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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第六十九章 署名する手



 ユリアンから届いた図面は、約束より一日早かった。


 澪は封筒を開く前に、表を見た。


 ミレイア・ヒイラギ殿。


 見慣れた筆跡だった。


 中には貯蔵槽の配置図と、必要な資材の一覧、見積もりが入っていた。別紙に、彼の文字があった。


『灯具に不具合があれば、お知らせください。


 舟の重りは、外せるようにしてあります』


 澪は最後の一行を、もう一度読んだ。


 彼女が何も返事をしなかったことを、責める言葉ではなかった。


 そのために、余計に胸が痛んだ。


 引き出しを開けた。


 出さなかった手紙は、そこにあった。


『今度は、あなたと一緒に――』


 続きのない文章を見てから、澪は引き出しを閉めた。



 会議で、ユリアンは彼女の向かいに座った。


 隣ではなかった。


 席は書記が用意したもので、彼が選んだわけではない。それでも澪は、図面を覗き込むときに、その距離を感じた。


「最初の精製設備では、主に灯油を取り出します」


 彼は図を示した。


「重い部分は、機械の潤滑に使えるか調べる。さらに残るものにも用途はあると思いますが、今は売り先を見込まない方がいい」


「軽い方は?」


 幹部の一人が尋ねた。


「別に貯めます」


「売れないものを、わざわざ容器と場所を使って?」


「混ぜれば、灯油まで危険になります」


 澪は書記へ頷いた。


「分けて保管する費用は、削らないでください」


 ユリアンが彼女を見た。


 ほんの短い視線だった。


 意見が一致したことを確かめただけかもしれない。


 澪は次の頁をめくった。


「灯油は、出荷する容器ごとに印をつけます。どの釜から出たものか、戻って調べられるようにしたいの」


「販売所にも、同じ帳簿を?」


「はい。混ぜたり、薄めたりしたものを、同じ名前で売らせないためです」


 父が指先で机を叩いた。


「販売所を持たず、契約で縛る方法もある」


「初めは、それでもいいわ。ただし、調べに入れること。扱い方を守らない店へは、供給を止められること」


 ユリアンのペンが止まった。


「供給を止める条件は、書いておいた方がいい」


「もちろん」


「値引きの要求を断ったから止める、ということには?」


 幹部が顔を上げた。


 澪は彼を見た。


「安全上の契約の話をしているのよ」


「ええ。ですから、その範囲を明らかにしておきたい」


 声は穏やかだった。


 澪は少し間を置いてから、書記へ言った。


「停止の理由を文書で通知すること。異議があれば、商館の責任者以外の者が確認する。その条項を加えて」


 ユリアンは頷き、また書き始めた。


 澪は、その手を見ていた。


 自分に向けられた言葉を、彼がいつまでも変えずにいてくれたらと思った。


 同時に、父や幹部の前で疑われるのは、少し辛かった。


    


 会議のあと、二人は廊下で並んだ。


「舟は、どうでしたか」


 ユリアンが尋ねた。


 澪は、用意していなかった問いに顔を上げた。


「真っすぐ進んだわ」


「よかった」


「返事をしなくて、ごめんなさい」


「図面を急いでほしいとありましたから」


 彼は笑った。


 澪には、その笑顔の奥が分からなかった。


「母も、あなたにお礼をと」


「私からも、夕食のお礼をお伝えください」


「また、いらして」


 今度は言えた。


 しかしユリアンが返事をする前に、廊下の奥で家令が立ち止まった。


「お嬢さま。旦那さまがお呼びです。宮殿の方々がお着きになりました」


 澪は、ユリアンを見たまま動けなかった。


 彼の視線が、家令へ移った。


 それから、彼は革筒を持ち直した。


「では、失礼します」


「今のお話は――」


「お忙しい時期でしょう。また、落ち着かれてから」


 彼は礼をした。


 澪は、その場から呼び戻せなかった。


    


 宮殿から来たのは、侍従と、法務を担う役人と、ヴァレク伯爵だった。


 伯爵は彼女の前で、以前と同じように微笑んだ。


「ご事業が順調に進んでいると伺いました」


「設備の建設は、これからです」


「殿下も、大いに期待しておいでです」


 澪は父の隣に座った。


 卓上には、まだ白紙の多い婚姻の取り決めがあった。


 皇太子は、この席にはいなかった。


「まず、ご令嬢におかれましては、皇族としてのお務めを優先していただくことになります」


 役人が読み上げた。


 澪は文書を見た。


 住まい。


 随員。


 宮中での席次。


 歳費。


 そして、財産。


「婚姻後の事業収益は、皇室財産へ繰り入れるとありますが」


「皇太子妃としてのお立場を考えれば、自然な扱いかと」


 澪は頁を戻した。


「私の出資持分だけですか。それとも、事業そのものを?」


「その点は、今後、協議を」


「今、伺っています」


 役人が伯爵を見た。


 伯爵は、静かに口を開いた。


「宮廷と民間の事業との間に、疑いを生まぬためです。皇族が商取引へ直接関与するとなれば、特別な便宜を求めていると受け取られかねません」


「では、皇室が所有すれば、その疑いはなくなるのですか」


「管理を一本にできる」


 暁人が、そこで初めて話した。


「管理するのは、どちらです」


 伯爵は父を見た。


「もちろん、皇室の規定に従い――」


「ならば、娘の婚姻に添えて、事業の支配権を渡す話になる」


「柊殿。少し、言葉が強すぎるのでは」


「意味を確かめております」


 部屋が静かになった。


 澪は父の手を見た。


 握られてはいなかった。


 卓上の書類を、指先で押さえていた。


     


 その日の協議は、結論を出さずに終わった。


 客が帰ると、暁人は窓を開けた。


「断るか」


 背を向けたまま言った。


 澪は書類を揃えていた。


「この条件は、断るわ」


「婚姻の話だ」


 彼女の手が止まった。


「まだ、殿下のお考えを聞いていない」


「聞けば、変わるのか」


「分からない」


 暁人は振り向いた。


「お前は、何を得たい」


 澪は父を見た。


「宮廷に入りたいのか。殿下と暮らしたいのか。油を売るための保証が欲しいのか」


 彼女は答えなかった。


 どれか一つなら、簡単だった。


 皇太子には、親しさを感じていた。


 だが、彼の顔を思い浮かべて夜を過ごしたことはなかった。


 宮廷の力があれば、港の交渉も、輸送の取り決めも変わる。そのことを考えなかったと言えば嘘になる。


 そして、父の名だけで扉が開く場所から、自分の立場で扉を開く場所へ行きたい気持ちもあった。


「分からないなら、急ぐな」


 父は言った。


「向こうが急ぐ理由まで、お前が背負うことはない」


     


 数日後、澪は皇太子に会った。


 婚姻の取り決めを、彼も読んでいた。


「父の代からある書式を使ったと言われた」


 彼は紙を机へ置いた。


「あなたに、そのまま受け入れてほしいとは思っていません」


 澪は、少し息を吐いた。


「ありがとうございます」


「ただし、一つ尋ねたい」


「はい」


「あなたは、結婚しても、今と同じように仕事を続けたいのですか」


 澪は彼を見た。


「同じようには、できないでしょう」


「それは分かっている」


「でも、私が何を残し、何を人へ委ねるかは、自分でも考えたいのです」


 皇太子は椅子の背へ身を寄せた。


「私の妻が、議会で審議される事業の持分を持つ。軍へ売る品の値を決める。反対する者は出る」


「はい」


「あなたを守るためにも、仕事から離れてもらう方がよいのではないかと、私も考えた」


 澪の表情が変わった。


 彼はそれを見て、口を閉じた。


「私の安全だけを考えて、そうおっしゃるのですか」


 長い沈黙があった。


 やがて皇太子が答えた。


「それだけでは、ないのだと思う」


 澪は、机の上の紙へ目を落とした。


「私が、あなたへ相談しなければならなくなることを、恐れてもいる」


 彼は続けた。


「柊家の資金がなければ進まない仕事がある。その家の娘を妻に迎える。人は、私よりあなたの言葉を先に聞こうとするかもしれない」


 澪は顔を上げた。


 皇太子の声は低かった。


「昨夜、そのことを考えていた。考えている自分が、あまり好きではなかった」


 彼を軽蔑することはできなかった。


 自分にも、似た恐れがある。


 ユリアンに、事業より先のものを見抜かれること。


 仕事で反対されたとき、私を大切に思ってはいないのかと、心のどこかで問うてしまうこと。


 皇太子は、澪の沈黙を待った。


「殿下がそうお話しくださったことを、私は嬉しく思います」


 彼女は言った。


「私も、何も恐れていないわけではありませんから」


     


 二人は、その日、答えを出さなかった。


 代わりに、何を先に決めなければならないかを話した。


 柊家の財産と、皇室の財産を混ぜないこと。


 彼女の持分を、婚姻によって自動的に移さないこと。


 軍や国との契約には、彼女が一人で関与しない仕組みを設けること。


 そして、柊家の経営を誰に、どの範囲まで委ねるか。


「私は、あなたを仕事の話にしか呼ばない夫には、なりたくない」


 帰り際、皇太子が言った。


 澪は扉の前で振り返った。


「でも、あなたが仕事をしている時間まで、私の方へ向けてほしいと願うことは、あると思う」


 彼は少し笑った。


「立派なことだけは、約束できそうにない」


 澪も、かすかに笑った。


「私もです」


 その答えは、嘘ではなかった。


     


 雨季が終わる頃、最初の精製所の建物が姿を現した。


 大きな工場ではなかった。


 釜と冷却の設備。


 分けて置かれた貯蔵槽。


 空の容器を調べる場所。


 作業員が油のついた服を着替える小屋。


 港から届く報告には、予定より遅れている箇所が幾つもあった。


 それでも、設備は一つずつ試され、直された。


 澪はその間、国内の二つの町に販売所を設けた。


 初めの月は、売る量を限った。


 灯具と油を一緒に渡し、使い方を説明した。苦情を受け取る帳面を置いた。


 高すぎるという声があった。


 煙が減ったという声もあった。


 以前の油と混ぜて使った者もいた。


 販売員が説明を省いたことも、帳簿から分かった。


 澪は帳簿を読み、工房へ持っていった。


 ユリアンは、売上の合計より先に、使い方を書いた欄を読んだ。


「ここです」


 彼は一行を指した。


「芯を上げすぎる方が多い。説明の仕方を変えた方がいい」


「また、売る量を減らすの?」


「今の人員で教えきれないなら」


 澪は疲れた顔をした。


「あなたに会うと、いつも何かを遅らせる話になるわ」


 ユリアンは彼女を見た。


「私に会うのが、嫌になりましたか」


「違うわ」


 即座に答えていた。


 彼は少し驚いた。


 澪は帳面へ視線を戻した。


「……違うの。ただ、今は、遅れが多くて」


「ええ」


 彼はそれ以上、尋ねなかった。


 尋ねてほしかったのかもしれないと、澪は思った。


     


 その夕方、工房の奥で、短い破裂音がした。


 澪は振り向いた。


 ユリアンは顔をしかめた。


「また、点火が早かったな」


「何の音?」


「試験用の機関です」


 奥の部屋には、小さな筒と、はずみ車が据えられていた。


 若い職人が、煤のついた頬を拭っていた。


「回ったか」


 ユリアンが尋ねた。


「二度だけです。次で、逆に押し返されました」


 澪は器具へ近づいた。


 ユリアンが腕を出して止めた。


「触らないで。まだ熱い」


 彼女は、その腕の近さを意識しながら、筒を見た。


「蒸気ではないのね」


「筒の中で、燃料を燃やします。燃えたものが膨らむ力で、押す」


「何を燃やしているの?」


 ユリアンは、棚の小瓶を見た。


 澪にも、見覚えがあった。


 最初に、扱いに困ると言われた、軽い留分だった。


「今は、ごく少量だけです。混ぜ方も、火をつける時刻も、安定しません」


 彼は図面を開いた。


「熱が逃げなければ傷む。油が足りなければ擦りつく。燃料が多すぎても、少なすぎても止まる」


「動くまで、どれくらい?」


「分かりません」


 澪は笑った。


「そう言うと思った」


 職人が、はずみ車を慎重に回した。


 何も起きなかった。


 もう一度、調整する。


 小さな音がして、軸が跳ねるように動いた。


 今度は、数回続いた。


 それから止まった。


 部屋に、焦げた匂いが残った。


 澪は動かなくなった車輪を見た。


「これが、車を動かすの?」


「いつかは」


 ユリアンが答えた。


「機関だけでは走りません。動いても、すぐ止まるかもしれない」


 彼女は、もう聞いていた。


 機関の向こうに道が見えた。


 港から町へ。


 駅から離れた村へ。


 油を運ぶ荷車の、その先へ。


     


「この研究にも、出資するわ」


 帰り際、澪は言った。


 ユリアンは革筒を持ち上げかけて、止めた。


「条件を伺ってから、お返事します」


「私のお金では、不安?」


「出資者が誰でも、同じことを尋ねます」


「何を?」


「できたものを、誰が作れるのか。誰が使えるのか。私たちが研究を続けるために、毎回、許可が要るのか」


 澪は、彼を見た。


「ずいぶん、先の心配ね」


「動いてからでは、遅いこともあります」


 彼女は窓の外へ目を向けた。


 迎えの馬車が待っていた。


 御者のそばに、家の従者が立っている。


 この工房へ来るときも、帰るときも、彼女は一人ではなかった。


「あなたは、私に従うつもりはないのね」


 ユリアンの表情が変わった。


 澪は、自分の声が思ったより寂しく響いたことに気づいた。


「研究の話ですか」


 彼は尋ねた。


「……ええ」


 ユリアンは少し黙った。


「一緒に仕事をしたいとは、思っています」


 澪は彼の顔を見た。


 その言葉を、別の意味で受け取りたかった。


 けれど、彼は彼女が選んだ答えに、誠実に返していた。


「条件を、書いてくるわ」


 彼女は言った。


「私も、考えておきます」


     


 家に戻ると、書斎に新しい書類が届いていた。


 皇室側からの、修正案だった。


 婚姻による事業持分の移転は、取り下げられていた。


 いくつもの制限は残っていた。


 それでも、最初の紙とは違った。


 別の封筒に、皇太子の手紙があった。


『あなたが何を望んでいるか、私には、まだ分からないことが多い。


 分からないまま決めることだけは、避けたいと思っています』


 澪は、その手紙を机へ置いた。


 引き出しを開けた。


 ユリアンへ出さなかった手紙があった。


 二枚を並べてみた。


 一方の人は、彼女の返事を待っている。


 もう一方の人には、問いさえ渡していなかった。


 階下で、父を呼ぶ声がした。


 廊下を、書記が急いでいく。


 港の工事は続いている。


 精製所では、油が分けられている。


 工房の奥には、まだ数回しか回らない車輪がある。


 そのどれもが、彼女の決定を待っていた。


 澪は白い紙を取り出した。


 しばらく、ペン先を見つめていた。


 それから、婚姻の修正案について、皇太子へ返事を書き始めた。



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