第七十六章 もう一つの椅子
皇帝が公の席へ姿を見せなくなってから、宮殿の廊下に人が増えた。
医師が呼ばれ、閣僚が待ち、地方から戻された将軍が、まだ旅装のまま控室へ入った。
容体について発表される文面は短かった。
静養を要する。
政務に支障はない。
その二つが、何度も繰り返された。
皇太子は父帝の名で開かれる会議へ出席するようになり、澪と夕食を取れない日が続いた。
彼女は一人で食事を済ませ、仕事部屋へ戻った。
机には、初めて車台が走った日の報告書があった。
もう一度読もうとして、廊下の足音に顔を上げた。
夫ではなかった。
侍従が礼をした。
「殿下より、今夜も遅くなられると」
「承知しました」
侍従が下がると、澪は報告書を閉じた。
代わりに、軍への潤滑油の納入一覧を取り出した。
注文が、急に増えていた。
「備蓄を増やすだけだと、先方は申しております」
翌日の会議で、商会の担当者が説明した。
「どれくらいの期間分を?」
「その点は、軍務上のことなので」
澪は数字を辿った。
これまでの使用量では、説明のつかない注文だった。
「全部を受ければ、鉄道と民間の工場への供給が減ります」
「軍からは、優先を求められております」
「代金は?」
「一部を先払い。残りは検収のあとに」
彼女は父を見た。
暁人は、同じ表を読んでいた。
「受けられる量を、こちらから示せ」
父は言った。
「軍が欲しいと言った量を、そのまま約束するな」
「国からの要請でございますが」
「出ないものは、出ない」
担当者が黙った。
澪は納入先の欄へ印をつけた。
「病院と上下水道の設備、定期輸送に使う分は、先に確保します。残りを計算してください」
会議が終わると、父は彼女を呼び止めた。
「宮中では、何と言っている」
「私には、詳しい軍の話は届きません」
「尋ねるつもりか」
澪は頷いた。
暁人は少し考えた。
「妻として聞いた答えを、そのまま会社で使うな」
「分かっているわ」
「会社の都合を、夫婦の話に忍ばせることもだ」
澪は父を見た。
暁人は、書類を綴じていた。
「一度混ざると、あとで分けられん」
皇太子が戻ったのは、夜半に近かった。
澪は仕事部屋の灯りを落とし、居間で待っていた。
夫は彼女を見ると、少し驚いた。
「眠っていると思いました」
「お食事は?」
「済ませました」
侍従が扉を閉めた。
二人きりになると、皇太子は椅子へ深く腰を下ろした。
澪は温かい茶を注いだ。
「陛下は」
「今日は、少し話せました」
彼は杯を受け取った。
「私の報告が長いと、お叱りになった」
澪は微笑んだ。
夫も、かすかに笑った。
その顔に、疲れが残っていた。
「殿下」
「何です」
「軍から、油の注文が増えています。これまでと同じ供給では、追いつきません」
皇太子の表情が変わった。
杯を、受け皿へ戻した。
「財務と調達の者が、話をしているはずです」
「はい。ただ、民間へ渡す分を減らすことになります。優先すべき用途を、公に決めていただく必要があります」
「今、備蓄を増やしている理由は、詳しく話せません」
「理由ではなく、責任の所在を伺っています」
彼は顔を上げた。
澪は、言葉を選び直した。
「私が、皇太子の妻だから軍へ安く売ったとされても、逆に、その立場を使って高く売ったとされても困ります。通常の契約を変えるなら、その指示を文書でいただきたいのです」
「私に、出せと?」
「殿下からでなくても、権限のある役所から」
皇太子は窓の方を見た。
しばらくして、低い声で言った。
「あなたは、いつでも、あとから確かめられるものを求める」
「それがなければ、約束を守れません」
「私は、あなたに、約束を破れと言っているつもりはない」
澪は黙った。
夫は自分の声の硬さに気づいたようだった。
「……明日、担当へ確認します」
「ありがとうございます」
その礼を言うと、彼は少し寂しそうな顔をした。
澪には、今夜、何を言えば妻としての言葉になるのか、分からなかった。
工房では、二台目の車台が組み上がりつつあった。
最初のものを、そのまま作り直したわけではなかった。
機関の位置を下げ、整備のために外せる覆いをつけた。
冷却の水を増やすと重くなり、少なくすれば長く動かせない。
力を伝える仕組みには、速さの違う組み合わせを試していたが、切り替えるときに歯が噛み合わず、嫌な音を立てることがあった。
車輪には、薄いゴムの帯を使う試験も始めていた。
振動は減った。
ただ、留め方が悪ければずれ、傷むのも早かった。
ユリアンは、工房の代表者と費用を見比べた。
「二人乗れば、今の機関では坂が厳しい」
年長の技師が言った。
「平らな場所で、荷重を増やす試験から始めます」
「そのためなら、砂袋でいい」
ユリアンは図面を見た。
二つ並んだ椅子があった。
「操作者以外にも、調整や記録を担う者が乗れるようにしたいのです」
「走りながら、燃料の具合を見られるか」
「ええ」
技師は頷いた。
「では、足を置く場所を広く取れ。今のままでは、機関へ靴を寄せすぎる」
ユリアンは図面へ線を書き足した。
もう一つの椅子を描いた理由を、すべて話したわけではなかった。
けれど、役に立つ理由も、確かにあった。
澪がその車台を見たのは、半月後だった。
前より長くなった枠。
並んだ椅子。
彼女は入口で立ち止まった。
ユリアンは作業台から顔を上げた。
「まだ、動かしていません」
「……二つにしたのね」
「はい」
彼は布で指を拭いた。
「試験中、隣で調整できるように」
澪は近づいた。
片方の椅子へ、そっと手を置いた。
「私が座っても、重すぎない?」
ユリアンは彼女を見た。
「砂袋で確かめてからです」
「随分、礼を欠いた答えね」
「安全な答えです」
彼女は笑った。
その笑いを聞いて、彼もようやく微笑んだ。
車台を動かす前に、できる試験は幾つもあった。
二人が座ったとき、操舵の腕が隣へ当たらないか。
足が鎖や軸へ届かないか。
緊急時に、すぐ降りられるか。
澪は外套を脱ぎ、侍女へ預けた。
「座るだけなら、いいでしょう」
ユリアンは機関が冷えていることを確かめ、車台の横へ踏み台を置いた。
「裾を、こちらへ」
澪は服を押さえ、椅子へ上がった。
思ったより、地面が近かった。
囲いも、馬車の屋根もない。
自分の足の先に、金属の部品が見えた。
ユリアンが隣へ座った。
澪は前を向いたまま、息を整えた。
彼の肩が近かった。
「狭い?」
彼が尋ねた。
「いいえ」
「足は?」
「大丈夫」
ユリアンは操舵の棒を動かした。
車輪の向きが変わる。
その腕が、彼女の袖へ軽く触れた。
二人とも、何も言わなかった。
「まだ、どこへも行けないのね」
澪が言った。
「今日は」
「いつか、行ける?」
ユリアンは、動いていない前輪を見た。
「道と、機関と、止める仕組みが揃えば」
彼女は少し笑った。
「一つずつ、揃えてきたでしょう」
「ええ」
ユリアンが顔を向けた。
澪も彼を見た。
「あなたとなら、待つのは嫌ではないわ」
彼の表情が静かに変わった。
澪は、言葉を重ねなかった。
最近は、ここへ来る前に、言うべきでないことを幾つも決める。
けれど、顔を見ると、少しだけ伝えたくなってしまう。
ユリアンは、椅子の縁に置かれた彼女の手を見た。
指先を伸ばせば届いた。
伸ばさなかった。
「寒くありませんか」
彼は尋ねた。
澪は首を振った。
「もう少し、このままで」
ユリアンは前へ向き直った。
二人は、止まった車の椅子に並んで座っていた。
その日の帰り、工房の門へ軍の馬車が着いた。
降りてきた役人は、澪の姿を見ると深く礼をした。
「殿下がおいでとは存じませんでした」
「工房へ、ご用ですか」
「共同研究について、確認に」
澪は同行者の持つ箱を見た。
図面を収めるための、平たい箱だった。
ユリアンも気づいた。
「本日は、説明の予定だったはずですが」
役人は書面を出した。
「まず、複製をお預かりしたい。軍の工場で検討いたします」
「その扱いについて、まだ合意していません」
「検討のためです。製造を始めるわけではありません」
ユリアンは書面を読んだ。
澪は口を挟まずに待った。
「複製といっても、作るための寸法がすべて入っています」
彼は言った。
「説明に必要な範囲の資料は渡せます。ただ、製造図は、使用の条件を定めてからです」
役人の目が、澪へ動いた。
彼女は、その視線を受けた。
「契約の当事者同士で、確認してください」
澪は言った。
「私がここにいることで、手続きを省く必要はありません」
役人たちが建物へ入ったあと、澪はユリアンへ向き直った。
「私が、いない方がよかった?」
「そんなことは」
「今の方は、そう思われたかもしれない」
彼は少し黙った。
「あなたが、私たちの代わりに断ることも、受けることも、しなかった」
澪は彼を見た。
「助かりました」
その言葉が、嬉しかった。
守ったと言われるより、ずっと。
「では、次も、そうするわ」
彼は頷いた。
従者が、馬車の扉を開けた。
澪は乗り込み、窓から工房を見た。
奥に、二つの椅子が並んでいた。
動いていない車の上で、そこだけが、もう自分の記憶になっていた。
その晩、ヴァレク伯爵は皇太子の執務室へ呼ばれた。
軍への油の供給について、文書で条件を定めるよう命じられた件だった。
「民需への影響を示す資料を、提出させます」
伯爵が言った。
「皇太子妃の商会からも、数字が届いております」
「数字の根拠を確かめたうえで、契約を整えてください」
「承知しました」
伯爵は一礼した。
下がりかけて、もう一枚の書類を見た。
「機関の共同研究については、少し難航しております」
「何が問題です」
「工房側が、製造図の提出を保留しております。本日は、皇太子妃もお立ち会いで」
皇太子の視線が上がった。
「妃が、何か指示を?」
「いえ。契約に沿うようにと、おっしゃったそうです」
伯爵は、そこで言葉を切った。
事実だけを並べていた。
だから、皇太子には退ける理由がなかった。
「研究には、引き続き柊家の資金が入っております。国の支援と、どちらを優先すべきか、技師も迷うのでしょう」
皇太子は答えなかった。
伯爵が去ったあと、机の上の書類を開いた。
今日の妻の予定には、工房への視察が記されていた。
予定の終わりには、余白があった。
皇帝の容体が再び悪化したのは、その二日後だった。
夜明け前に、皇太子が呼ばれた。
澪も目を覚ました。
夫は急いで衣服を整えていた。
「私も、参りましょうか」
「今は、ここに」
彼は答えた。
扉へ向かいかけて、足を止めた。
「今日の予定は?」
「午前は、道路の報告を。午後に、大学の方が」
「宮殿にいてください」
澪は彼を見た。
皇太子は、少し間を置いた。
「何かあれば、すぐ呼べるように」
「……はい」
彼女は頷いた。
夫が出ていくと、澪は窓辺へ歩いた。
まだ暗い庭を、灯りを持った者が横切っていた。
宮殿の門が開く。
使いの馬が、二頭続けて出ていった。
仕事部屋には、工房から届いた新しい図面が置かれていた。
二人乗りの車台。
彼女はその紙を丸めず、机の上へ広げたままにした。
廊下で足音が増えていく。
澪は椅子へ座り、呼ばれるのを待った。




