第七十四章 呼ばれなかった名
試験機関は、四十分を越えて回った。
止めたのは、壊れたからではなかった。
ユリアンが軸受の温度を確かめ、予定していた時刻に燃料を絞った。
はずみ車が、惰性で回る。
ゆっくりと速さを失い、最後に、小さく揺れて止まった。
誰も、すぐには喋らなかった。
「止められたのね」
澪が言った。
ユリアンは、彼女を見た。
「ええ」
「止まったのではなく」
「今日は、そうです」
彼の笑顔を見た途端、澪は記録を取っていたことを忘れた。
「よかった」
それだけ言って、彼の袖を掴んだ。
薄い布の下に、腕の硬さがあった。
ユリアンが息を止めたのが分かった。
澪は手を離しかけた。
けれど、彼は動かなかった。
ほんの少しの間、二人はそのままでいた。
奥で、職人が道具を置いた。
金属の音がして、澪はようやく指を解いた。
「……ごめんなさい」
「いえ」
ユリアンは、掴まれていた袖を見なかった。
「記録の最後を、お願いします」
澪は帳面へ目を落とした。
四十三分。
予定停止。
その文字を、いつもより丁寧に書いた。
片づけが済む頃には、窓の外が暗くなっていた。
職人たちは、試験の成功を祝って近くの店へ行くと言った。
ユリアンも誘われた。
「あとで行く」
彼は答えた。
澪は外套を受け取るために立っていた。
「私がいるから?」
「まだ、熱の残る箇所があります。確かめてから」
それが本当の理由だということは、分かった。
それだけではないかもしれないと思うことを、やめられなかった。
工房の扉が閉まった。
入口には澪の従者が控え、奥には二人だけが残った。
ユリアンは機関の周りを一度歩き、弁を確かめた。
「これで、少し先へ進めます」
「車台へ?」
「まず、もっと負荷をかけます。その次です」
「私が急かさなくなったら、寂しい?」
彼は振り返った。
澪は微笑んでいた。
冗談に見えるように。
ユリアンは、少し遅れて笑った。
「急かされない日を、一度経験してから、お答えします」
「随分、ひどいことを言うのね」
「事実の記録です」
澪は笑った。
彼も笑った。
静かになると、離れた通りから、荷車の音が聞こえた。
「今日、ここへ来られなかったら」
澪は言った。
「宮殿で報告を読んでも、同じように嬉しかったかしら」
ユリアンは彼女を見た。
「結果は、変わりません」
「ええ」
彼女は止まった機関へ目を向けた。
「でも、あなたが笑ったところは、書いていないでしょう」
ユリアンの手が止まった。
澪は、言ってしまったと思った。
それでも、取り消さなかった。
「私は、それを見たかったの」
声が小さくなった。
ユリアンは、握っていた布を作業台へ置いた。
何かを言おうとして、やめた。
その困惑が、彼女にも分かった。
困らせたかったわけではなかった。
ただ、いつも図面の話へ戻る前に、一度だけ、言葉を置いてみたかった。
「……今日、いてくださって」
彼が、ようやく言った。
「私も、嬉しかったです」
澪は顔を上げた。
ユリアンは彼女を見ていた。
工房で出資者へ礼を言う顔とは、少し違っていた。
澪は、その違いを見つめすぎないように、視線を落とした。
「では、また来てもいい?」
彼はすぐに頷きかけた。
途中で、入口の方を見た。
従者の影が、曇った硝子に映っていた。
「次の試験の日程を、お送りします」
その答えで、澪は自分の立っている場所へ戻された。
外套を着るとき、留め具が髪へ引っかかった。
澪が指を伸ばすより先に、ユリアンの手が近づいた。
「動かないで」
低い声だった。
彼は留め具から、細い髪を外した。
指が首の近くをかすめた。
澪は息を浅くした。
「取れました」
「ありがとう」
彼の手が離れた。
離れたあとも、触れられた場所だけが、温かい気がした。
ユリアンは一歩下がり、扉を開けた。
従者が姿勢を正した。
「お待たせしました」
澪は言った。
馬車へ乗る直前、振り返った。
ユリアンは戸口に立っていた。
「おやすみなさい」
彼女が言った。
「おやすみなさい、ミレイア殿下」
呼ばれた名に、微笑みが少しだけ遅れた。
宮殿の食堂では、皇太子が待っていた。
食事は、まだ運ばれていなかった。
澪は入口で足を止めた。
「遅くなりました」
「試験は?」
彼は尋ねた。
「四十三分、動きました。今日は、予定通りに止めたのです」
「それは、よかった」
澪は席へ着いた。
話したいことが、次々に浮かんだ。
軸の音が変わったこと。
潤滑油を替えた効果。
熱の上がり方。
夫は聞いていた。
料理が来ても、しばらくは頷きながら聞いていた。
やがて、匙を置いた。
「あなたは、彼の話をするとき、楽しそうですね」
澪の言葉が止まった。
皇太子は、彼女を見ていた。
「機関のお話です」
「ええ」
彼は頷いた。
「そうでしたね」
その返事が、静かすぎた。
澪は膝の上で指を組んだ。
「お待たせしたことは、申し訳なく思っています」
「食事が遅れたことだけを、言っているのではない」
彼女は顔を上げた。
皇太子は、少し視線を外した。
「私にも、あの顔を見せてほしいと思った」
澪は何も言えなかった。
「こんなことを言えば、あなたは次から、私の前で嬉しそうに話すことまで考えてしまうでしょう」
彼は苦く笑った。
「言わない方がよかった」
「殿下」
「責めたいのではないのです」
声が、わずかに硬くなった。
彼自身も、それに気づいたようだった。
「ただ、待っている間に、考えてしまった」
食後、皇太子は彼女の仕事部屋へ来た。
澪は報告書を閉じた。
彼は机の端へ目をやった。
工房から届いた図面に、ユリアンの署名があった。
「ロシュフォール氏へは、宮殿から報酬を出してはどうでしょう」
澪は彼を見た。
「今も、研究費と報酬は契約に沿って支払っています」
「それとは別に。帝国の工業研究に関わる技師として、役職を与えることもできる」
「本人が、望むかどうか」
「待遇は、今より良くできる」
澪は、少し間を置いた。
「工房を離れることになりますか」
「必ずしも。ただ、研究の報告は、国にも出してもらう」
彼女は書類の端を揃えた。
帝国のためになる。
研究費も増える。
ユリアンを評価していることに、偽りはないのだろう。
けれど、その申し出が今夜出た理由を、考えずにはいられなかった。
「本人へ、お話しになってください」
澪は言った。
「私から、受けるようには申しません」
皇太子の顔が強張った。
「あなたは、私が彼へ何かを命じようとしていると思うのですか」
「そうは申し上げておりません」
「では、なぜそんなに用心する」
澪は答えを失った。
夫は、彼女の沈黙を見ていた。
やがて、机から手を離した。
「今日は、やめましょう」
扉が閉まるまで、澪は座ったままだった。
数日後、ユリアンに、宮廷から打診が来た。
彼はその書面を、工房の代表者たちと読んだ。
安定した俸給。
試験設備への予算。
大学との共同研究。
一方で、成果の公表と国外への技術供与には、事前の許可が必要だった。
「悪い話ではない」
年長の技師が言った。
「ただ、何でも一度、役所へ持っていくのか」
別の者が、該当する箇所を指した。
ユリアンは、返事を保留した。
その日の午後、澪へ報告を書いた。
役職の件については、自分たちで協議していること。
出資契約と混同しないよう、確認したいこと。
そこまで書いて、手を止めた。
四十三分の試験の日を思い出した。
『あなたが笑ったところは、書いていないでしょう』
あの声を、自分に都合よく覚えているのではないかと思った。
けれど、袖を掴んだ指の感触まで、思い違いにはできなかった。
ユリアンは窓を開けた。
冷たい空気が入ってきた。
嬉しかった。
認めると、次に何をしてよいのか分からなくなった。
澪が工房を訪ねたのは、役職の話を知ってから一週間後だった。
車台の図面を確かめるためだった。
まだ、完成した車ではない。
機関をどこへ置くか。
軸へどう力を伝えるか。
速さを変える仕組みを、どこに収めるか。
議論は、すぐに白熱した。
「このままでは、整備のたびに座席を外すことになる」
「低くすれば、道の石に当たる」
「車輪を大きくすると、曲がりにくい」
澪は話を聞きながら、費用を書き留めた。
会議が終わると、ユリアンが彼女を呼び止めた。
「先日の役職の件ですが」
「伺っています」
「まだ、お受けしていません」
「私に、断る理由を説明しなくてもいいのよ」
彼は彼女を見た。
「あなたに勧められた話だとは、思っていません」
澪は、小さく息を吐いた。
そのことを、どれほど案じていたか、自分でも初めて分かった。
工房の外では、迎えの馬車を回していた。
待つ間、二人は水路のそばへ歩いた。
今日は、入口からも姿が見える場所だった。
ユリアンが、少し距離を取った。
澪は、それに気づいた。
「あなたは、私が来ない方が、仕事をしやすい?」
「なぜです」
「人が増えるわ。予定も変わる。私へ見せる前に、何かを整えなければならないでしょう」
「見苦しいところは、もう大抵、ご覧になっています」
澪は笑った。
笑ってから、彼を見た。
「それだけではないの」
ユリアンの表情が変わった。
彼女は、水の流れへ目を落とした。
「ここへ来る理由を、いつも用意しているの。報告書の、紙で読めるところまで、聞きに来たりする」
彼は黙っていた。
澪は、自分の手を見た。
「分かっているのよ。私は、こんなことを言うべきではない」
遠くで、馬の蹄が鳴った。
「でも、仕事の話だけをして帰ると、帰り道で、言わなかったことばかり考えてしまうの」
ユリアンは、ゆっくり息を吐いた。
「……私にも、あります」
澪は彼を見た。
彼は、目を逸らさなかった。
「言わなかったことを、あとで考えることが」
彼女の唇が、わずかに開いた。
その先を尋ねれば、答えが返るかもしれなかった。
返ったあとのことは、分からなかった。
「澪」
ユリアンが呼んだ。
彼女は動かなかった。
待ち続けていた名だった。
「ここでは、お呼びしない方がいいと思っていました」
「どうして」
分かっていることを、尋ねた。
彼は答えるまでに、少し時間をかけた。
「私が、呼びたくなってしまうからです」
澪は顔を伏せた。
涙が出るほど嬉しいということが、本当にあるのだと知った。
ユリアンは近づかなかった。
彼女も、手を伸ばさなかった。
そのわずかな距離に、夫の顔があった。
皇太子妃という称号があった。
工房で働く人々と、彼へ渡される研究費があった。
「ごめんなさい」
澪が言った。
ユリアンは首を振った。
「謝らないでください」
「あなたを、困らせる」
「困っています」
彼は、少しだけ笑った。
澪も、泣きそうな顔で笑った。
その顔を見て、彼の手がわずかに動いた。
けれど、腕は上がらなかった。
従者が、馬車の用意ができたと知らせに来た。
二人は同時に振り向いた。
澪は頷き、外套の前を合わせた。
「次の試験は、いつ?」
いつもの問いへ戻った。
「来週です。車輪を浮かせたまま、駆動を確かめます」
「分かったわ」
来るとは、言わなかった。
ユリアンも、待っているとは言わなかった。
馬車へ向かう前に、澪はもう一度だけ、彼を見た。
「今日は、来てよかった」
彼は小さく頷いた。
「私もです」
宮殿では、皇太子が執務を終えようとしていた。
机へ運ばれた日程の記録に、妻の訪問先があった。
工房。
予定より、半刻の延長。
皇太子は、その行を見た。
侍従が、次の頁を差し出した。
「殿下?」
「……何でもない」
彼は記録を返した。
妻の行動を逐一知りたいわけではない。
そう思った。
それでも、帰着の時刻が記されていないことを、もう一度確かめた。
その晩、澪は夫と食事をした。
皇太子は、工房へ行ったことを尋ねなかった。
彼女も、話さなかった。
代わりに、道路工事の進み具合を話した。
町の鍛冶屋が、人を雇ったこと。
試験舗装の割れを直したこと。
夫は、きちんと聞いた。
穏やかな食卓だった。
その穏やかさを壊さずにいられることが、澪には苦しかった。
数日後、皇室財務の会議へ、新しい報告が出された。
柊系の精製所が供給する潤滑油は、鉄道だけでなく、軍の工場でも使用が増えていた。
次の頁には、内燃機関の試作状況があった。
研究を担う技師の名。
主な出資者。
皇太子妃の訪問記録。
ヴァレク伯爵は、最後の紙を別にした。
「この記録は、事業の審査には不要ですな」
同席者が言った。
「ええ」
伯爵は答えた。
その紙を、捨てはしなかった。
軍への納入契約と、機関の製造権に関する書類の下へ、静かに重ねた。




