第七十三章 残ったものの値段
澪は、契約案の一節に線を引いた。
他社製の機関を修理する者には、燃料と潤滑油を供給しない。
紙の上では、わずか三行だった。
その三行を削れば、設備と訓練にかけた費用を、競争相手のためにも使わせることになる。
残せば、道ができても、その道へ出てこられない者がいる。
彼女は朝までに、ユリアンへ返事を書いた。
『この条項を、私は止めませんでした。
設備の費用を回収する条件が必要だと考えたからです。
ただし、他社の機関を扱うことと、安全に油を扱えることは、分けて考えます。契約は見直します。
代わりに、使用量に応じた料金や設備費の返済で成り立つか、確認させてください』
書き終えても、胸は晴れなかった。
彼に指摘される前に、自分で気づきたかった。
それ以上に、自分が考え抜いたつもりの条件を、彼には恐れられたことが辛かった。
返事は、その日の夕方に届いた。
『ありがとうございます。
費用を払わずに設備を使わせるべきだとは、考えていません。修理する機関の持ち主ではなく、使う設備と必要な手間に対して支払える形なら、話ができると思います。
それから、精製所で残っている重い油について、お見せしたいものがあります』
澪は最後の一文を読んだ。
会う理由ができたことを、まず喜んだ。
そのあとで、事業のことなのだと自分へ言い聞かせた。
工房の作業台には、浅い皿が五つ並んでいた。
澪は上着を預け、袖口を留めた。
「今日は、何に触ってはいけないの?」
「こちらの二つです。温めたばかりなので」
ユリアンは皿の下にある板を示した。
淡い琥珀色の油。
色の濃い、粘りのある油。
白く濁った柔らかい塊。
黒褐色の、光沢を帯びたもの。
そして、細かな石を混ぜた黒い試料。
「全部、あの油から?」
「一部は、ほかの材料を加えています」
彼は最初の皿へ、小さな金属片を浸した。
「灯油を取り出したあとも、まだ油が残ります。そこから、機械に使えるものを選べないかと調べています」
「重い油は、もう工場で使っているでしょう」
「ええ。ただ、重ければ何でもよいわけではありません。冷えると流れないものもある。熱くなると薄くなりすぎるものもある。汚れが混じれば、潤滑するどころか軸を傷めます」
彼は隣の皿を指した。
「蒸留で分けるだけでは足りません。沈めて除くもの、濾すもの、別の処理が要るものがある。原油の採れた場所が変われば、同じ手順でも違うものが出ます」
澪は帳面を開いた。
「灯油と同じね」
「機械の方が、文句を言う前に壊れることがあります」
「持ち主は、よく文句を言うわ」
ユリアンが笑った。
澪は、その笑顔を見てから、慌てて皿へ目を戻した。
奥では、二組の軸が回っていた。
同じ重さをかけ、同じ速さで動かしているという。
それぞれの油皿から、少しずつ油が送られていた。
「こちらは、今までの植物油です。隣が、試している鉱油」
ユリアンは記録を見せた。
軸受の温度。
失われた油の量。
止めたあとに調べた表面の傷。
「どちらが良いの?」
「今の条件では、鉱油の方が長く保ちました。ただ、すべての機械で同じとは限りません」
「あなたは、売り文句を考える仕事には向いていないわね」
「同じものをもう一度買ってもらうには、向いているかもしれません」
澪は顔を上げた。
彼は記録へ目を落としていた。
「……そうね」
彼女は静かに答えた。
「その方が、ずっといい」
白く濁った塊は、へらですくうと形を保った。
「こちらは?」
「グリースです」
ユリアンは少量を金属板へ塗った。
「油に、石灰を使って作った石けんを組み合わせています。油がすぐ流れ落ちる場所で、留まらせるために」
「石けんで、機械を洗うのではなく?」
「今回は、油を抱え込ませます」
澪はへらを借り、塊の端へ触れた。
柔らかいのに、油のようには流れなかった。
「車輪の軸に?」
「使えれば、そうしたい。ただ、熱に弱い配合もある。水への強さも確かめています」
作業台の下には、失敗した試料の瓶が並んでいた。
油が分離したもの。
硬くなりすぎたもの。
砂のような粒が残ったもの。
「これは、全部?」
「売れません」
「では、費用だけ」
「次に同じものを作らないための記録にはなります」
澪はしゃがみ、瓶の札を読んだ。
配合と、作った日と、失敗の様子が書かれていた。
同じ名前の材料でも、仕入れ先が変わると結果が違っていた。
彼女は立ち上がった。
「材料を揃えるところからなのね」
「ええ。油だけの問題ではありません」
窓の向こうを、荷車が通った。
車輪が軋む音がした。
二人は、同時にそちらを見た。
最後の黒い試料には、石が混ぜられていた。
澪が近づくと、独特の匂いがした。
「これは、道?」
「候補です」
ユリアンは、横に置かれた別の塊を持ち上げた。
「天然の瀝青を使った舗装は、バフラーンにもあります。ただ、場所によって性質が違う。今回の原油には、重い部分を残していくと、結びつける材料として使えそうなものがありました」
「アスファルト?」
澪は父の古い記録で見た言葉を口にした。
「その名で、土木の者たちも調べています」
彼は頷いた。
「ただし、原油なら何でも、よい舗装材になるわけではないそうです。こちらも、まだ試しているところです」
「これを、道へ流すの?」
「石を選び、混ぜ方と量を決めます。下の地面が弱ければ、上だけ固めても沈む。水が抜けなければ、道ごと傷む」
澪は黒い表面を見た。
砂利道を直すため、何度も増えた見積もりを思い出した。
「楽には、ならないのね」
「埃は減らせるかもしれません。荷車の揺れも。ただ、今まで要らなかった設備と仕事が増えます」
「どんな?」
「石を乾かす。温める。量を揃えて混ぜる。冷める前に敷いて、締め固める」
彼は、黒い試料の角を示した。
細かな割れがあった。
「こちらは、寒い朝に割れました。隣は、暖かい日に柔らかくなりすぎた」
「では、両方の間を探す」
「はい。夏にも冬にも使えるものを」
澪は、しばらく試料を見ていた。
灯りとして売れなかったものが、軸を回し、車輪を支え、道になる。
採れた油を、どこまで使えるのか。
彼女の頭の中で、精製所の図面が変わり始めていた。
試験舗装は、町へ向かう道の、ごく短い区間で行われた。
人家の前を避け、排水を直し、路盤へ砕いた石を入れた。
舗装を担当する技師は、澪が持参した予定表を見て、首を振った。
「この日に敷けるとは、お約束できません」
「材料が足りないのですか」
「雨が降れば、待ちます」
澪は空を見た。
薄い雲が広がっていた。
「馬車も、人も、手配しているのですが」
「濡れた石で急ぐと、あとで剥がれます」
ユリアンは隣で黙っていた。
澪は彼を見た。
「あなたまで、何か言う顔をしないで」
「まだ、何も」
「分かっています」
予定は三日、延びた。
敷設の日、作業場は熱気に包まれていた。
温めた材料へ近づく者たちは、長い袖と丈夫な靴を身につけていた。
火傷の手当てをする場所も用意されていた。
澪は風上で説明を聞いた。
混ぜる石が大きすぎると、表面が揃わない。
細かなものばかりでは、必要な骨組みにならない。
結びつける材料が多ければ、よいというものでもない。
職人たちは汗を拭い、道具を持ち替えた。
敷き均したものを、重いローラーで締め固める。
黒い帯が、短いながらも道の上へ伸びた。
「きれいね」
澪が言うと、土木技師は困ったように笑った。
「明日も、そうであれば」
彼女は、まだ暖かい道を見た。
「皆さま、似たことをおっしゃるのね」
道が冷えてから、荷を積んだ馬車を通した。
車輪の音が変わった。
轍へ落ちる揺れが減った。
御者は一度通り過ぎ、戻ってきた。
「馬は、少し戸惑っています」
彼は言った。
「ただ、荷は跳ねませんな」
雨のあとの試験もした。
水の溜まる場所を記録し、端が崩れ始めた箇所を掘り返した。
数週間後には、車輪の通る位置に変形が出た。
澪が報告を読んでいると、ユリアンが言った。
「失敗として、おしまいにしますか」
彼女は顔を上げた。
「あなたは、しないでしょう」
「ええ」
「では、直す費用を出して。どこが悪かったかも」
彼は頷いた。
澪は、試験区間の長さを指で押さえた。
「ただ、次の町へ敷く話は、まだ進めないで」
ユリアンが彼女を見た。
その目に、安堵が浮かんだ。
澪は少し腹が立った。
「私も、少しは覚えるのよ」
「存じています」
彼は笑った。
それで、腹立たしさは長く続かなかった。
新しい潤滑油の最初の大口注文は、鉄道部門から来た。
車軸と工場の設備で試した結果、一定の用途なら、これまでの油から替えられるという。
グリースも、駅の修繕所で試験することになった。
澪は注文書を読み、思わず笑った。
道路への投資に反対した責任者の署名があった。
その日の夕方、父の家を訪ねた。
「お買い上げ、ありがとうございます」
書斎へ入るなり言うと、暁人は顔を上げた。
「礼は、担当者に言え」
「ええ。きちんと申し上げるわ」
「良いものなら買う。それだけだ」
「道の方も、いずれ」
「線路は、アスファルトの上を走らん」
「駅の前は?」
父は娘を見た。
澪は微笑んだ。
「荷を積み替える場所が泥になれば、鉄道も困るでしょう」
暁人は、机の上の報告書を一枚引き寄せた。
駅構内の排水と、貨物を扱う場所の修繕についてのものだった。
「……見積もりを寄越せ」
澪は、声を出して笑った。
父も、わずかに口元を緩めた。
夕食には、クララも加わった。
澪は珍しく、仕事の話を自分から切り上げた。
母が庭の花の話をし、父が、最近は朝に鳥がうるさいと言った。
「以前から、鳴いていたわ」
クララが言った。
「お父さまが、起きるようになったのね」
澪が続けた。
暁人は、二人を見た。
「一人減れば、少しは静かになると思ったが」
「お寂しいでしょう」
クララが尋ねた。
「静かな方がいい」
その答えに、母は笑って父の皿へ料理を取り分けた。
澪は二人を見ていた。
この家で、父と母は何度も傷ついた。
それでも、こうして夕食を食べている。
自分にも、夫と重ねられる時間があると思いたかった。
帰りの馬車で、澪は新しい事業の見積もりを開いた。
機械油。
グリース。
舗装用の材料。
灯油を得たあとにも、売るものがあった。
それぞれに設備が要り、試験が要り、人が要る。
同じ油から生まれるのに、買う相手は違った。
鉄道会社。
工場。
荷車を扱う修理所。
町の役場。
澪は白紙を一枚取り出し、線を引いた。
採取地から精製所へ。
精製所から、幾つもの売り先へ。
父が築いた鉄道も、その線の一つになった。
宮殿へ戻ると、皇太子がまだ起きていた。
彼女の図面を見て、椅子を寄せた。
「同じ油から、こんなに?」
「まだ、売れると決まっていないものもあります」
「それでも、使い道が増えている」
「ええ」
彼は図面を辿った。
「ロシュフォール氏も、こちらへ?」
「機関の研究が主です。ただ、潤滑油は、機関にも必要ですから」
皇太子は頷いた。
「良い技師を持ちましたね」
澪は答える前に、紙を押さえ直した。
「私の所有物では、ありません」
声が、少し硬くなった。
皇太子が顔を上げた。
澪も、自分の言葉に気づいた。
「……申し訳ありません。そういう意味でおっしゃったのでは、ないと」
「ええ。分かっています」
彼は静かに答えた。
けれど、先ほどまでの親しさは、すぐには戻らなかった。
澪は図面を畳まなかった。
夫が椅子を引く前に、もう一枚、報告書を差し出した。
「こちらも、ご覧になりますか。試験の舗装です」
皇太子は受け取った。
二人は並んで、黒い道の図を見た。
数日後、皇室財務の会議で、ヴァレク伯爵は新しい数字を読んでいた。
灯油だけの事業ではなくなっていた。
鉄道へ潤滑油を売る。
工場へ機械油を売る。
道路工事へ舗装材を売る。
いずれ機関が動けば、その燃料まで売る。
「専売の勅許は、求めていないのですな」
同席の役人が尋ねた。
「今のところは」
伯爵は答えた。
「それなら、競合する商会が育てば――」
「精製設備を造る資金があるか。港に場所を借りられるか。油を運ぶ容器が揃うか。技師を雇えるか」
伯爵は書類を閉じた。
「土地に油があるだけでは、あの娘と同じ商売はできません」
役人は黙った。
伯爵は別の報告へ手を伸ばした。
皇太子妃の持分。
柊家との婚姻の取り決め。
彼女自身の署名で残された、幾つもの権利。
「まず、軍への納入を調べなさい」
伯爵は言った。
「今、何を、誰の判断で、どれだけ買っているか」
その頃、工房では、ユリアンが新しいグリースを軸へ塗っていた。
澪は隣で、記録を取っていた。
始動の音がした。
はずみ車が回る。
軸が、取りつけられた装置を動かす。
前より、金属の軋みが小さかった。
ユリアンは耳を澄ませ、澪は時刻を書いた。
二人とも、しばらく喋らなかった。
動き続ける機関を前にしている間だけは、次に何をしなければならないかが、同じだった。
十分が過ぎた。
澪が顔を上げると、ユリアンも彼女を見ていた。
彼は笑った。
澪も笑った。
その一瞬を、彼女はどこへも売らず、誰にも渡さず、自分のものにしておきたいと思った。




