「そうね」


 暁人は娘を見ていた。


 それ以上、尋ねなかった。


     


 国外への技術供与に関する草案は、ほどなく公表された。


 何を対象とするかは、別に定める。


 承認が必要となるのは、図面や製造法だけではなかった。


 重要な技術を持つ者が、国外で指導を行う場合も含まれていた。


 澪は、その条項を読んだ。


 国の承認がなければ、ユリアンは行けない。


 行かせない力が、自分の近くに現れた。


 そのことを喜べなかった。


     


 新帝は、彼女が尋ねる前に話をした。


「ノルディエラからの招請は、知っています」


 夕方の居間だった。


 澪は、持っていた本を閉じた。


「工房から、報告が届いています」


「あなたは、賛成ですか」


 夫が尋ねた。


 彼女は、少し間を置いた。


「研究には、得るものがあると思います」


「彼自身が行くことにも?」


 澪は夫を見た。


 彼は、目を逸らさなかった。


「それは、本人が決めることです」


「国が、認めない場合もある」


「ならば、理由を示していただきたいと思います」


 夫の表情が硬くなった。


 澪は、その顔を見ながら続けた。


「私たちは、向こうの工作機械を買い、技師にも来ていただいています。こちらから教えることだけを禁じれば、次は、向こうから何も届かなくなるかもしれません」


「軍事上の懸念があります」


「何を持ち出してはいけないか、具体的に決める必要があります。人が知っていることを、すべて置いていかせるわけにはいきません」


 夫は、卓上へ視線を落とした。


「あなたは、彼を行かせたいのですね」


 澪は答えられなかった。


 行ってほしくない。


 その言葉を口にすれば、夫は、聞かなかったことにはできないだろう。


「仕事の話として、判断したいのです」


 彼女は言った。


 夫は、しばらく黙っていた。


「私も、そのつもりです」


     


 その数日後、工房へ、許可の審査に必要な書類の一覧が届いた。


 持ち出す図面。


 使用する設備。


 研究の目的。


 滞在先。


 接触する技師の氏名。


 成果を報告する頻度。


 ユリアンは、紙を一枚ずつ並べた。


「一年の仕事より、先に、この書類が片づくかどうかだな」


 年長の技師が言った。


 ユリアンは苦く笑った。


「まだ、行くと決めていません」


「なら、先に決めろ。書き始めたら、行く気になるぞ」


 工房の者たちが笑った。


 笑いが収まると、年長の技師は、二人乗りの車台を見た。


「こちらは、俺たちで続けられる」


 ユリアンは顔を上げた。


「お前がいなければ何もできんようにした覚えはない」


 彼は、静かに頷いた。


     


 澪へ直接、会いたいとは書かなかった。


 それは、彼女への約束だった。


 代わりに、出発を決める前に確認すべき契約事項を、法務へ送った。


 その書面の末尾に、一行だけ添えた。


『私自身の希望については、別途、皇后陛下へお伝えしたく存じます』


 書いてから、ユリアンは長くその文字を見た。


 希望。


 そんな言葉を、彼女へ使ったことがあっただろうか。


     


 澪は、その申し出を読んだ日の夜、夫のもとへ行った。


「ロシュフォール氏と、出発の件について、一度、話をさせてください」


 新帝は、筆を置いた。


「契約の担当者では、足りませんか」


「私が出資を続けるかどうか、本人の考えを聞いてから決めたいのです」


「文書でも、聞けるでしょう」


「はい」


 澪は頷いた。


 夫は、その先を待った。


「それでも、一度、会いたいのです」


 部屋が静かになった。


 彼女は、自分が何を認めたか分かっていた。


 夫も、分かっていた。


「ほかの者を、同席させてください」


 彼は言った。


 澪は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 夫は、また筆を取った。


 書き始めるまでに、少し時間がかかった。


     


 会見は、宮殿の小さな会議室で行われた。


 法務の担当者と、工房の代表者が同席した。


 窓の外には、庭の奥へ続く道が見えた。


 ユリアンは礼をし、勧められた席へ座った。


 澪は、その顔を見た。


 前より痩せたのかと思った。


 次に、自分が覚えている顔を、毎日、少しずつ都合よく変えていたのかもしれないと思った。


「お変わりありませんか」


 彼女は尋ねた。


「はい。陛下も」


「ええ」


 それだけの挨拶に、二人とも言葉を使いすぎているようだった。


     


 協議は、順調に進んだ。


 工房の研究は、帝国内に残す。


 ユリアンは、向こうで指導しながら、自分も工作法を学ぶ。


 交換する図面は、双方の了承した範囲に限る。


 改良については、どちらか一方だけが使える形にしない。


 製造する地域と、料金は、別に定める。


 法務の担当者が確認を終え、書類を揃えた。


 工房の代表者も頷いた。


 澪は、そこでユリアンを見た。


「あなたは、行きたいのですか」


 彼は顔を上げた。


 部屋にいる者たちの視線が、彼へ集まった。


「……はい」


 澪は、小さく息を吸った。


 聞いたのは自分だった。


 返事を受け取らなければならなかった。


「何を、一番、見たいの?」


「同じ寸法の部品を、繰り返し作るところです」


 彼の声が、少し変わった。


 図面だけでは分からないこと。


 刃物を研ぐ時刻。


 材料を置いておく場所。


 熟練の職人が、削った面をどう確かめるか。


 ユリアンは、順に話した。


 澪は聞いていた。


 彼の目が、久しぶりに、自分のいない場所へ明るく向けられていた。


 それを、美しいと思った。


 寂しいとも思った。


     


 話が終わると、法務の担当者が、添付する資料を取りに席を立った。


 工房の代表者も、持参した図面を広げるため、少し離れた机へ移った。


 二人の間に、短い時間ができた。


「一年なのね」


 澪は言った。


「初めの契約は」


 ユリアンが答えた。


 彼女は頷いた。


「手紙は、届く?」


「船が出れば」


「遅れるわね」


「冬は、特に」


 澪は、卓上へ手を置いた。


「仕事の報告は、担当者へ送ってください」


 ユリアンの目が、わずかに伏せられた。


 彼女は続けた。


「あなたが、向こうで何を食べたかとか。窓から、何が見えるかとか」


 声を小さくした。


「そういうことは、私へ教えてくださる?」


 ユリアンは顔を上げた。


 澪は微笑もうとした。


「こちらからも、返事をしてよければ」


「もちろんです」


 彼は答えた。


 早い返事だった。


 そのあと、少しだけ声を落とした。


「何も、決めなくてよい手紙を、いただけたら」


 澪は、目を伏せた。


「……ええ」


     


 会見を終えると、ユリアンは立ち上がった。


 澪も立った。


 同席者たちが書類を収める音がした。


「研究費の件は、こちらで進めます」


 彼女は言った。


「ありがとうございます」


「向こうで必要な設備が増えたら、理由を添えて、知らせてください」


「はい」


 公の言葉へ戻ると、息がしやすかった。


 戻りきってしまうことが、怖くもあった。


 ユリアンが礼をした。


 澪は彼の頭が上がるのを待った。


「体を、大切に」


 彼は彼女を見た。


「あなたも」


 その返事のあとで、称号をつけなかった。


     

 国外での研究を認める許可は、すぐには出なかった。


 機関は軍事上重要となり得る。


 持ち出す図面の範囲が広い。


 滞在先の工場が、他国とも取引している。


 理由は、一つずつ示された。


 工房は、一つずつ回答した。


 冬の船便が、二度、見送られた。


 ユリアンは、出発できない間も仕事を続けた。


 車台は、敷地の外へ初めて出た。


 人の少ない早朝、許可を得た短い道を走った。


 整備した砂利道から、試験舗装へ入る。


 振動が変わった。


 隣の助手が、今度は読み取れる数字を帳面へ書いた。


 ユリアンは前を向き、曲がり角の手前で速さを落とした。


 道は、その先も続いていた。


     


 澪は試験の報告を読み、すぐに返事を書いた。


 喜びの言葉は、仕事の書面にも書けた。


 そのあと、別の紙を出した。


『こちらの庭では、朝、同じ枝へ来る鳥がいます。


 名前を侍女に尋ねましたが、二人が違うことを言いました。


 まだ、どちらにも決めていません』


 書いてから、澪は笑った。


 そんなことを伝えるために紙を使うのは、久しぶりだった。


 続きを書いた。


『あなたが見たら、機関とは関係がないとおっしゃるでしょうか』


 彼の返事を想像して、もう一度、笑った。


 窓の外では、枝が風に揺れていた。


 彼がまだ同じ街にいるうちに、送りたかった。


     


 その日の午後、許可の審査について、皇室財務から新しい照会が届いた。


 工房と柊家の資金の流れ。


 国外で得る利益の分配。


 技師個人が、向こうの工場から受け取る報酬。


 澪は紙を見た。


 既に提出したものと、重なる項目が多かった。


 書記へ、回答済みの資料を揃えるよう頼んだ。


 そのとき、次の書類が置かれた。


 軍の機関研究を、国の監督する事業へまとめる案だった。


 必要と認める場合には、民間の設備と技師の協力を求める。


 対象となる工房の一覧に、ユリアンのいる工房があった。


 澪は、先ほど書いた手紙へ目を向けた。


 鳥の名を決めずにいられる時間は、机の上の小さな紙にしか残っていなかった。


 彼女はその手紙を封筒へ入れた。


 仕事の書類と重ならない場所へ置いた。


 それから、国の監督事業に関する案を、最初の一行から読み始めた。


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