第七十一章 白い手袋と、黒い指
婚約が公表された朝、柊家の門の前に、花を積んだ馬車が並んだ。
祝いの手紙は、午前のうちに机を埋めた。
澪は一通ずつ名を確かめ、返礼の必要なものを分けた。婚約前には面会の約束を取りつけるまで何週間もかかった相手が、翌日の訪問を願い出ていた。
「こちらは、どうなさいますか」
書記が封筒を示した。
バフラーンの採取地で、競合する商会だった。
「お祝いだけなら、礼状を」
「会談も希望しております」
「何について?」
「共同輸送のご提案と」
澪は封筒を受け取った。
昨日まで、港の使用料について返事を寄越さなかった相手だった。
「担当者から、条件を書いて送るように伝えてください」
「直接お目にかかりたいとのことですが」
「まず、条件を」
書記が頷いた。
彼女は次の手紙へ手を伸ばした。
その手が止まった。
宮殿の紋章だった。
封を切ると、皇太子の短い手紙が入っていた。
『今朝から、私のところにも、あなたに取り次いでほしいという依頼が届いています。
どれも断る前に、一度、何が来たかをお知らせしておきます』
別紙に、商会と家名が並んでいた。
澪は、初めて笑った。
返事を書いた。
『こちらへも届いております。同じ方が、何人かいらっしゃいます』
その一行は、迷わず書けた。
婚礼までの数か月、澪の時間は細かく分けられた。
衣装の採寸。
儀礼の確認。
宮中の役職者との面会。
諸国の使節へ示す略歴の校閲。
その合間に、精製所の報告を読み、販売所の帳簿を調べた。
「こちらのお名前は、ミレイア・ヒイラギで統一いたします」
儀礼官が言った。
澪は略歴を見た。
父の名があり、母の出自があり、柊家の事業があった。
彼女自身が始めた事業は、父の業績の末尾へ、短く添えられていた。
「油の事業については、別の段落にしてください」
「まだ、ご婚約者殿下の事績として記すには――」
「私の事績として、記していただきたいのです」
儀礼官は、彼女を見た。
澪は訂正箇所へ印をつけた。
それ以上は言わなかった。
宮殿で暮らす部屋を見に行った日、皇太子は一つの小部屋を開けて見せた。
窓の前に机が置かれ、壁には空の書棚があった。
「こちらを、あなたの仕事に使えないかと」
澪は中へ入った。
机の幅を見た。
大きな地図なら、端が少しはみ出す。
「狭いですか」
「いいえ」
彼女は振り返った。
「ありがとうございます」
皇太子は安心したようだった。
「事業の者を宮中へ呼ぶ際には、届けが必要になります。ただ、毎回、私を通す必要はないようにしてもらった」
澪は窓の留め具へ手を置いた。
開けると、庭から冷たい空気が入った。
「図面を広げる台を、もう一つ置いても?」
「もちろん」
「壁に、地図を掛けたいのですが」
「釘の位置は、職人と相談してください。私が勝手に穴を開けたときは、随分叱られた」
「殿下でも?」
「修繕費の説明を聞かされた」
二人は笑った。
澪は空の書棚を見た。
ここへ本を運ぶ。
帳簿を置く。
自分の部屋にする。
それは考えられた。
ただ、窓辺にある小さな舟を、ここへ持ってくるところだけは、思い描けなかった。
ユリアンとは、月に二度の事業会議で会った。
以前より、同席する者が増えていた。
法務の担当者。
商館の責任者。
澪の持分を管理する書記。
ユリアンは変わらず、試験の結果を説明した。
「連続して動いたのは、八分です」
会議室の向こうで、幹部の一人が頷いた。
「前回は三分でしたな。順調ではありませんか」
「そのあと、軸受が焼けました」
男の顔から笑みが消えた。
「冷却は改善しています。ただ、潤滑がまだ足りない。負荷をかければ、もっと早く止まると思います」
澪は報告書へ目を落とした。
「燃料の供給は?」
「手で調整しています。気温でも変わる。始動できた設定のまま、次も動くとは限りません」
「では、車台へ載せる試験は、まだ先ね」
「はい。まず、同じ条件で繰り返し動くようにします」
澪は頷いた。
彼の袖口は、直されていた。
粗い縫い目だった。
誰が縫ったのだろうと思ってから、報告書の同じ行を読み直した。
会議が終わると、澪は彼を呼び止めた。
「婚礼の招待状が、届くと思います」
ユリアンの手が止まった。
「私に?」
「工房からは、代表の方々をお招きすることになっています。あなたにも」
言いながら、澪は自分の説明を聞いていた。
工房の代表。
事業を支えた技師。
宮廷へ示せる理由は、幾つもあった。
「光栄です」
彼は言った。
「来てくださる?」
ユリアンは彼女を見た。
その短い間に、澪は、来てほしくないのかもしれないと思った。
別の女性と並ぶ彼の姿を見るより、自分の婚礼を見られることの方が、今は恐ろしかった。
それでも、返事を待っていた。
「伺います」
彼は答えた。
澪は頷いた。
「ありがとう」
それしか言えなかった。
婚礼の衣装は、何人もの手で整えられた。
最後に部屋へ入ってきたクララが、娘の前に立った。
しばらく、何も言わなかった。
「変かしら」
澪が尋ねると、母は首を振った。
「とても綺麗」
その声で、澪は泣きそうになった。
今日は泣くまいと決めていた。
母は白い手袋を取った。
片方ずつ、娘の手へはめた。
「きつくない?」
「大丈夫」
「指を曲げてみて」
澪は言われた通りにした。
クララは指先を撫で、皺を伸ばした。
「お母さま」
「ええ」
「私は、ちゃんと選んだのよね」
母の手が止まった。
窓の外から、儀仗兵の掛け声が聞こえた。
「あなたが、お返事をしたのよ」
クララは静かに言った。
「でも、これから困ることがあっても、選んだのだから黙っていなければならないとは、思わないで」
澪は母を見た。
「帰ってきても、いい?」
「もちろん」
母は、すぐに答えた。
「お食事の前なら、知らせてね」
澪は笑った。
笑ったまま、母へ抱きついた。
暁人は廊下で待っていた。
娘の姿を見ると、背を伸ばした。
何か言おうとして、口を閉じた。
「似合わない?」
「いや」
「では、何か言って」
父は、少し困った顔をした。
澪は、その顔が好きだった。
商談でも、会議でも、簡単には見られない。
「……綺麗だ」
「ありがとう」
彼女は父の腕へ手を置いた。
歩き始めてから、暁人が低く言った。
「お前の署名で残した権利は、お前のものだ」
「ええ」
「誰に何を言われても、手放すときは、自分で決めろ」
澪は前を見たまま頷いた。
父の腕が、思っていたより硬かった。
「お父さまも」
「何だ」
「私がいなくても、お食事は召し上がってね」
「お前の母親にも、同じことを言われた」
「では、二人に約束して」
父は、小さく息を吐いた。
「分かった」
式場へ入ると、人々が立ち上がった。
衣擦れが、広い天井の下へ重なった。
澪は前を見た。
見なければならない場所があった。
皇太子が待っていた。
彼の顔にも、緊張があった。
それを見て、澪は少し呼吸ができるようになった。
近づく途中、右側の列に、工房の者たちが見えた。
ユリアンは、その中にいた。
借りたものか、新しく仕立てたものか分からない礼服を着ていた。
目が合った。
彼は、ほんのわずかに頭を下げた。
澪は足を止めなかった。
止められなかった。
父の腕から手を離した。
皇太子の前へ立った。
誓約の言葉は、事前に何度も読んでいた。
それでも、実際に口にすると、知らない文章のようだった。
国への務め。
互いへの誠実。
家族を育むこと。
澪は、皇太子の声を聞いた。
自分の番になると、息を吸った。
白い手袋の中で、指が冷えていた。
誓い終えると、彼がその手を取った。
握る力は、強すぎなかった。
顔を上げると、彼は小さく頷いた。
終わったのだと、澪は思った。
始まったのだとも思った。
祝宴で、ユリアンが挨拶に来たのは、かなり時間が経ってからだった。
前には人が並び、後ろにも人が待っていた。
彼が礼をした。
「ご成婚、おめでとうございます」
澪は微笑んだ。
その日のために、何度も整えられた微笑みだった。
「ありがとうございます」
皇太子が彼を見た。
「ロシュフォール氏ですね。機関の試験について、伺っています」
「まだ、改良の途中でございます」
「八分、動いたそうですね」
ユリアンが僅かに驚いた。
澪も、皇太子を見た。
「妻が、報告を読んでいました」
妻。
その言葉が、三人の間へ置かれた。
「いずれ、拝見したい」
皇太子は言った。
「お目にかけられるものになりましたら、ぜひ」
ユリアンは答えた。
澪は、彼の手へ目を落とした。
指の爪の際に、黒い色が残っていた。
洗っても落ちなかったのだろう。
その小さな汚れを見た途端、工房の匂いが胸へ戻ってきた。
水路の音。
作業台の傷。
自分の名を呼ぶ声。
ユリアンがもう一度、礼をした。
澪は口を開いた。
彼の名を呼ぶ前に、儀礼官が次の客を告げた。
夜、宮殿の部屋へ戻ると、澪は椅子へ座った。
侍女たちが髪飾りを外し、衣装を解いた。
扉が閉まるまで、長く感じた。
一人になると、手袋を外した。
指の付け根に、布の跡が薄く残っていた。
隣の部屋から、皇太子が声をかけた。
「入っても?」
「はい」
彼は、昼間より簡素な服へ着替えていた。
手に、小さな包みを持っていた。
「厨房から。あまり食べられなかったでしょう」
中には、パンと温かい煮込みがあった。
澪はそれを見て、ようやく空腹に気づいた。
「殿下も?」
「同じです」
二人は、小さな机を挟んで座った。
祝宴より、ずっと静かだった。
皇太子は一口食べてから、少し笑った。
「今日、皆が私たちを見ていましたね」
「ええ」
「明日は、少し減るでしょうか」
澪も笑った。
「どうでしょう」
彼は、それ以上話さなかった。
彼女も無理に言葉を探さず、温かいものを食べた。
食事が終わると、皇太子は立ち上がった。
「今日は、休みましょう」
澪は彼を見上げた。
彼は少し迷ってから、彼女の額へ口づけた。
「おやすみ、ミレイア」
「……おやすみなさい」
扉が閉まったあと、澪はしばらく椅子に座っていた。
大切にしてもらっている。
そのことが分かるだけに、誰にも見せられない悲しみが、まだ自分の中にあることを申し訳なく思った。
同じ夜、ユリアンは工房へ戻った。
職人の一人が、礼服姿の彼を見て笑った。
「そのままでは、油がつきますよ」
「ああ」
彼は上着を脱ぎ、丁寧に畳んだ。
「どうでした、宮殿は」
「広かった」
「それだけですか」
ユリアンは答えず、作業台の前に立った。
試験機関は、昼間と同じ場所にあった。
冷えた金属へ触れる。
次に確かめるべき箇所は、分かっていた。
彼は道具を取った。
指先に、また黒い油がついた。
婚礼から十日後、精製所で初めて、出荷のための灯油が規格に沿って揃えられた。
同じ方法で採った試料を比べ、燃え方を確かめ、容器に番号をつけた。
軽い留分は、別の槽へ回された。
その一部が、工房へ送られた。
澪は宮殿の机で、報告書へ目を通した。
窓の下には、まだ人の少ない朝の庭があった。
皇太子は、国政の会議へ出ていた。
彼女は出荷の承認書へ署名した。
ミレイア。
続けて記す皇族としての称号には、まだ慣れなかった。
署名を終えると、別の報告書を開いた。
試験機関、連続作動十二分。
負荷をかけた試験は、次回。
末尾に、ユリアンの文字があった。
『燃料は使えます。ただし、送り込む量を安定させる工夫が、まだ必要です』
澪は、その文章の下へ返事を書いた。
『必要な部品と費用を、お知らせください』
今度は、書き終えてもすぐに紙を渡さなかった。
余白を見つめた。
それから、小さく書き加えた。
『手を、傷めないで』
少し迷ったあと、そのまま書類を閉じた。




