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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第七十七章 憲章の余白



 夜明けの鐘は、いつもと同じ回数だった。


 澪は仕事部屋で、それを数えた。


 皇帝の容体について、新しい知らせはなかった。


 廊下では人が行き交っている。早足の者もいたが、走る者はいなかった。誰もが、まだ平静を保つことに力を使っているようだった。


 朝食が運ばれてきた。


 澪は茶だけ飲んだ。


 侍女が皿を下げようとすると、彼女は引き止めた。


「残しておいて。あとで、いただきます」


 母なら、食べるように言うだろうと思った。


 パンを小さく切って口へ入れたところで、扉が叩かれた。


 夫からの使いだった。


     


 皇太子は、寝台に横たわる父帝の部屋から出てきたばかりだった。


 顔色が悪かった。


 澪は何も尋ねず、そばへ行った。


「まだ、お話しになれます」


 彼が言った。


「ただ、長くは」


 澪は頷いた。


 夫は、彼女の手を取った。


 いつものように礼を尽くした動作ではなかった。


 指を確かめるように、強く握った。


「朝までに、三度、呼吸が止まったかと思った」


 声が低かった。


「そのたびに、医師の顔を見ていた。父の顔ではなく」


 澪は、空いている手を彼の手へ重ねた。


「怖かったですね」


 夫は目を閉じた。


 そのまま、しばらく立っていた。


 扉の向こうで、誰かが彼を呼んだ。


 手が離れた。


 皇太子の顔へ戻るまでに、わずかな時間があった。


     


 午前の会議で、皇帝の政務を一時的に代行する手続きが決められた。


 帝国の憲章には、そのための条文があった。


 君主が病により執務できない場合、所定の確認を経て、摂政を置く。


 皇太子は署名の前に、文面を最後まで読んだ。


「父が回復された場合は」


「医師の確認と、会議の承認を経て、ただちに通常の体制へ戻します」


 法務官が答えた。


 皇太子は頷いた。


 その次に出された書類は、軍の備蓄と輸送についてだった。


 穀物。


 石炭。


 機械油。


 鉄道の車両。


 港の荷役。


 病床の皇帝に代わって誰が署名するかが定まると、止まっていた要求が、一斉に机へ積まれた。


     


 澪が会議の内容を知ったのは、午後になってからだった。


 柊家の鉄道部門に、軍用輸送の枠を増やすよう要請が届いていた。


 旅客列車を減らす。


 貨物の一部を後へ回す。


 精製所へ運ぶ資材も、その中に含まれていた。


「軍の荷は、どこへ向かうのですか」


 彼女が尋ねると、書記は首を振った。


「行先は、軍の指示によるとだけ」


 澪は要請書を読んだ。


 理由には、皇帝の御不例に伴う治安維持、とあった。


 地方で、大きな騒乱が起きたという報告は受けていない。


 ただ、皇位の行方を案じて、兵を集め始めた領主がいるという噂はあった。


 噂を確かめるために兵を動かせば、それを見た別の者も兵を動かす。


 父の古い記録には、似たことが何度も書かれていた。


     


 暁人は、その日のうちに宮殿へ来た。


 澪の仕事部屋へ入ると、椅子にも座らず、輸送の一覧を広げた。


「全部を受ければ、三日で民間の荷が駅に溜まる」


「断れる?」


「通常の契約なら、交渉できる」


 父は別の紙を置いた。


 軍の担当者が持参した、命令の草案だった。


 非常時の輸送確保。


 必要な範囲における、運行の変更。


 損失の補償は、追って定める。


 澪は最後の一行を読んだ。


「追って、では困るわ」


「金だけの話ではない」


 暁人は駅名を指した。


「ここで止めた薬は、あとで代金を払っても届かん。ここには、種にする穀物がある」


 澪は夫のいる棟へ目を向けた。


 父が、その視線を見た。


「お前から止めさせるために来たのではない」


 彼は言った。


「会社として、何ができて、何ができないかを出す。その数字を、見ておけ」


     


 夫に会えたのは、夕方だった。


 皇太子は、短い休息のため部屋へ戻っていた。


 澪が入ると、卓上には憲章の写しが開かれていた。


「鉄道の件ですね」


 彼は先に言った。


「はい」


「必要な輸送です」


「必要な量を、確かめていただきたいのです」


 彼は椅子へ背を預けた。


「軍も、理由なく求めているわけではない」


「分かっています。ただ、求めた分がすべて優先されれば、その下にある荷は動きません」


 澪は一覧を置いた。


 薬。


 食料。


 精製所の交換部品。


 夫は目を通した。


「油の設備も、守ってほしいということですか」


 澪は、息を整えた。


「軍へ納める油も、そこで作っています」


 彼の眉が動いた。


 彼女は言葉を重ねなかった。


 皇太子はもう一度、一覧を読んだ。


     


「私は、父が生きているうちに、帝国が乱れるのを見せたくない」


 夫は言った。


 机の端を押さえる手に、力が入っていた。


「地方の兵が動き始めている。誰も反乱だとは言わない。ただ、備えていると」


 澪は黙って聞いた。


「こちらも備えなければならない。遅れてからでは、取り返せないことがある」


「ええ」


「あなたは、私が大げさに恐れていると思う?」


 澪は首を振った。


「恐れておられることを、軽くは思いません」


 彼女は憲章の写しへ目を落とした。


「でも、その恐れだけで、どこまでできるかを決めてしまうのは、危ういと思います」


 夫は彼女を見た。


 澪は続けた。


「輸送の命令に期限を。延ばすなら、議会へ理由を示すこと。運ぶ荷を、軍の担当者だけで決めないこと」


「今、この時に審議を?」


「すべてを、先に待てということではありません。まず一週間なら一週間と決めて、その間に確認を」


 皇太子は口を閉じた。


 廊下から、控える者の咳払いが聞こえた。


     


 その夜、緊急輸送の命令に、期限が加えられた。


 十四日。


 延長には、あらためて手続きを要する。


 軍の担当者は不満を示した。


 財務の役人は、補償額が確定できないと訴えた。


 皇太子は、損失の見込みを記録させ、後の審査に備えるよう命じた。


 薬と生活に不可欠な物資を通す枠も、残された。


 澪がその文面を受け取ったとき、すでに日付が変わっていた。


 夫へ礼を言いに行こうとして、やめた。


 彼は父帝のもとへ戻っていた。


 彼女は短い手紙を残した。


『数字を見てくださって、ありがとうございました』


 それでは足りないと思った。


 下に、もう一行書いた。


『お戻りになったら、お茶だけでもご一緒させてください』


     


 軍の荷が増えると、駅から離れた町へ、道路を使う注文が流れた。


 大きな荷車が、以前より頻繁に通るようになった。


 試験舗装の先にある砂利道が傷み、橋の通行を巡って言い争いが起きた。


 澪は、道路の管理者を集めた。


 町の代表。


 橋を直した技師。


 荷を運ぶ商人。


 修理所の主人。


 宮殿の外で開かれた会議に、ユリアンも呼ばれた。


 機関を積んだ車を公道へ出すため、どの道なら使えるかを調べていたからだった。


「今、走らせれば、邪魔者にされます」


 彼は地図を見て言った。


「止まった車を避ける幅もない。荷馬車が続いていれば、馬が驚いたときに逃げ場がありません」


「では、試験は工房の敷地で続けて」


 澪は言った。


「道路の方は、待避できる場所を増やしましょう。ただし、土地を使う方の了承を先に」


 ユリアンは頷いた。


 彼女が顔を上げるたび、彼は図面を見ていた。


 目が合ったときだけ、わずかに表情が和らいだ。


 澪は、その短い変化を頼りに、一日の会議を終えた。


     


 帰る前、彼女は窓際へ寄った。


 外では、馬車を回していた。


 ユリアンが、綴じた図面を持ってきた。


「お疲れですか」


「皆に、そう聞かれるわ」


「眠れていない顔です」


 澪は小さく笑った。


「あなたに言われたくない」


「今日は、私の方が少し眠っています」


 彼女は、笑ったまま下を向いた。


 しばらくして、声を落とした。


「夫が、とても怖がっているの」


 ユリアンは黙っていた。


「陛下のことも、国のことも。誰に何を任せればいいか、考え続けている」


 彼女は窓の外を見た。


「そばにいたいと思うわ。ちゃんと、役に立ちたいとも」


「ええ」


「なのに、ここへ来ると、ほっとしてしまう」


 最後の言葉は、ほとんど息だった。


 ユリアンは手にした図面を机へ置いた。


「少し休んだことで、そばにいる資格がなくなるわけではありません」


 澪は彼を見た。


 慰めてくれたことが嬉しかった。


 同時に、夫のもとへ帰ることを、彼が否定しないのも分かった。


     


「あなたは、いつも、私を帰してくれるのね」


 澪は言った。


 ユリアンの目が動いた。


 彼はすぐには答えなかった。


 外で、従者が御者へ何かを告げていた。


「帰ってほしくないと言えば」


 彼は低い声で言った。


「あなたは、困るでしょう」


 澪は唇を結んだ。


 ユリアンは、彼女から視線を外した。


「それを知っていて、言いたくなる日があります」


 彼女は、机の縁へ手を置いた。


 彼の手が、すぐそばにあった。


 二人とも動かなかった。


 澪はようやく、指先を引いた。


「……今日は、帰るわ」


 ユリアンは頷いた。


「はい」


 その返事には、引き止めないための力が要るのだと、彼女には分かった。


     


 宮殿へ戻ると、夫は居間で眠っていた。


 椅子に座ったまま、手には書類があった。


 茶は冷めていた。


 澪は侍女を下がらせ、静かに近づいた。


 書類を取ろうとすると、彼が目を開けた。


「……戻りましたか」


「はい」


 彼は身体を起こそうとした。


 澪は肩へ手を置いた。


「そのままで」


 夫は、彼女の手に自分の手を重ねた。


「あなたの手紙を読んだ」


「お待ちになっていたのですか」


「少しだけのつもりが」


 彼は疲れた顔で笑った。


 澪は隣へ座った。


 しばらく、何も話さなかった。


 やがて夫が、肩へ額を寄せた。


 彼女は動かずにいた。


 別の人の言葉を胸に残したまま、この人をいたわっている。


 そのことから、目を逸らしたくなった。


 けれど、逸らさなかった。


 夫の髪へ手を置き、ゆっくり撫でた。


     


 十四日の期限が来る前に、延長の申請が出された。


 軍の輸送は終わっていない。


 地方の兵も、まだ戻っていない。


 議会では、継続を認めるべきだという声が多かった。


 一方で、期限を切った意味が失われるという反対もあった。


 ヴァレク伯爵は、議論の場で落ち着いて言った。


「憲章に沿って延長を審議しているのです。手続きは守られております」


 それは、事実だった。


 延長は承認された。


 次も、期限つきだった。


 そして、新しい書類には、輸送だけでなく、燃料と機械油の供給量を調整する条項が加わっていた。


     


 澪は、その条文を仕事部屋で読んだ。


 机には、祖父・黎明が関わった憲章の古い解説書があった。


 非常時の権限は、平時の秩序へ戻るために用いる。


 余白に、古い筆跡で書き込みがあった。


 誰のものか、すぐには分からなかった。


『戻る時を決める者が、同じ力を持ち続けることを、忘れるな』


 澪は、その一行を長く見ていた。


 扉の外で、侍従が名を告げた。


「ヴァレク伯爵が、お目通りを願っております」


 彼女は本を閉じた。


「お通しください」


 入ってきた伯爵は深く礼をした。


 卓上へ置かれたのは、帝国の油の供給をまとめる、新しい委員会の設置案だった。


「殿下にも、お力をお貸しいただきたく」


 澪は書類を受け取った。


 自分の名が、委員の筆頭にあった。


 その下には、精製所の設備、貯蔵量、仕入価格を報告させる権限が記されていた。


 誰が油を持ち、誰へ渡すか。


 これまで事業の中で考えていたことを、今度は帝国の名で決める。


 澪は顔を上げた。


 伯爵は、穏やかに彼女を見ていた。

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