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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第八十章 手紙の届く距離

第八十章 手紙の届く距離


 ユリアンは、封筒を作業台へ置いた。


 手を洗った。


 指の際に残った油を、布で拭った。


 それから、封を切った。


 来月の試験には出席できない。


 当面、面会は控える。


 必要な協議は、書面を通じて行う。


 短い文章だった。


 彼は最後の一行まで読み、もう一度、初めへ戻った。


『行かないのではなく、今は、行けません』


 その下には、ミレイア、とあった。


 称号はなかった。


 彼は手紙を畳みかけ、やめた。


 折り目の端に、小さくインクが滲んでいた。


 書き手がそこで手を止めたのか、ペン先を長く置いたのかは、分からなかった。


     


「お返事を、お持ちいたしましょうか」


 宮殿の使いが尋ねた。


 ユリアンは顔を上げた。


「少し、お待ちいただけますか」


 白い紙を出した。


 机の前へ座ったが、しばらく書けなかった。


 事情を尋ねることはできた。


 自分が何かを誤ったのかと、問うことも。


 けれど彼女は、理由を書けないのだと思った。


 書けない相手へ、書くように求めたくなかった。


『承知しました。


 試験の結果は、これまで通り、ご報告します。


 こちらから、面会をお願いすることは控えます』


 そこまで書き、手を止めた。


 約束の文面のようだった。


 彼女が欲しかったのは、これだけではないかもしれない。


 ユリアンは続きを書いた。


『こちらは、変わりありません。


 どうか、そのことまで案じないでください』


 署名をした。


 封をしたあと、二つ並んだ椅子へ目を向けた。


 使いが帰るまで、そちらを見ないようにした。


     


 澪は、返事が届くと、書記を下がらせた。


 封筒から紙を抜く手が、少し震えた。


 面会をお願いすることは控える。


 その一行を読んで、胸が冷えた。


 自分から頼んだことだった。


 彼が、その通りにしてくれた。


 次の文章を読むまでに、時間がかかった。


『こちらは、変わりありません』


 澪は背を椅子へ預けた。


 目を閉じた。


 嬉しかった。


 こんな返事を待っていた自分が、浅ましいとも思った。


 会えないまま、自分のために変わらずにいてほしい。


 その願いを、彼へ渡したつもりはなかった。


 けれど、彼は受け取ってしまったのかもしれなかった。


     


 翌日から、仕事の書類は、通常の経路へ戻された。


 工房の報告は、技術担当の書記が整理する。


 契約についての質問は、柊家の法務へ回す。


 澪が直接返事をする件は、減った。


 夫は、彼女の仕事部屋へ来ると、机の上を見た。


 工房の図面は、片づけられていた。


「委員会の審査は、進んでいますか」


「はい」


 澪は答えた。


「燃料の試験を、大学の設備で確かめてもらいます。軍の技師にも、立ち会っていただくことになりました」


「ロシュフォール氏は?」


「試験の手順を書面で提出します。当日の担当は、別の方です」


 夫は頷いた。


 澪は、その頷きを見た。


 安心したのだと分かった。


 それを、責めてはいけないと思った。


     


 事故の調査は、燃料そのものだけが原因ではないことを示した。


 接合部に、漏れがあった。


 漏れを確かめるために使った器具も、適切ではなかった。


 試験の途中で燃料を足し、その際の手順が決まっていなかった。


 軍の技師は、自分たちの記録を出した。


 最初は、質問へ短く答えていた。


 やがて大学の担当者が、同じような失敗をした試験の記録を示すと、少しずつ説明が増えた。


「始動できたときの調整を、次の者へ伝えきれていなかった」


 彼は言った。


「そのために、触らなくてよいところまで、変えてしまったのだと思います」


 澪は報告を読んだ。


 軍の工場だけが、無謀だったわけではなかった。


 新しい機械は、動くたびに条件が変わり、その変化を追う人と記録が足りなかった。


 彼女は事故の報告を、可能な範囲で公開するよう提案した。


 軍の配置や設備の規模は除く。


 それでも、油の漏れと火災を防ぐために必要なことは、他の工場へも渡す。


 今度は、軍の技師自身が賛成した。


     


 追加供給の保留は、解除された。


 ただし、量は試験計画に応じて区切られた。


 一度に求めた分をすべて渡すのではなく、使用と残量を確認しながら送る。


 ヴァレク伯爵は、会議で異論を出さなかった。


「これで、研究を進められますな」


 彼は言った。


 澪は頷いた。


「安全に進めていただければ」


 決定書へ署名した。


 紙を受け取る書記の手を見ているうちに、澪は気づいた。


 軍の事業を止める権限も、進める権限も、自分の手元にある。


 期限つきで与えられたはずの席が、いつの間にか、皆が返事を待つ場所になっていた。


     


 夫は、その晩、久しぶりに食事の前から居間にいた。


 澪が入ると、読んでいたものを閉じた。


「審査が終わったと、聞きました」


「はい」


「大変でしたね」


 彼女は顔を上げた。


 その労いを、待っていなかったわけではなかった。


「軍の技師の方が、よく話してくださいました」


「そうですか」


「火傷をした方も、一人は仕事へ戻れるそうです」


 夫は、静かに頷いた。


 食事が運ばれてきた。


 その夜は、仕事の話だけでは終わらなかった。


 父帝が若かった頃、書類を読んでいるふりをして眠っていたこと。


 皇太子がそれに気づき、そっと部屋を出ようとして、床板を鳴らしたこと。


「目を閉じたまま、どこへ行く、と」


 夫が言った。


 澪は笑った。


 夫も笑った。


 その顔を見ていると、悲しませたくないと思った。


 思うことまで、偽りではなかった。


     


 食後、二人は窓辺へ座った。


 夫は澪の手を取った。


「最近、少し遠くにいるようでした」


 彼女は、握られた手を見た。


「忙しかったので」


「ええ」


 彼はその答えを受け取った。


 すべてではないと、分かっているようだった。


「私も、あなたへ、頼むことばかり増えた」


 澪は顔を上げた。


「一緒にいるときまで、何かを判断してもらおうとしていたかもしれない」


 彼の指が、彼女の指の間へ入った。


 澪は、握り返した。


 夫は、彼女の額へ口づけた。


 今度は、顔を上げるまで待った。


 澪は目を閉じた。


 その夜、彼女は夫のそばにいた。


 朝、目を覚ましたとき、隣でまだ眠っている彼を見て、胸の奥が静かに痛んだ。


 この人と築くものを、大切にしなければならない。


 それは、誰に命じられたことでもなかった。


     


 車台の次の試験には、大学の若い助手が乗った。


 ユリアンの隣で、燃料の具合と時刻を記録した。


 砂袋よりも、重さの位置が高くなる。


 曲がるときの揺れが変わった。


 道の小さな窪みで、二人とも椅子から跳ねた。


「記録が、文字になりません!」


 助手が叫んだ。


「今、書かなくていい!」


 ユリアンが答えた。


 短い試験だった。


 それでも、二人を乗せて、出発した場所へ戻れた。


 工房の者たちが、笑いながら迎えた。


 助手は降りると、膝の上の帳面を開いた。


 曲がった線ばかりだった。


「振動を減らさなければ、何もできません」


 彼は言った。


 ユリアンは頷いた。


 空いた椅子へ、一度だけ目を向けた。


     


 その年の終わりには、精製所の生産量が、当初の見込みを越えた。


 灯油の販売所が増えた。


 機械油は、鉄道と織物工場で使われ始めた。


 グリースは、配合を分け、使う場所を示して売るようになった。


 舗装用の材料も、すべてを同じものとして扱わなくなった。


 夏に柔らかくなりすぎた配合は改められ、石の大きさと混ぜる割合を揃えるため、専用の設備が置かれた。


 それでも、舗装の下に水が残れば、道は傷んだ。


 澪は、黒く仕上がった表面の写真より、排水路の図面を先に見るようになった。


 道路の周りには、倉庫と修理所が建ち始めていた。


 駅へ向かわず、町から町へ荷を運ぶ商人も増えた。


 鉄道部門からは、また不満が出た。


 今度は、将来の心配だけではなかった。


 一部の区間で、小口の荷が減っていた。


     


「道を造る費用は、こちらの利益からも出ております」


 鉄道の責任者が言った。


「その道へ、客が移る。株主へ、どう説明すればよいのでしょう」


 澪は、会社ごとの帳簿を並べた。


「鉄道で運ぶ荷が、全部なくなったわけではありません。精製所へ運ぶ資材も、油を送る量も増えています」


「当社の、別の区間でございます」


「では、増えた区間と減った区間を分けて、運行を考え直してください」


 男の顔が険しくなった。


 澪は、自分の言い方が冷たかったことに気づいた。


 父が机へ手を置いた。


「線路は、余ったからといって畳めん」


 彼は言った。


「人もいる。駅もある。借りた金の返済も残っている」


 澪は口を閉じた。


 新しい事業の利益を見ていると、古い事業がすぐに形を変えられないことを、忘れそうになる。


「改めて、資料をください」


 彼女は責任者へ言った。


「客が減った列車を、ただ減らす以外に何ができるか、考えます」


     


 会議のあと、父は窓際へ来た。


「俺が鉄道を広げたときも、荷を失った者はいた」


 澪は隣へ立った。


「その方たちは、どうなったの」


「うちで働くようになった者もいる。別の仕事を始めた者もいる」


 父は、そこで言葉を切った。


「分からない者もいる」


 澪は父を見た。


「調べなかったの?」


「すべては、追わなかった」


 暁人は答えた。


 言い訳はしなかった。


「お前の報告も、伸びた町の話が多い」


 澪は、手元の書類へ目を落とした。


 新しい修理所。


 増えた雇用。


 安くなった運賃。


 そこへ載らない者の顔を、彼女はまだ知らなかった。


     


 宮殿へ戻ると、灯花が待っていた。


 叔母は、以前よりゆっくり立ち上がった。


「無理にお立ちにならないで」


 澪が言うと、灯花は笑った。


「皇后を座ったまま迎えても、叱られないかしら」


「叱る人がいたら、私が叱るわ」


「では、安心ね」


 二人は向かい合って座った。


 灯花は、祝いの品を持ってきたわけではなかった。


 家族の近況を話し、クララが庭の手入れを始めたことを伝えた。


 澪は、その話を聞いている間、背筋を少し緩めた。


「幸せ?」


 茶が冷めかけた頃、叔母が尋ねた。


 澪は杯を置いた。


「……大切にしていただいているわ」


 灯花は、静かに頷いた。


「それは、よかった」


 問い直さなかった。


 そのために、澪は少しだけ、泣きたくなった。


     


 冬が深まる頃、工房へ、国外から手紙が届いた。


 北のノルディエラ同盟。


 通訳マリナ・ロシュフォールの一族が、今もつながりを持つ港町だった。


 新設する機械工場で、内燃機関の研究を行いたい。


 必要な職人と、工作機械を揃える用意がある。


 技師として、一定期間、指導に来てほしい。


 宛名は、ユリアン・ロシュフォール。


 彼は手紙を読み、工房の代表者へ渡した。


「良い話だ」


 年長の技師が言った。


「こちらで作れぬ部品も、向こうなら試せるかもしれん」


「ええ」


「行くのか」


 ユリアンは答えなかった。


 窓の外で、雪が降り始めていた。


     


 同じ頃、皇室財務では、国外への技術供与に関する新しい規定が検討されていた。


 軍事上、重要となり得る機関。


 製造に必要な図面。


 特殊な工作設備。


 持ち出しと許諾には、国の承認を要する。


 ヴァレク伯爵は、その草案を新帝の机へ置いた。


「特定の工房を対象とするものではございません」


 彼は言った。


「今後のために、制度を整えるものです」


 新帝は、文面を読んだ。


 その数日前、妻のもとへ、ノルディエラから来た招請の写しが届いていた。


 澪はまだ、その件について何も言っていなかった。


     


 澪は夜、自分の机で招請状を読んだ。


 工房から、出資者への報告として届いたものだった。


 ユリアンの考えは、添えられていなかった。


 行けば、会えなくなる。


 今も、会ってはいない。


 それでも、同じ街にいることが、彼女を支えていた。


 今日、工房の門を開ければ、彼がいる。


 行けないだけで、いなくなったわけではない。


 その違いに、澪は初めて気づいた。


 紙を机へ置いた。


 引き出しを開けた。


『こちらは、変わりありません』


 あの手紙を取り出した。


 いつまでも変わらずにいてほしいと、頼むことはできなかった。


 澪は白い紙を前へ引き寄せた。


 返事を書く代わりに、ノルディエラへ至る鉄道と船の路線図を、書記に持ってこさせた。


 線は、国境で終わってはいなかった。


 港で途切れ、その先は、海の向こうへ続いていた。

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