第七十五章 走り出すもの
最初の車台には、椅子が一つしかなかった。
背もたれも、屋根もない。
車輪の間に機関を据え、回転を鎖で後ろの軸へ伝える。操舵の仕組みは、荷車のものを、そのまま使うわけにはいかなかった。
図面では収まっていた部品が、実際に組むと互いに邪魔をした。
管を避ければ、調整のための手が入らない。
燃料の容器を移せば、熱い部分へ近づく。
ユリアンは何度も部品を外し、置き直した。
車輪を地面から浮かせた最初の試験では、片側だけが速く回り、鎖が外れた。
澪は、その場にはいなかった。
試験の知らせを受け取った日、宮中の式典があった。
彼女は薄い紙に記された結果を、夜になって読んだ。
『負傷者なし。
鎖の保持と張りの調整を改めます。
操舵は、まだ試していません』
末尾に、ユリアンの署名があった。
澪は何か書き足そうとして、ペンを置いた。
仕事の返事は、翌朝、書記を通じて送った。
来なかったことを、ユリアンは残念に思った。
来てほしいと書かなかったのは、自分だった。
試験の時刻と場所を通知しただけだった。
彼女が来れば、工房の入口に馬車が止まり、従者が立つ。
誰かが、その時刻を書き留める。
以前なら、そこまで考えなかった。
今は、考えずにはいられなかった。
「次は、殿下にもご覧いただけますかね」
若い職人が言った。
皇太子妃を指しているのだと分かった。
「まず、鎖が外れないようにしよう」
ユリアンは答えた。
作業台へ戻り、曲がった金具を手に取った。
仕事をしている間だけは、次に触れるべきものが分かった。
軍の工場から、正式な照会が来たのは、その数日後だった。
内燃機関の図面。
使用している燃料。
必要な工作設備。
そして、製造権を軍需のために使用できる条件。
澪は宮殿の机で、その写しを読んだ。
すべてを求めているわけではなかった。
だが、まだ動き始めたばかりのものに対して、回答を急ぎすぎていた。
「これは、どなたの判断で?」
澪が尋ねると、書記は添付された書面を示した。
軍の調達部門と、皇室財務。
そこに、ヴァレク伯爵の名があった。
「研究の報告は、既に出しています」
「はい。ただ、民間の一商会が、将来の重要な機関と燃料を一括して握ることへの懸念があると」
澪は、紙を机へ戻した。
自分が供給契約に書かせた三行を思い出した。
他社の機関を扱う修理所へは、油を売らない。
削ったはずの条件が、別の形で自分へ返ってきていた。
皇太子は、その夜、書面を持って彼女の部屋へ来た。
「この件は、聞いています」
「殿下も、ご賛成なのですか」
彼は向かいへ座った。
「軍が、将来の動力について調べることには」
「図面を渡すことまで?」
「必要な範囲を、話し合うべきだと思う」
澪は黙った。
皇太子は彼女を見た。
「あなたの事業だからといって、軍が照会してはいけないとは言えません」
「そうは申しておりません」
「では、何を案じているのですか」
澪は答えを選んだ。
「研究を始めた者が、続けられなくなることです。軍が優先すると決めれば、工房の人も、設備も、そちらへ回されるかもしれない」
「条件は、定められる」
「だから、本人たちの同意が必要です」
皇太子の指が、書面の端を押さえた。
「ロシュフォール氏の」
「工房の皆です」
彼は頷いた。
けれど、その頷きのあとに、言葉が続かなかった。
「私は、彼の仕事を奪いたいのではない」
やがて皇太子が言った。
澪は顔を上げた。
「承知しております」
「そうは見えないことがある」
彼女は口を閉じた。
夫は、机の上の図面を見ていた。
「彼のことになると、あなたは、私が何を言おうとしているかを聞く前に、守ろうとする」
澪の胸が強く打った。
「研究の話です」
「分かっています」
少し早い返事だった。
皇太子は、自分でもそれに気づいたように息を吐いた。
「……分かっていたいと思っています」
澪は、夫の顔を見た。
問い返すことも、慰めることもできなかった。
否定しきれないものを、自分が持っている。
そのために、正しいと思うことまで、堂々と説明できなくなるのが苦しかった。
「照会には、工房から回答を出します」
彼女は言った。
「私だけで、許諾はできません」
皇太子はしばらく黙ってから、書面を畳んだ。
「それで、よいでしょう」
部屋を出るとき、いつもの口づけはなかった。
工房の会議は、宮中より騒がしかった。
軍から設備の費用が出るなら、受けるべきだという者がいた。
試験のたびに資金を心配する暮らしは、楽ではなかった。
一方で、何を公表してよいか、役所の返事を待つようになるのは困るという声もあった。
「研究費を受け取って、何の義務も負わないというわけにはいかん」
年長の技師が言った。
「ええ」
ユリアンは頷いた。
「ですから、何を渡し、何を自分たちで続けられるのか、先に決める必要があります」
澪は、皆の話を聞いていた。
出資契約の控えが、彼女の前にあった。
試作機の所有。
図面の保管。
製造によって利益が出たときの分配。
細かく決めたはずだった。
しかし、実際に欲しがる者が現れると、決めていないことばかり目についた。
「工房が、ほかの商会へ機関を作らせる場合は?」
澪が尋ねた。
「条件を定めて、認めたいと考えています」
ユリアンが答えた。
「柊の工場以外にも?」
「同じものを作れる設備と技術があれば」
澪は契約書を見た。
「その商会が、別の油を使って故障させたら、どうするの」
「燃料と潤滑油には、必要な性質を定めます」
「それを、誰が確かめる?」
「工房だけでなく、大学や試験を担う者にも――」
「まだ、その設備がないでしょう」
彼女の声が硬くなった。
ユリアンは、そこで黙った。
ほかの者たちも、二人を見た。
「今、確実に燃料を供給できるのは、私たちです」
澪は続けた。
「精製所も、容器も、運ぶ船も用意している。機関だけをほかで作っても、動かし続けられなければ意味がありません」
「供給をお願いしたいとは、思っています」
ユリアンが答えた。
「ただ、製造を認める条件に、柊の油しか使えないことを入れるのは、避けたい」
澪は彼を見た。
「品質を揃えるためでも?」
「品質なら、品質を条件にしたいのです」
会議室の時計が鳴った。
誰かが、椅子の上で姿勢を変えた。
澪は机の紙を揃えた。
「では、その確かめ方と、費用を出してください」
彼女は言った。
「できる仕組みが整うまでは、事故を起こさない条件が必要です」
「暫定の条件には、期限をつけましょう」
ユリアンの声は変わらなかった。
澪は、小さく頷いた。
「……ええ。つけましょう」
会議のあと、彼女はすぐには帰らなかった。
人が出ていくのを待ち、契約書を閉じた。
「私が、あなたの邪魔をしているように聞こえたわ」
ユリアンは立ったまま、彼女を見た。
「そういうつもりではありません」
「でも、あなたは、私から離れたところでも作れるようにしたいのでしょう」
言ってから、澪は息を止めた。
事業の話だけではなくなっていた。
ユリアンも、それを聞き取った。
彼は椅子へ座り直した。
「あなたがいなくても、研究を続けられるようには、しておきたい」
澪の目が揺れた。
彼は言葉を続けた。
「あなたも、私が反対するたびに、出資を続けるかどうかを問われるのでは、辛いでしょう」
「私は、そんなことで――」
「分かっています」
彼は静かに言った。
「あなたが、そうしないことは」
澪は、机へ目を落とした。
少ししてから、ユリアンが言った。
「それでも、いつもあなたに守ってもらわなければならない関係には、したくないのです」
窓の外で、車輪の音がした。
澪は、閉じた契約書の角を指で撫でた。
「仕事では、あなたに頼られていたいと思っていたの」
声が小さくなった。
「ほかのことでは、何も言えないから」
ユリアンは動かなかった。
彼女は顔を上げた。
「よくないわね。そんな理由を、契約へ混ぜるのは」
彼は、すぐには答えなかった。
それから、机の上に置かれていた彼女のペンを取り、転がらないように布の上へ置いた。
「私も、あなたが来る日には、入口の音を気にしています」
澪は彼を見た。
「それを、試験の日程へ混ぜないようにするのは、簡単ではありません」
彼は苦く笑った。
澪の目に、涙が浮かんだ。
泣くために来たのではなかった。
そのことだけは、毎回、本当だった。
「……今日は、喧嘩をしたのに」
「会議で反対しました」
「同じよ」
「私には、少し違います」
彼女は指先で、目元を押さえた。
ユリアンは触れなかった。
ただ、彼女が顔を上げるまで、席を立たずにいた。
地上を走らせる最初の試験は、春の終わりに行われた。
工房の奥にある平らな敷地を使い、人払いをした。
車輪は、まだ鉄の輪を巻いたものだった。
路面の凹凸は、そのまま車台へ伝わる。
制動装置は何度も確かめられ、止まれない場合に備えて、先には十分な空間を取った。
澪は少し離れた場所に立った。
公務の予定表に記された、正式な視察だった。
夫も来るはずだった。
だが、その朝、皇帝の体調が崩れ、皇太子は宮殿へ残った。
代わりに、軍の工場から二人。
大学から、試験の記録を担う者。
皇室財務から、役人が一人来た。
ユリアンが、車台の椅子へ座った。
助手が始動を手伝う。
一度目は、回らなかった。
二度目は、火が入ってすぐに止まった。
三度目に、機関が不揃いな音を立てて動き始めた。
澪は、自分の手を握った。
ユリアンが周囲を確かめた。
合図が返る。
動力をつなぐ。
車台が、がくりと前へ出た。
止まるかと思った。
それでも、進んだ。
馬がいなかった。
前に、引く者がいなかった。
車輪が、自分の下に積んだ機関の力で回っていた。
速くはなかった。
人が早足で追いつけるほどだった。
大きく曲がるとき、ユリアンは慎重に手を動かした。
澪は、いつ息を吐いたか分からなかった。
車台は、決めてあった距離を進んだ。
戻る途中で、機関の音が乱れた。
ユリアンが調整する。
それでも、最後の数歩を残して止まった。
静かになったあと、誰かが笑った。
「走った」
若い職人だった。
もう一度、大きな声で言った。
「走りました!」
人々が車台へ集まった。
ユリアンは椅子に座ったまま、澪を見た。
彼女は笑っていた。
泣いているようにも見えた。
機関が冷えるのを待つ間、澪は車台の横へ来た。
「最後まで、戻れなかったわね」
「ええ」
「次は?」
「戻れるようにします」
彼は答えた。
澪は、空いていない車台の上を見た。
「椅子は、まだ一つなのね」
ユリアンが彼女の顔を見た。
「二つにするには、重さと位置を考えなければ」
「分かっているわ」
彼女は少し笑った。
「急かしているのではないの」
彼は、その笑みを見つめた。
乗せてほしいと言われた気がした。
一緒に行きたいと言われた気もした。
どちらも、口にされてはいなかった。
「次の車台では、考えてみます」
ユリアンは言った。
澪は頷いた。
その約束が、いつ果たされるかは尋ねなかった。
皇室財務の役人は、試験の距離と時間を記録した。
その横に、別のことも書き留めた。
皇太子妃は、試験後、技師と長く会話した。
車台の近くに立ち、笑みを見せた。
それ自体は、視察の記録として不自然なことではなかった。
ヴァレク伯爵は報告を読み、まず、走った距離へ印をつけた。
次に、機関の製造権について、まだ合意していないという箇所へ。
最後の記述には、何も書き込まなかった。
紙を裏返し、書記を呼んだ。
「軍の試作予算を、増やせるか調べなさい」
「柊の工房へでございますか」
「ほかにも、作れる者を探す」
伯爵は窓の外を見た。
「買わなければ使えぬものが、増えすぎている」
宮殿へ戻った澪は、まず夫のもとへ行った。
皇帝は休まれていると聞いた。
皇太子は、窓際に立っていた。
「陛下のご容体は」
「今は、落ち着いています」
彼は振り返った。
「試験は、どうでした」
「走りました」
澪は答えた。
その声だけで、皇太子には結果が分かった。
「そうですか」
「最後までは戻れませんでしたが、自分の力で進みました」
彼女は、そこで話を止めた。
夫が、笑おうとしているのが分かった。
「ご覧いただきたかったです」
澪は言った。
それも、本当だった。
皇太子は頷いた。
「次は、行きましょう」
窓の外では、馬車が庭を横切っていた。
彼は、その車輪を見送った。
「人が乗って、町を走る日が来るのですね」
「まだ、先です」
澪は、ユリアンと同じ答えをしていた。
皇太子は彼女を見た。
彼女が誰の言葉を思い出しているか、尋ねなかった。
その夜、ユリアンは試験の記録をまとめた。
距離。
時間。
燃料の量。
止まる前に起きた変化。
次に改める箇所。
最後まで書いて、紙を脇へ置いた。
別の小さな紙へ、車台の図を描いた。
一つだけの椅子。
その隣に、もう一つ、薄い線を引いた。
しばらく見てから、消そうとした。
手が止まった。
彼はその紙を折り、引き出しの奥へしまった。
翌朝、人に見せる図面には、まだ、椅子は一つしかなかった。




