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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第七十章 約束に書けないこと


 澪の返書は、短いものになった。


 修正された条件への謝意。


 残された条項についての質問。


 柊家の経営を担う立場と、皇太子妃としての務めを、どのように分けるか。


 それらを書き終えたあと、最後の一行だけが、なかなか決まらなかった。


『改めて、お話しする機会をいただけますでしょうか』


 書いてから、澪は読み返した。


 まるで、次の商談を申し込む手紙だった。


 けれど、ほかに何を書けばよいのか分からなかった。


 封をする前に、もう一行加えた。


『次は、事業のお話だけでなく、お会いできればと思います』


 嘘ではなかった。


 それでも、書いた文字を見ているうちに、誰かを欺いている気がした。


     


 皇太子は、宮殿の図書室で彼女を迎えた。


 壁際には、古い地図を綴じた大判の本が並んでいた。庭へ面した窓が開き、机の上の紙を押さえるため、小さな石が置かれていた。


「ここは、お好きな場所なのですか」


 澪が尋ねると、彼は頷いた。


「幼い頃は、よく隠れていた」


「こちらで?」


「大人たちは、子どもが自分から本のある場所へ行くとは思わなかったらしい」


 澪は笑った。


 皇太子も、少し笑った。


「今日は、書類を別の部屋へ置いてきました」


「私もです」


「それなら、よかった」


 彼は机に載った二冊の本を見た。


「もっとも、何も用意しないで待つのは落ち着かなくて」


 一冊は旅行記だった。


 もう一冊は、帝国各地の橋を調べた記録だった。


「殿下は、橋にご興味が?」


「これを読んだときは、橋より挿絵を見ていた。ここの谷を、渡ってみたかったのです」


 彼が開いた頁には、深い谷を渡る吊橋が描かれていた。


「行かれたのですか」


「まだ」


「今も?」


「今も」


 皇太子は、少し照れたように本を閉じた。


「あなたは、バフラーンへ行った」


「仕事です」


「仕事なら、行けるのですね」


 澪は彼の顔を見た。


 その言葉には、羨望と、ほんの少しの可笑しみがあった。


「殿下にも、お仕事をお作りしましょうか」


「随員が百人ほどついてくるかもしれない」


「では、橋の前で荷を減らすところからですね」


 皇太子は声を上げて笑った。


 澪は、自分も楽しんでいることに気づいた。


 それが嬉しく、少し寂しかった。


     


 茶が運ばれたあと、彼は自分の幼い頃の話をした。


 初めて馬から落ちたとき、痛いと言うより先に、侍従が地面へ膝をついたこと。


 自分より、その者の方が青い顔をしていたこと。


「それ以来、落ちるところを見られたくなくなった」


「上達されたからではなく?」


「上達したことには、してあります」


 澪は笑った。


「あなたは?」


「私は、父の机の引き出しを開けて、怒られました」


「何が入っていたのですか」


「契約書です」


「それは、退屈だったでしょう」


「面白かったの」


 彼は意外そうに彼女を見た。


「大人が何日も悩んでいたことが、紙に書いてあったから。これを読めば、何があったか分かると思った」


「分かりましたか」


「いいえ。数字と、知らない人の名前ばかりでした」


 澪は杯を置いた。


「今も、ときどき同じ気がします。読めるようにはなったけれど、そこへ書かれるまでに何があったのかは、分からない」


 皇太子は彼女を見ていた。


 それから、静かに言った。


「私たちのことも、いずれ紙になりますね」


 澪は、膝の上で指を重ねた。


     


「私を、恐れていますか」


 彼が尋ねた。


「殿下を?」


「この婚姻を」


 澪は窓の外を見た。


 庭師が、落ちた枝を拾っていた。


「恐れております」


 彼は頷いた。


「私もです」


 澪は顔を戻した。


 皇太子は、彼女の返事を待つように黙っていた。


 ここで話すべきだと思った。


 心に、別の人がいる。


 その人には何も伝えていない。


 伝えなければ、なかったことにできるのかもしれないと、どこかで考えている。


 けれど、その名を口にしたあとのことを、澪は思った。


 誰が知るのだろう。


 誰がユリアンを訪ねるのだろう。


 工房へ出入りする自分の記録を、誰が調べるのだろう。


 皇太子が命じなくても、彼のために動く者はいる。


 澪は、唇を閉じた。


「……私は、今すぐに、殿下のお望みになる妻にはなれないと思います」


 ようやく、そう言った。


 皇太子は目を伏せた。


「私が、何を望んでいるかも、まだよく話していませんでしたね」


「はい」


「あなたに、私の言うことへ何でも頷いてほしいとは思わない」


 彼は少し間を置いた。


「ただ、私のそばにいることを、少しずつでも喜んでもらえたらと思う」


 澪は答えられなかった。


 その願いは、尊大ではなかった。


 断るには、あまりに人間らしかった。


     


 家へ戻った澪は、夕食まで部屋へ籠もった。


 母が来ても、机から立たなかった。


「殿下と、喧嘩でも?」


「いいえ」


「それなら、難しいお話だったのね」


 澪は頷いた。


 クララは窓辺に座った。


 水盤は片づけられ、木の舟だけが、布の上に置かれていた。


「お母さま」


「ええ」


「誰かを好きだと、言わなかったら」


 そこで声が途切れた。


 母は待った。


「その人を、困らせずに済むかしら」


 クララは、舟へ伸ばしかけた手を止めた。


「言えば、困る方なの?」


「分からない」


「では、困らないかもしれないわ」


「でも――」


 澪は顔を伏せた。


「私には、どこまでが私の気持ちで、どこからが、その人に何かを求めることになるのか、分からないの」


 出資者として、彼を呼べる。


 仕事を作れば、会える。


 夕食へ招けば、彼は父への礼も考えるだろう。


 好きだと言えば、その言葉まで断りにくいものになるのではないか。


 クララは娘のそばへ来た。


「澪。あの方が何と答えるかまで、あなたが決めなくてもいいのよ」


 澪は母を見た。


「あなたが断られるのを恐れているなら、それも、あっていいことだと思うわ」


 涙が出そうになった。


 ユリアンを守りたいのだと、自分では思っていた。


 それだけではないと、母に言われて初めて分かった。


     


 翌日、澪は工房へ行った。


 公用の馬車を使った。


 随行の者もいた。


 どうすれば私的な訪問になるのか分からず、結局、試験機関の契約案を持っていった。


 ユリアンは奥の作業台で、弁を調べていた。


 彼女を見ると手を止め、布で指を拭いた。


「早かったですね。午後かと思っていました」


「会議が、一つなくなったの」


「では、今のうちに見ていただけます。冷却の方を――」


「その前に」


 澪の声で、彼は顔を上げた。


「少し、歩ける?」


 ユリアンは彼女を見た。


 やがて、作業台へ布を置いた。


「ええ」


     


 工房の裏には、小さな水路があった。


 石積みの縁に苔がつき、流れの遅い場所で、細い草が揺れていた。


 澪は、こんな場所があることを知らなかった。


「よく来るの?」


「考えが詰まったときに。大抵、戻っても詰まったままですが」


 彼女は微笑んだ。


 隣を歩く彼の袖に、油の薄い染みがあった。


 礼服よりも、こちらの方が見慣れていた。


 袖口がほつれている。


 直してあげたいと思ってから、指先を握った。


「舟のこと、ありがとう」


「ええ」


「本当は、手紙を書いたの」


 ユリアンが彼女を見た。


「途中で、やめてしまった」


「何か、不都合が?」


「いいえ」


 澪は首を振った。


「何も、悪いことはなかったの」


 水の音がした。


 彼は急がせなかった。


 そのために、澪は余計に苦しくなった。


「あなたといると――」


 工房の戸が開いた。


「ロシュフォールさん!」


 若い職人が顔を出した。


 澪を見て、慌てて立ち止まった。


「失礼しました。ただ、冷却槽の継ぎ目が」


 ユリアンは水路から身を起こした。


「漏れたか」


「まだ、滲む程度です。でも、試験の前に見ていただきたくて」


「分かった」


 彼は澪へ向き直った。


「少しだけ、お待ちいただけますか」


 澪は頷いた。


「もちろん」


 彼が戸口へ向かう。


 途中で一度、振り返った。


「戻ってきます」


 澪は、もう一度頷いた。


     


 待っている間に、随行の従者が来た。


 父からの電報を持っていた。


 皇室側との協議が進み、法務の担当者が家で待っている。


 今なら、持分の保全について条文を確定できる。


 至急戻られたし。


 澪は電報を読んだ。


 工房の中から、ユリアンの声が聞こえた。


 慌てるな。


 先に火を落とせ。


 水を抜く前に、熱が下がるのを待て。


 彼は、すぐには出てこられない。


 澪は水路の縁へ腰を下ろしかけた。


 もう少し待てばいい。


 法務の者にも、待ってもらえばいい。


 そう思いながら、電報を折った。


「……帰ります」


 従者へ言った。


 工房の入口で、職人に伝言を頼んだ。


「急用ができたので、失礼すると。契約の話は、改めて」


 持ってきた書類を渡した。


 ユリアンへ会いに来たはずだった。


 帰るとき、残せたのは契約案だけだった。


     


 ユリアンが水路へ戻ったとき、彼女はいなかった。


 職人から伝言と書類を受け取った。


 封を開くと、機関の研究にかかる費用、試作設備の所有、製造権の扱いが記されていた。


 頁の端に、澪の手で書き込みがあった。


『研究の継続は、出資者の都合によって妨げないこと』


 彼はその一行を、指で押さえた。


 それから、工房の門の方を見た。


     


 婚姻の条件がまとまったのは、その晩だった。


 澪の持分は、彼女自身の財産として残る。


 柊家の事業を、皇室財産へ自動的に繰り入れない。


 国との契約は、価格と条件を記録し、所定の監督を受ける。


 日々の経営は、定めた責任者へ委ねる。


 ただし、彼女が持分を通じて意見を述べ、取締役を選ぶ権利までは、奪わない。


 父は条文を最後まで読んだ。


「これでも、揉める」


 書類を閉じて言った。


「紙があれば、揉めないのではない。何を約束したか、あとで確かめられるだけだ」


「分かっているわ」


 暁人は娘を見た。


「本当に、これでいいのか」


 澪は答えるまでに、時間をかけた。


 ユリアンの声を思い出した。


 戻ってきます。


 彼は戻っただろう。


 自分はいなかった。


「殿下と、もう一度お話しするわ」


 父は頷いた。


 それ以上、急がせなかった。


     


 皇太子に会ったのは、三日後だった。


 彼は澪の顔を見ると、すぐには椅子を勧めなかった。


 彼女が何かを決めて来たことを、察したようだった。


「お受けいたします」


 澪は言った。


 声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


 皇太子は息を吸った。


 しばらくしてから、近づいてきた。


「ありがとう」


 彼女の手を取る前に、わずかにためらった。


 澪は手を引かなかった。


「私に、できないこともあると思います」


「私にもある」


「殿下のお考えに、反対することも」


「もう、何度かしている」


 澪は少し笑った。


 彼も笑った。


 その穏やかさを、彼女は大切にしようと思った。


 何もかも偽りにしてしまうことだけは、したくなかった。


     


 正式な発表の前日、澪はユリアンへ手紙を書いた。


 今度は、途中でやめなかった。


『皇太子殿下との婚姻を、お受けしました。


 公の知らせでお聞きになる前に、私からお伝えしたく、お便りします。


 研究への出資は、取り決めた条件を守ります。今後の契約についても、あなたの同意なく変更することはありません。


 先日は、話の途中で帰ってしまいました。申し訳ありませんでした』


 最後に、いつもの公的な名を書きかけた。


 ペンを止めた。


 紙の端に、かつて彼へ教えた文字を書いた。


 澪。


 その名だけでは、伝えられなかったことの代わりにならないと知っていた。


 それでも、消さなかった。


     


 返事は、翌朝届いた。


『お知らせくださって、ありがとうございます。


 ご婚約を、お祝い申し上げます。


 契約についてのお心遣いにも、感謝します。機関の試験は続けています。次回は、作動時間を延ばせる見込みです。


 先日のお話は、また、いずれ。


 ユリアン・ロシュフォール』


 澪は最後の一行を読んだ。


 また、いずれ。


 机のそばに立ったまま、手紙を胸へ引き寄せた。


 泣き声を立てたくなかった。


 階下では、祝いの使者を迎える支度が始まっていた。


 花を運ぶ足音。


 食器を並べる音。


 家令が、誰かに席順を説明している。


 扉の向こうで、母の声がした。


「澪。入ってもいい?」


 彼女は返事をしようとした。


 喉が動いただけだった。


 クララは静かに入ってきた。


 娘の手にある手紙を見ても、読もうとはしなかった。


 ただ、そばへ来て、肩を抱いた。


 その腕に触れた途端、澪の顔が歪んだ。


「……まだ」


 ようやく出た声は、幼い子どものようだった。


「何も、言っていなかったの」


 クララは娘を抱き寄せた。


 澪は母の肩へ額を押し当て、初めて声を漏らして泣いた。


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