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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第七十九章 閉ざされる扉



 即位の儀式が終わっても、喪の布は外されなかった。


 新しい皇帝の肖像が役所へ掛けられ、硬貨の図案が改められ、書類の書き出しが変わった。


 澪のもとへ届くものにも、皇后陛下、と記されるようになった。


 工房からの報告も、同じだった。


 彼女は宛名を見てから、封を切った。


 車台の試験は進んでいた。


 操舵の軸が傷みやすい。


 鎖の覆いを改める必要がある。


 固いゴムを巻いた車輪は、石畳では振動を抑えきれない。


 それでも、二人分の重さを積んで、敷地を三周できた。


 二人分。


 澪は、その文字を指で押さえた。


 砂袋を載せたと、次の行に書かれていた。


     


 供給委員会の会議に、軍の調達を統括する将軍が出席した。


 これまで来ていた担当者とは違い、決める権限のある者だった。


 澪は、ようやく話が進むかもしれないと思った。


 将軍は、机に置かれた配分表を一度見た。


「前線へ送る荷を、これ以上遅らせるわけにはいきません」


「どの地点で止まっていますか」


 澪が尋ねた。


「駅と、港です」


「一覧をいただけますか」


「軍の配置が分かる資料です」


 彼女は顔を上げた。


「場所が分からなければ、列車も船も増やせません」


 将軍は、隣の役人へ目を向けた。


 ヴァレク伯爵が口を開いた。


「限られた者だけで閲覧することにいたしましょう」


「必要な担当者には、見せてください」


 澪は言った。


「秘密を守ることと、仕事をさせないことを、同じにしないでいただきたいのです」


 将軍の眉が動いた。


 伯爵は、穏やかに頷いた。


     


 軍が求めている油の中に、まだ規格の定まっていないものがあった。


 試作機関用の、軽い燃料だった。


 澪は数量を見直した。


「この量を、どちらで使うのですか」


「試験です」


「工房から報告されている使用量とは、違います」


 将軍は答えなかった。


 伯爵が書類を一枚差し出した。


「軍の工場でも、機関の試作を始めております」


 澪は紙を受け取った。


 聞かされていなかった。


 依頼先の工場は、柊家とは別の資本で運営されていた。


「何の図面を、お使いですか」


「各地で研究されているものです。ロシュフォール氏だけが、機関を考えているわけではございません」


「それは承知しています」


 澪は目を上げた。


「燃料が適しているかを確かめるために、構造と試験の条件が必要です」


「軍の技師が判断いたします」


「では、その技師を、この会議へ」


 伯爵は、すぐには返事をしなかった。


     


 会議が終わると、澪は柊家の精製部門へ照会を出した。


 軍の工場へ、どの油を、いつから納めているか。


 返事は、その日の夜に届いた。


 最近になって、少量ずつ出荷していた。


 名目は、洗浄と試験。


 油の性質を示す説明書は渡していたが、機関の試験に使うとは聞いていなかった。


 澪は書記を呼んだ。


「用途を確かめるまで、追加の出荷を止めてください」


 書記が頷きかけたとき、彼女は言い直した。


「いえ。止める前に、精製所の責任者から、技術上の照会を。委員会の命令にはしないで」


 自分がどの立場で言っているか。


 一言発する前に、それを考えなければならなくなっていた。


     


 夫へ話したのは、その夜だった。


 新帝は、軍の工場が試作を始めていることを知っていた。


「一つの工房に、すべてを頼るわけにはいきません」


 彼は言った。


「私も、そう思います」


 澪は答えた。


 夫は少し意外そうに彼女を見た。


「ただ、油は、同じ名前であれば何にでも使えるものではありません。試験の条件を共有しなければ、事故になります」


「軍の技師が、そこまで愚かだと思うのですか」


「思っていません。だから、その技師と話したいのです」


 新帝は書類を閉じた。


「あなたの会社の油を買い、あなたの委員会へ報告し、あなたの出資する工房の技師へ説明する。軍には、それを不満に思う者がいる」


 澪は息を吸った。


「では、大学に確認を任せても」


「ロシュフォール氏は、その大学ともつながっている」


 彼女は夫を見た。


 彼も、自分が何を言ったか分かったようだった。


 けれど、取り消さなかった。


     


「彼の名前を外せば、お話ができますか」


 澪は静かに尋ねた。


 新帝の顔が硬くなった。


「そういう意味ではない」


「今のお話では、油の問題より、彼が関わっていることが問題に聞こえます」


 夫は立ち上がった。


 窓の前まで歩き、しばらく背を向けていた。


「私は、彼を、あなたから遠ざけようとしているのではない」


 澪は黙った。


 その言葉が、まだ彼女から出ていない問いへの答えだったからだ。


 新帝は振り返った。


「ただ、あなたが、彼に関わる判断を、本当に同じようにできているのか」


 彼は、言葉を切った。


 澪の指先が冷えた。


「……確かめておきたいのです」


     


 その夜、二人は同じ部屋で食事をした。


 料理は温かかった。


 夫は、翌週の儀礼について話した。


 澪は必要な返事をした。


 何事もなく食事を終えられるほどには、二人とも宮廷での暮らしに慣れていた。


 夫が先に席を立ったあと、澪は杯を両手で包んだ。


 冷めかけた茶の底に、窓の灯りが映っていた。


     


 ユリアンは、宮殿へ呼ばれる回数が減ったことに気づいていた。


 代わりに、質問が文書で届く。


 必要な数字を返す。


 澪の書き込みがある日もあった。


 ない日もあった。


 機関の試験は続いていた。


 だが、彼女が来なくなってから、工房の入口へ顔を向ける自分を、何度も見つけた。


 ある午後、製造権の契約案が届いた。


 柊家の工場に、一定数の製造を認める。


 工房は、ほかの製造者とも契約できる。


 燃料と潤滑油には、銘柄ではなく、試験で確かめた性質を示す。


 最初の案にあった、柊の油を使うことを前提とする条項は、削られていた。


 余白に、澪の文字があった。


『試験を担う場所は、一つに限らないこと。


 必要な設備と、測り方を揃える費用を、別途計上してください』


 ユリアンは、その文字を長く見ていた。


 彼女は、聞いていた。


 会わない間にも、彼の言葉を覚えていた。


     


 返事を書き終えたとき、彼は別の紙を取り出した。


 契約の了承とは、分けたかった。


『二つ目の椅子をつけた車台が、今度は、人を乗せて走れそうです』


 そこまで書いて、止まった。


 誰を乗せるのか。


 試験の担当者だ。


 記録を取る職人でもよい。


 それでも、最初にこの報告を送りたい相手は、一人しかいなかった。


 彼は続きを書いた。


『安全を確かめてから、正式な試験のご案内をお送りします』


 紙を折る前に、もう一行加えた。


『こちらは、変わりありません。どうか、お休みください』


     


 澪がその手紙を読んだのは、委員会の会議へ出る直前だった。


 扉の外で、書記が待っていた。


 彼女は最後の一行を、二度読んだ。


 変わりありません。


 その言葉を、ただの近況として受け取れなかった。


 工房も。


 あの椅子も。


 彼自身も。


 勝手に意味を重ねていると分かっていた。


 それでも、その日初めて、深く息ができた。


 澪は手紙を引き出しへしまい、立ち上がった。


     


 会議に、軍の技師は来なかった。


 試験中の事故で、工場を離れられないと伝えられた。


 澪は顔を上げた。


「事故?」


 役人が書面を出した。


 燃料を送る管から漏れが起き、火が出た。


 機関の周囲にいた二人が負傷。


 建物への延焼は防がれた。


 それ以上の記述はなかった。


「負傷した方の容体は」


「命に別状はないと」


「原因の調査は」


「軍の内部で行っております」


 澪は書面を置いた。


「同じ油を、別の工場にも送っています。扱い方に関わる事故なら、軍の内部だけにはできません」


 将軍が、椅子へ深く座り直した。


「まだ、燃料が原因とは決まっていません」


「だから、調べる必要があります」


     


 その日の会議は、結論のないまま終わりかけた。


 澪は、試験燃料の追加供給について、承認しなかった。


 軍の工場へは、使用量と残量、保管方法、事故時の状況を求めた。


「緊急の命令として、お出しになるのですか」


 ヴァレク伯爵が尋ねた。


 澪は彼を見た。


「現場から回答があれば、必要な分を判断します」


「それまで、試験は止まることになります」


「火傷をした方がいるのです」


 声が少し強くなった。


 会議室が静かになった。


 澪は、自分の前の書面を揃えた。


「軍の試験を止めるためではありません。同じ事故を、次の場所で起こさないためです」


 伯爵は頭を下げた。


「そのように、記録いたします」


     


 夕刻、新帝のもとへ報告が出された。


 皇后が、軍の燃料供給を保留した。


 理由は、安全の確認。


 軍は、試験の遅延を懸念している。


 その下に、別の資料が添えられていた。


 柊家の工場とロシュフォールの工房との、製造許諾契約。


 軍が製造図を得られずにいる一方、柊家では製造の準備が進んでいる。


 それぞれの事実は、間違っていなかった。


 並べられた順序が、一つの意味を作っていた。


 新帝は、二枚を見比べた。


「この契約は、いつから協議されていた」


「陛下のご即位より前からと、伺っております」


「軍への回答は」


「条件について、なお協議中です」


 新帝は黙った。


 書類の端を押さえた指が、ゆっくり白くなった。


     


 その夜、澪は夫に呼ばれた。


 執務室には、ヴァレク伯爵もいた。


 机の上へ、あの製造許諾契約が置かれていた。


 澪は、部屋へ入ったところで足を止めた。


「軍への油を止めたそうですね」


 夫が言った。


「追加の供給を、確認が済むまで保留しました。事故の報告は、お読みになりましたか」


「読んでいます」


 彼は契約書へ手を置いた。


「こちらも」


 澪は、伯爵を見た。


 伯爵は静かに立っていた。


「その二つは、別の手続きです」


「説明してください」


 夫の声は、公の席のものだった。


 澪は、椅子を勧められていないことに気づいた。


     


 彼女は立ったまま、説明した。


 契約の協議を始めた時期。


 他の工場へも製造を認めること。


 燃料の銘柄を限定しないこと。


 軍からの照会には、工房が使用条件の確定を求めていること。


 新帝は、最後まで聞いた。


 それから言った。


「あなた自身が、軍への供給を判断する席にいる。それで、疑われないと思いますか」


 澪は答えようとして、止まった。


 就任前に、自分が夫へ言った言葉だった。


 説明できることと、信じてもらえることは、同じではない。


「だから、柊家に直接関わる議決からは、外れています」


「今回の決定で、誰が有利になります」


「事故の情報が出れば、すべての使用者が」


「そういう答えではない」


 夫の声が、初めて高くなった。


 澪は口を閉じた。


 伯爵が、静かに身を引いた。


「席を外しましょう」


 新帝は答えなかった。


 伯爵は一礼し、扉を閉めた。


     


 二人になると、しばらく、何の音もしなかった。


「私は」


 夫が言った。


「あなたの説明を、信じたいのです」


 澪は、彼を見た。


「ですが、彼のことになると、あなたはいつも、私の知らない約束を持っている」


 彼女の胸が痛んだ。


 仕事の約束だけなら、すべて紙にできた。


 できないものを、自分が持っている。


 それが、今、言葉を弱くしていた。


「陛下」


「ここでは、その呼び方をやめてください」


 澪は息を止めた。


 夫は俯いた。


 次に顔を上げたとき、怒りよりも、疲れが見えた。


「私は、あなたの夫です」


     


 澪は机へ近づいた。


 夫の手は、契約書の上にあった。


 触れようとして、ためらった。


 そのためらいを、彼は見た。


「……しばらく、彼との面会を控えてほしい」


 澪の指が止まった。


「委員会の審査が終わるまでですか」


 夫は、すぐには答えなかった。


 彼女は、答えを待った。


「私が、そう願っている間は」


 澪は、ゆっくり手を下ろした。


 命令とは言わなかった。


 だからこそ、断る言葉が見つからなかった。


     


 仕事部屋へ戻ると、侍女が灯りを整えていた。


 澪は一人にしてほしいと頼んだ。


 引き出しを開けた。


 ユリアンの手紙を取り出した。


『こちらは、変わりありません』


 彼女は、その文字へ触れた。


 変わってしまう。


 返事を書かなければならなかった。


 来月の試験へは行けない。


 しばらくは、会議にも出られない。


 必要な話は、書面で。


 そこまで書いた。


 彼が読むところを思い浮かべると、先へ進めなかった。


 澪は紙を裏返した。


 しばらくして、もう一度、表へ戻した。


 最後に一行だけ、書き加えた。


『行かないのではなく、今は、行けません』


 その下へ署名しようとして、手が止まった。


 公的な名を書くべき手紙だった。


 彼女はペンを置き、両手で顔を覆った。


     


 工房では、二つ目の椅子に革が張られた。


 角で服を傷めないよう、縁を滑らかにした。


 ユリアンは、留め具を確かめた。


「次は、誰が乗るんです」


 若い職人が尋ねた。


 彼は、空の椅子を見た。


「まだ、決めていない」


 答えてから、手元のねじを締めた。


 門の外で、馬車が止まる音がした。


 ユリアンは顔を上げた。


 宮殿の使いが、封筒を持って立っていた。

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