第七十二章 線路のない町
宮殿へ届く書類は、まず誰かの机を通った。
澪は、それを承知で嫁いだ。
危険なものが入っていないか。公務に関わるものか。どの役所へ回すべきか。
以前なら朝食の前に読めた工房の報告が、昼を過ぎて届くこともあった。
最初の一週間は、我慢した。
二週間目に、理由を尋ねた。
三週間目には、自分の部屋へ侍従を呼んだ。
「昨日、届いたものを見せてください」
「こちらが、本日お目通しいただく分でございます」
「本日ではなく、昨日です」
侍従は少し困った。
「お急ぎのものは、選び出しております」
「何を急ぐか、どなたが決めているのですか」
「内容を拝見して――」
澪は、机の上へ一枚の紙を置いた。
精製所からの、予備部品についての照会だった。
「これは、三日前に返事が必要でした」
侍従は日付を見た。
「部品が届かなければ、設備を止めることになります。止めるべきなのか、別の方法で続けられるのか、私には技師へ尋ねる必要があります」
「ただ、宮中の慣例では」
「届いた時刻と、私へ渡した時刻を記録してください」
彼女は静かに言った。
「選び出したものだけでなく、すべてです」
その晩、皇太子が彼女の仕事部屋へ来た。
澪は机から立ち上がりかけた。
「そのままで」
彼は隣の椅子へ座った。
「侍従から、話を聞きました」
「私も、お話ししようと思っておりました」
「随分、慌てていた」
澪は書類を揃えた。
「慣れないことをお願いしましたので」
「あなたへ届いたものを、あなたへ渡す。それだけのことが、随分難しいらしい」
彼は苦笑した。
澪も少し笑った。
「殿下にも、ございますか」
「私の場合は、父へ見せる前に私が読むべきだと言われ、私へ見せる前に父の意向を確かめるべきだとも言われる」
「それでは、書類はどちらへ」
「途中にいる」
二人は笑った。
皇太子は机の端にある工房の報告へ目を向けた。
「例の機関ですか」
「はい。今度は、軸へ重さをかけて試します」
「動いた時間も、また延びた?」
「延びました。ただ、何も動かさずに自分だけ回っているのと、仕事をするのでは違いますから」
彼は頷いた。
「ロシュフォール氏を、ここへ呼んではどうです」
澪の指が止まった。
「こちらへ?」
「私も一度、詳しく聞きたい。あなたが工房へ出かけるより、人も少なくて済むでしょう」
澪は報告書へ目を落とした。
会いたいと思った。
その気持ちが先に立つのを、彼女は夫に悟られたくなかった。
「では、工房の代表の方々と、日程を調整いたします」
「お願いします」
皇太子は立ち上がった。
扉の前で振り返った。
「ただ、食事のときまで、報告会にはしないでくださいね」
澪は顔を上げた。
彼は笑っていた。
「あなたと、まだ、ゆっくり話していない」
彼女は、手元の書類を閉じた。
「……はい。今夜は、すぐに参ります」
灯油の販売が始まってから半年で、苦情の内容が変わった。
初めは、臭い。
煙。
芯の扱い。
やがて、届くのが遅いという声が増えた。
鉄道の駅に近い町では、販売所が定期的に樽を受け取れた。
駅から離れた町では、荷車が揃うまで待たなければならなかった。雨で道が悪くなると、次の便まで来ない。
その間に、値は上がった。
「同じ油なのに、倍近い町があります」
澪は報告書を示した。
柊家の会議室で、幹部たちは地図を見ていた。
「距離がございますので」
「距離だけではありません。橋の手前で、小さな車へ積み替えています。町へ入る坂でも、一度に運べない」
「以前から、その道はそうでございます」
「ええ。だから、以前と同じ量しか運べないのです」
彼女は地図へ印をつけた。
線路から外れた町だった。
石切場と、小さな織物の工房がある。
人口は多くない。
だが、周囲の村が市の日に集まる場所だった。
「まず、ここまでの道を直せないでしょうか」
鉄道部門の責任者が、顔を上げた。
「その町へは、支線を延ばす案がございます」
「いつですか」
「採算の見込みが立ち次第」
澪は以前の資料を取り出した。
「七年前にも、同じ説明が記されています」
男は黙った。
暁人が、娘の指した場所を見ていた。
道を直すと言っても、穴を埋めるだけでは済まなかった。
雨水の逃げ場がなければ、砂利を入れても流された。
橋を補強しなければ、荷車を大きくできなかった。
曲がり角には、互いが見えない場所があった。
村の家畜が通る道と重なる。
荷車がすれ違う場所も足りない。
澪は、土木を担う技師たちと現地の記録を読んだ。
ユリアンにも、車輪と荷重について意見を求めた。
「機関を載せた車ができても、ここでは使えませんね」
彼は橋の図を見て言った。
「重すぎるの?」
「重さもあります。橋へ入る前の曲がり角で、曲がれるかどうか」
澪は図面へ顔を寄せた。
「では、こちらの家の塀を下げる?」
「持ち主に聞く必要があります」
「もちろんよ」
「それから、速く走れるようになったとしても、家の前で速く走らせていいかは別です」
澪は彼を見た。
彼は真面目だった。
「まだ、十二分しか回らない機関の話でしょう」
「今は、馬車でも事故が起きています」
彼女は小さく笑って、書記へ向き直った。
「通行の決まりも、町と相談してください。荷車の修理をする場所と、道の管理を担う人も」
書記のペンが忙しく動いた。
道路の見積もりは、また増えた。
ユリアンが宮殿へ来た日は、朝から冷たい雨だった。
案内された控室で、彼は濡れた外套を預けた。
工房の代表として来たのは、彼を含め三人だった。
澪は広間の入口で迎えた。
その姿を見て、ユリアンは少しだけ動きを止めた。
以前と同じ顔だった。
けれど、彼女が歩き始めると、近くにいた者たちが一斉に場所を空けた。
「お越しいただき、ありがとうございます」
澪は言った。
「殿下がお待ちです」
ユリアンは礼をした。
彼女の後ろに、侍女と侍従が続いた。
皇太子は、よく質問した。
澪が予想していたよりも、具体的だった。
「同じ機関を二つ作れば、同じように動くのですか」
「まだ、そうは言えません」
ユリアンが答えた。
「筒の内側や、弁の合わせ方に差が出ます。良く動いた一台を、そのまま十台へ増やすところが、次の難しさです」
「部品を同じ寸法にしても?」
「寸法を、どこまで同じにできるかが問題になります。測る道具も、削る道具も要ります」
皇太子は、机に置かれた小さな部品を手に取った。
「人の腕を、道具で揃えるのですね」
「腕も必要です。道具が良くなれば、腕のある者が同じものを繰り返し作りやすくなります」
澪は二人を見ていた。
夫が彼の説明を遮らずに聞いていることが、嬉しかった。
嬉しいと思える自分に、安堵もした。
「軍でも使えますか」
皇太子が尋ねた。
ユリアンは一拍、間を置いた。
「動けば、使い道はあると思います。ただ、今は工房から無事に出せるかを考えている段階です」
皇太子は笑った。
「では、まず、その報告を待ちましょう」
説明のあと、皇太子は別の公務へ呼ばれた。
澪は三人を、小さな食堂へ案内した。
簡単な食事だった。
それでも給仕が立ち、料理が冷める前に皿が替えられた。
工房の二人は、初めのうち、何を話してよいか分からない様子だった。
澪が、会議で見た若い職人の失敗を尋ねると、ようやく笑いが出た。
「今では、私より先に火を確かめます」
ユリアンが言った。
「一度、あなたに叱られると、忘れないでしょうね」
「ミレイア殿下にも、同じことを言われました」
澪は笑った。
彼が自分をそう呼ぶのを、何度聞けば慣れるのだろうと思った。
帰り際、同行の二人が先に外套を取りに行った。
澪とユリアンは、窓際に残された。
侍女は少し離れていた。
「手は、大丈夫?」
澪は尋ねた。
彼は自分の手を見た。
「ああ。ええ」
「前の手紙に……書いたから」
「読みました」
彼が顔を上げた。
「気をつけています」
澪は頷いた。
それだけで、胸の奥が温かくなった。
「こちらでは、眠れていますか」
今度は彼が尋ねた。
「ええ」
「それなら、よかった」
彼は、窓の外の庭を見た。
澪も同じ方を見た。
雨が、砂利道を濡らしていた。
「工房の裏の水路も、今日は増えている?」
「たぶん。朝は、随分流れていました」
「そう」
澪は、あの日の続きを覚えているかと尋ねたくなった。
あなたといると。
そこまで言った。
彼は、何が続くと思ったのだろう。
「ユリアン」
彼が振り向いた。
澪は、その目を見た。
後ろで、外套を受け取る声がした。
「……道の計画について、また相談したいの」
「はい」
彼は答えた。
ほんの少し、視線を落とした。
「図面を、お送りください」
道路の計画は、鉄道部門から強い反対を受けた。
橋を直し、道を広げ、町へ荷を運びやすくすれば、支線の建設に賛成する者が減る。
石材の輸送も、一部は荷車へ移るかもしれない。
「当家の資金で、当家の鉄道から荷を奪うのでございますか」
責任者が言った。
澪は机の向こうの父を見た。
暁人は、答えを引き取らなかった。
「今、鉄道で運んでいない荷もあります」
彼女は言った。
「道が悪いので、売れる場所まで出せない石です。仕入れを諦めている商店もある」
「しかし、将来の支線が」
「支線を造るなら、そのときに比較してください。造らない間、町にも待てと言うのですか」
「道路からの利益は、どう回収なさいます」
澪は見積もりを示した。
町と周辺の村が負担する分。
商会が出す分。
橋の修繕に充てる通行料。
そして、灯油や潤滑油の販売が増える見込み。
男は、最後の数字を指した。
「販売量が増えなければ、成り立たない」
「はい」
「では、他社の油が売られた場合は?」
澪は答える前に、地図を見た。
広げる道。
補強する橋。
自分たちが費用を出す。
その道を通って、別の商会が安い油を売りに来る。
腹立たしいと思った。
それが顔へ出る前に、彼女は口を開いた。
「道の利用を、当社の品に限ることはできません」
父が、そこで顔を上げた。
澪は続けた。
「ただし、販売所の建設や供給の契約は、別に考えます」
会議のあと、暁人は娘を呼び止めた。
「道は、誰でも使えるようにするのか」
「町も、お金を出すわ」
「それだけか」
澪は父を見た。
「私たちの荷しか通れない道なら、町は賛成しないでしょう」
「そうだな」
父は地図を畳んだ。
「支線の案は、俺が残していた」
澪は黙った。
「いつか、通すつもりだった」
「今なら?」
暁人は、すぐには答えなかった。
「まず、お前の道で、どれだけ荷が動くか見る」
澪は少し息を吐いた。
「鉄道を、否定したいわけではないの」
「分かっている」
父は地図を彼女へ渡した。
「だが、あれで暮らしてきた者には、そう聞こえることがある」
澪は受け取った。
紙の上では、鉄道も道路も、細い線だった。
その線を頼りに働く人々の顔は、描かれていなかった。
工事の認可が下りた翌月、町から最初の報告が届いた。
橋の架け替えに使う石の注文が入った。
石切場が、人を増やす。
町の鍛冶屋は、荷車の車軸を直す場所を広げたいと言っている。
宿屋の主人が、工事人の食事を引き受けた。
道が完成する前から、町は動き始めていた。
澪は報告書を夫へ見せた。
皇太子は、石切場の人数が記された箇所を読んだ。
「あなたが初めに見た町とは、変わりそうですね」
「ええ」
「完成したら、私も見たい」
澪は顔を上げた。
「橋を渡りに?」
「今度こそ」
彼女は微笑んだ。
「では、随員は少なく」
「交渉してみます」
皇太子は報告書を返した。
そのまま、彼女の手へ自分の手を重ねた。
澪は引かなかった。
穏やかな時間だった。
こういう時間を、二人で増やしていけるかもしれないと思った。
その夜、工房からも便りが来た。
試験機関が、軸に取りつけた装置を動かし続けたという。
空回りではなかった。
途中で調整を要したが、負荷を受けたまま回った。
ユリアンは、まだ車台へ載せるには早いと書いていた。
その下に、別の問いが添えられていた。
『道路沿いの販売所について、契約案を拝見しました。
修理工場への潤滑油と燃料の供給を、他社の機関の修理を扱わないことと結びつける条項があります。
これは、あなたの意向でしょうか』
澪は書類を取り寄せた。
該当する条文には、担当者の印があった。
販売所と修理所を同じ経営にすれば、客は便利になる。
設備と訓練の費用をこちらが出すのだから、他社のために使わせない。
その説明を、澪自身も一度は聞いていた。
反対しなかった。
彼女はユリアンの手紙へ戻った。
問いの下に、もう一行あった。
『今は一つの契約でも、同じ条件の場所が道沿いに並べば、その道を使えない機関ができます』
窓の外は暗かった。
澪は地図を広げた。
線路の届かない町へ、自分が引いた道。
そこへ並べるつもりの、小さな販売所の印。
一つずつは、商売のために必要だと思った条件だった。
彼女はペンを取った。
すぐには、返事を書かなかった。




