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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第七十八章 配る者の手



 澪は、自分の名が書かれた箇所を、しばらく見ていた。


「私が、委員長に?」


「事業を最もよくご存じです」


 ヴァレク伯爵が答えた。


「採取から精製、輸送、販売まで。役所の者だけでは、現場に即した判断ができません」


 澪は次の頁をめくった。


 委員会は、帝国内の事業者へ報告を求めることができる。


 貯蔵量。


 設備の能力。


 納入先。


 仕入れと販売の価格。


 必要と認めた場合には、供給先の変更を命じる。


「必要と認めるのは、誰ですか」


「委員会です」


「私一人ではなく?」


「もちろん」


 伯爵は、委員の名簿を示した。


 軍。


 財務。


 内務。


 議会から選ばれる者。


 そして、柊家以外の商会からも二人。


 澪は名を辿った。


 競合する商会だった。


 そこに名前を並べるだけなら、公平に見えた。


「委員長は、報告されたものをすべて読めるのですね」


「そのためのお役目です」


「私の会社の競争相手が、どこから、いくらで買っているかも」


 伯爵は一瞬、黙った。


「殿下には、公私を分けていただくことになります」


 澪は書類を閉じなかった。


 うまい返事だと思った。


 何かが起きれば、分けられなかったのは自分ということになる。


     


「殿下は、この案をご覧に?」


「皇太子殿下には、概要をお伝えしております」


「この名簿も?」


「お目通しいただく予定です」


 澪は、ようやく顔を上げた。


「私の名前が入ったものを、私より先に、お見せするご予定だったのですか」


 伯爵の指が、膝の上で揃えられた。


「ご不快でしたら、申し訳ございません」


「不快かどうかではありません。私が了承した案だと受け取られては、困ります」


「そのようなことは、決して」


 澪は彼を見た。


 伯爵も、視線を逸らさなかった。


「写しを、お預かりします」


 彼女は言った。


「返事は、改めて」


     


 その夜、皇太子は会議のあと、彼女の部屋へ来た。


「伯爵が、会いに来たそうですね」


「はい」


 澪は設置案を差し出した。


 夫は受け取り、自分の知っている文面と比べるように読んだ。


「あなたが加われば、現実的な仕組みになると思った」


 彼は言った。


「軍の求める量を、そのまま認める委員会にはしたくない」


 澪は少し息を吐いた。


 夫が期待していることは、分かった。


「それでも、私が委員長では、疑われます」


「誰に?」


「油を売るすべての商会に。私の会社へ注文が増えれば、その理由を説明し続けなければなりません」


「説明できれば、よいでしょう」


 澪は夫を見た。


「説明できることと、信じてもらえることは、同じではありません」


 彼は口を閉じた。


 しばらくして、椅子へ座った。


「では、どうすればいい」


 その問いには、疲れが滲んでいた。


 澪も座り直した。


「会社ごとの価格や契約は、監査を担う者が扱う。配分を決める会議には、必要な数字だけを出す。私自身の商会に関わる決定では、私は席を外す」


「それで、間に合いますか」


「急ぐ場合の手続きも、決めます」


 夫は、書類の上へ手を置いた。


「あなたは、私が頼む前から、答えを考えていたのですね」


「……そうしなければ、断ることしかできませんから」


 皇太子は、彼女の顔を見た。


 その夜は、それ以上、責めるような言葉を口にしなかった。


     


 柊家の幹部会では、反応が違った。


「お引き受けになるべきです」


 販売を担う責任者が言った。


「油のことを知らぬ者に配分されては、事業が立ちません」


「情報を出す義務は、私たちにもあります」


 澪は答えた。


「もちろん。ですが、委員長であれば、誤った判断を止められます」


 父は、黙って聞いていた。


 澪は机の向こうへ目を向けた。


「お父さまは?」


 暁人は、設置案を閉じた。


「引き受ければ、役所の失敗も、お前の失敗になる」


「ええ」


「断れば、役所の決定へ、会社として従うことになる」


 澪は頷いた。


「どちらも、楽ではないのね」


「楽な方を聞かれたつもりはない」


 父は彼女を見た。


「お前が、何を止めたいのかを決めろ。全部を直そうとするな」


     


 澪が引き受ける条件を示すまでに、四日かかった。


 委員長は一人で供給を命じられない。


 決定は記録し、期限をつける。


 軍の必要量にも、使用目的ごとの説明を求める。


 病院、水道、食料の生産と輸送に必要な分を、先に確保する。


 商会ごとの契約情報は、監査の担当者が管理する。


 柊家に直接関わる審議では、澪は議決に加わらない。


 そして、委員会そのものにも、設置の期限を定める。


 ヴァレク伯爵は、修正案を読んだ。


「殿下のお考えは、よく分かりました」


「全部には、ご同意いただけないようですね」


「緊急の場合に、委員を集める時間がないこともございます」


「その場合の暫定措置は、こちらに」


 澪が示した箇所へ、伯爵は目を落とした。


 短期間に限り、委員長が決定できる。


 ただし、事後に審査を受け、継続には承認を要する。


「よろしいかと存じます」


 伯爵は言った。


 澪はその返事を聞きながら、もう一度、自分の書いた条文を読んだ。


     


 最初の会議で不足したのは、油ではなかった。


 数字だった。


 軍は、必要量を出していた。


 だが、何に使う量なのかを示す書式が、部門ごとに違った。


 鉄道会社は、在庫として数える範囲が揃っていない。


 樽に入って倉庫にある油。


 輸送中の油。


 既に売り先が決まった油。


 それらが、同じ欄へ書かれていた。


 澪は書類を並べた。


「このままでは、足りないのかどうかも分かりません」


 軍の委員が眉を寄せた。


「現場は、既に不足を訴えている」


「不足している場所へ届かない理由が、量なのか、輸送なのか、先に確かめます」


「その間、工場を止めるのですか」


 澪は別の一覧を示した。


「止まりそうな場所は、ここへ。今日、必要な分と、今月中に必要な分を分けてください」


 会議は、予定の時刻を過ぎた。


 その日のうちに、すべての数字は揃わなかった。


 だが、同じ油を二か所で数えていたことが、一つ分かった。


 不足は、報告より少し小さくなった。


     


 委員会の名が新聞へ載ると、宮殿へ来る手紙が増えた。


 供給を増やしてほしい。


 他の町より、値が高い。


 役人が約束した油が届かない。


 澪は、それらを分類させた。


 役所へ回すもの。


 調査を要するもの。


 急いで現地へ確かめるもの。


 ある封筒には、短い手紙と、小さな布切れが入っていた。


 油で黒くなった、機械の帯だった。


『このままでは、粉挽きが止まります。


 町へ届けられる油は、軍の車庫へ先に取られています』


 澪は町の名を見た。


 自分たちが道を直している、その先だった。


     


 確認には、二日かかった。


 車庫の担当者は、上から備蓄を命じられたと言った。


 町の販売所は、軍への供給を断れば、商売ができなくなると思ったと言った。


 どちらも、正式な文書を示せなかった。


 粉挽き場には、二日分の油しか残っていなかった。


 澪は、緊急の配分変更に署名した。


 車庫の備蓄のうち、差し支えない量を町へ戻す。


 同時に、車庫で何日分を持つべきか、軍へ確認を求める。


 書記が命令書を受け取った。


 出ていく足音を聞きながら、澪は机へ手を置いた。


 ただの出資者だったときには、できなかった。


 代金を送り、商館へ頼み、担当者の返事を待つしかなかった。


 今は、自分の署名で、油の行き先が変わる。


     


 礼状は、一週間後に届いた。


 粉挽き場は止まらずに済んだ。


 町のパンの値も、上がらなかった。


 澪はその手紙を、会議の記録へ挟んだ。


 嬉しかった。


 嬉しいと思うことを、警戒もした。


 それでも、その夜は久しぶりに、仕事を終えた気がした。


     


 ユリアンが宮殿へ呼ばれたのは、潤滑油の試験について意見を求められたためだった。


 軍の工場で使う油と、民間へ回す油の品質を揃える必要があった。


 澪は会議の間、彼を技師として扱った。


 彼も、必要な説明だけをした。


 軸の速さと荷重。


 温度。


 水や砂の混入。


 同じ油でも、用途によって適否が違うこと。


 会議のあと、書記が資料を取りに出た。


 部屋に、短い静けさができた。


「お疲れのようですね」


 ユリアンが言った。


「皆に、言われるわ」


「では、皆、同じものを見ているのでしょう」


 澪は笑った。


 それから、机の端に置いた礼状へ目をやった。


「一つ、止めずに済んだの。粉挽き場を」


 彼は、彼女の話を聞いた。


 最後まで聞いてから、頷いた。


「よかった」


 澪は肩の力を抜いた。


 彼にそう言ってもらいたかったのだと、気づいた。


     


「でも、軍の担当者は、怒っているそうよ」


「備蓄を減らされたから?」


「ええ。自分の責任で足りなくなれば困るのね。それも、分かるわ」


 ユリアンは、命令書の控えを読んだ。


「理由が書いてある。期限も」


「あなたなら、ほかに何を書く?」


 彼は顔を上げた。


「命令に従わされた者が、異議を申し立てる方法を」


 澪は控えを見た。


 事後の審査はある。


 しかし、それを求めるのは、役所か委員だった。


 命令を受けた者自身が、どこへ訴えるのか。


 そこは、明らかではなかった。


「……書き加えるわ」


 彼女は言った。


「また、面倒になるけれど」


「ええ」


「少しは、慰めてくださらない?」


 ユリアンは困ったように笑った。


「今、よかったと申し上げました」


 澪も笑った。


 その笑いが消える前に、彼女は声を落とした。


「あなたに褒めてもらうために、仕事をしてはいけないのにね」


 彼の表情が変わった。


 澪は、書類の端を揃えた。


「でも、今日は、嬉しかった」


 ユリアンは彼女を見ていた。


「私も、あなたが嬉しそうだと、安心します」


 声は静かだった。


 その返事を聞いている間だけ、委員長の席が、自分の椅子へ戻った気がした。


     


 扉の外で、靴音が止まった。


 皇太子だった。


 書記から、技師の説明が終わったと聞き、立ち寄ったのだった。


 入室を告げる侍従へ、彼は小さく手を上げた。


 中から、妻の笑う声がした。


 皇太子は、閉じた扉を見た。


 何を話しているのかは、聞き取れなかった。


 聞こうとはしなかった。


 ただ、すぐには扉を開けさせなかった。


     


 会議の記録は、その晩、夫の机にも届いた。


 粉挽き場への供給変更。


 軍の備蓄量の再確認。


 異議申立ての手続きを加える提案。


 皇太子は、最後の一項を読んだ。


「これは、誰の意見です」


 書記が答えた。


「ロシュフォール技師の説明のあと、妃殿下が追記されました」


 皇太子は頷いた。


 文面は、妥当だった。


 異議を申し立てる窓口があれば、現場の不満を早く知ることもできる。


 彼は承認の印をつけた。


 印を押し終えてから、しばらく手を離さなかった。


     


 皇帝が崩御したのは、その三日後だった。


 澪は夫のそばにいた。


 呼吸が途絶え、医師が静かに頭を下げた。


 夫は父帝の手を握ったまま、動かなかった。


 部屋にいた者たちが、ひとりずつ膝を折った。


 澪も、そうしようとした。


 その前に、夫が彼女の手首を掴んだ。


 強い力だった。


 彼女は立ったまま、その手を握り返した。


 誰かが、初めて彼を新しい称号で呼んだ。


「陛下」


 夫の指が、わずかに震えた。


     


 喪の布が、宮殿の窓へ掛けられた。


 鐘が鳴り始めた。


 街の者たちは足を止め、商店の扉が閉められた。


 その日の午後、議会の代表と軍の高官、教団の長が宮殿へ集まった。


 皇位の継承は、憲章と継承法に従って確認された。


 即位の儀式は、後日行われる。


 だが、統治する者は、もう変わっていた。


 澪は、夫の横顔を見た。


 朝まで父を失った息子だった人が、いま、集まった者たちへ命を下している。


 その声が落ち着いていることに、彼女は驚いた。


     


 夜、二人になってから、夫はようやく椅子へ座った。


 澪は、その前に膝をついた。


 彼の手を取った。


 昼間、何度も人へ差し出され、握られ、忠誠を誓われた手だった。


「ミレイア」


 彼が言った。


「はい」


「そばに、いてください」


 彼女は頷いた。


 その願いには、答えられた。


 今夜、帰るべき場所も、座るべき椅子も、ここだった。


     


 翌朝、即位に伴う最初の命令の一つとして、非常措置の継続が布告された。


 喪中の秩序を保ち、継承を安定させるため。


 期限は、あらためて設けられた。


 澪が委員長を務める供給委員会も、そのまま残された。


 文書の末尾には、彼女の新しい称号が記されていた。


 皇后ミレイア。


 書記が、次の決裁を机へ置いた。


 軍の工場へ、優先して機械油を送る件。


 澪は黒い喪服の袖を整えた。


 夫のいる執務室の方を、一度だけ見た。


 それから、供給量の数字を読み始めた。

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