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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第六十八章 呼んでほしい名



 澪は、夕食の献立を二度尋ねた。


 一度目は、午後の会議が終わったあとだった。


 二度目は、着替えを手伝う侍女が、寝室の扉を閉めようとしたときだった。


「今夜の魚は、どう調理するのだったかしら」


「香草を添えて、焼くと伺っております」


「そう。骨は?」


「厨房で、大きなものは取り除くかと」


「……そうね」


 侍女が下がると、澪は鏡へ向き直った。


 濃い色の服では、仕事の続きをするように見える。


 白では、待っていたように見えるかもしれない。


 結局、淡い緑の服を選んだ。袖に飾りは少なく、工房で図面を覗き込んでも邪魔にならない。


 そう考えてから、今夜は工房へ行くのではなかったと思い直した。


 ユリアンが、この家へ来る。


 港の安全設備と、精製所の設計について、父へ説明するためだった。


 夕食にも同席していただきましょうと言ったのは、クララだった。


 澪はその場で、さりげなく頷いたつもりだった。


     


「その耳飾りは、つけないの?」


 クララが尋ねた。


 澪は鏡台の小箱へ目を落とした。


「仕事のお話もあるから」


「耳飾りが、聞き取りの邪魔をする?」


「お母さま」


 母は何も言わず、娘の肩へ落ちた髪を整えた。


 澪は鏡の中の母を見た。


「……工房では、いつも同じような服を着ているでしょう」


「ええ」


「だから、あまり違っても」


「誰が驚くの?」


 澪は返事の代わりに、小箱の蓋を閉じた。


 クララは、それ以上尋ねなかった。


 ただ、部屋を出る前に振り返った。


「今夜、あなたはお客さまに説明をする側ではないのよ」


「分かっているわ」


「でしたら、少しは食べてね」


     


 ユリアンは約束の時刻より早く来た。


 書類を濡らさないための革筒と、細長い木箱を抱えていた。


 玄関で迎えた澪を見て、一瞬、足を止めた。


 彼女はその一瞬に気づいた。


 何か言ってくれるかもしれないと思い、次に、そんなことを待っている自分を恥ずかしく思った。


「ミレイア嬢」


 彼は礼をした。


 澪の胸に浮かんだものが、静かに沈んだ。


「こちらへ。父は、まだ書斎です」


「少し早く着きすぎました」


「構わないわ」


 彼女は木箱を見た。


「何をお持ちになったの?」


「灯具です。改良したものを、一つ」


「父に?」


「クララ夫人に。夜、書き物をなさると伺ったので」


 澪は歩みを緩めた。


「私が、話したのだったかしら」


「帰りが遅いと、灯りをつけて待っていらっしゃると」


 何週間も前、工房で交わした短い話だった。


 彼が覚えていたことが、嬉しかった。


 母のための贈り物であることまで、嬉しかった。


     


 食卓で、クララは灯具の礼を言った。


「私が使っても、大丈夫なの?」


「使い方をご説明します。試験した油だけを入れてください。別のものを混ぜずに」


「澪も同じことを言うわ」


「ミレイア嬢の方が、今は厳しいかもしれません」


「そうなの」


 クララは娘を見た。


 澪は魚を切っていた。


「一度、事故があったのだから」


「ええ」


 母は頷き、それからユリアンへ尋ねた。


「お食事は、いつも工房で?」


「遅くなる日は、そうです」


「何を召し上がるの」


「近くの店で買ったものを」


「温かいもの?」


 ユリアンが少し困った。


 澪は口を挟んだ。


「買ったときは、温かいのよ」


「あなたも、ご一緒しているの?」


「時々」


 父が顔を上げた。


 澪は皿へ目を戻した。


「試験が終わらないときには」


 ユリアンが真面目に付け加えた。


「次からは、食事の時間を決めます」


「そうしてください」


 クララは言った。


「この子、自分が空腹だと気づく前に、機嫌が悪くなるの」


「お母さま」


 ユリアンが笑った。


 声を立てて笑うところを、澪はあまり見たことがなかった。


 腹が立つはずだった。


 けれど、その顔を見ていたくて、すぐには抗議できなかった。


     


 父の前で、ユリアンの話し方は変わらなかった。


 分かっていないことは、分からないと言う。


 費用を削れないかと問われれば、何が削れ、何を削れば危険が増すのかを説明する。


「貯蔵槽を分けるだけで、これだけ増えるのか」


 暁人が図面を見た。


「一つが燃えたときに、全部を失わないためです」


「これで防げるか」


「被害を小さくする見込みはあります。ただし、配管も操作も同じままなら、槽を分けただけでは足りません」


 澪は父の向かいに座り、二人のやり取りを聞いた。


 自分が書き加えた数字を、ユリアンの指が辿った。


「こちらは、ミレイア嬢が確保してくださった費用です。港で働く者への訓練に使います」


 父が娘を見た。


「人が替わるたびに、教え直すのか」


「ええ」


 澪は答えた。


「一度説明したから分かっている、では済まないわ」


 暁人はもう一度、図面へ目を落とした。


 やがて、承認を示す短い言葉を口にした。


 澪は安堵した。


 隣でユリアンも、小さく息を吐いた。


 その息が聞こえるほど近くに座っていることに、今さら気づいた。


     


 食後、父は届いた電報を読むため書斎へ戻った。


 クララは灯具を試してみたいと言い、ユリアンを居間へ案内した。


 彼が芯の調整を説明すると、母は何度か自分で手を動かした。


「こちらを回しすぎないのね」


「はい。炎が高ければ良いわけではありません」


「澪にも教えてあげて」


「私は使えるわ」


 娘が言うと、クララは笑った。


「では、任せるわ。私、少し厨房へ行ってまいります」


 扉が閉まった。


 母の足音が遠ざかる。


 居間に残ったのは、二人と、まだ新しい灯りだけだった。


 ユリアンは木箱の中の布を畳んでいた。


 澪は、自分の膝の上にある手を見た。


 工房なら、何も考えずに話せた。


 納期でも、費用でも、壊れた弁でもいい。尋ねることは幾つもあった。


 今夜、そのどれも話したくなかった。


「……母の灯りを、ありがとう」


「お気に召したようで、よかったです」


「ええ」


 また、黙った。


 ユリアンが顔を上げた。


「何か、ありましたか」


「いいえ」


「お疲れですか」


「少し」


「では、私はそろそろ」


「まだ、いいの」


 思っていたより強い声が出た。


 ユリアンの手が止まった。


 澪は窓の方を見た。


「雨が、降りそうだから」


 降っているのではなかった。


 雲が低いだけだった。


「馬車をお借りできます。ご心配なく」


 彼は穏やかに言った。


 そうではない、と言いたかった。


 帰れなくなる理由を探しているのだと、分かってほしかった。


 分かられてしまえば困るとも思った。


     


「このお部屋は、昔から?」


 ユリアンが尋ねた。


「ええ。小さい頃は、あの窓の下で遊んでいたわ」


 彼は窓辺の低い棚を見た。


 棚の奥に、小さな木の舟があった。


「澪の?」


 彼女は顔を上げた。


 今、彼は自然に呼んだ。


 工房で初めて教えた名を。


「……ええ」


 ユリアンは、それ以上何も気づいていないようだった。


「走るのですか」


「水に浮かぶだけよ。父が作ってくれたの」


 澪は棚から舟を取った。


 帆柱が少し傾いている。


「何度直しても、同じ方へ曲がるの。私は、もっと真っすぐ走る舟を作ってほしかった」


「船底を見ても?」


 彼女は手渡した。


 指先が触れた。


 それだけで、次に言おうとしていたことを忘れた。


 ユリアンは舟を裏返し、底を眺めた。


「こちらが、少し重い」


「今なら、直せる?」


「たぶん。でも、お父上に叱られそうだ」


「どうして」


「子どもの頃のものを、勝手に削ったら」


 澪は笑った。


 彼も笑った。


 こんなふうに、何の役にも立たないものを二人で眺めていられたらと思った。


 彼が仕事を終えて、この部屋へ帰ってくる。


 自分はその日のことを話す。


 困った顔をされ、言い返し、母のように食事が冷めると叱る。


 そこまで思い浮かべて、澪は舟を受け取った。


 胸の内が顔に出ていないか、急に怖くなった。


     


 居間の扉が叩かれた。


 家令が入ってきた。


「お嬢さま。宮殿より、お使いが」


 澪の手の中で、舟の帆が揺れた。


「今?」


「明日のご予定を、直接お確かめしたいとのことでございます」


 銀盆の上に封筒があった。


 皇太子の紋章だった。


 ユリアンは舟から目を離し、静かに立ち上がった。


「では、私はこれで」


「少し待っていて。返事だけだから」


「いえ。遅くまで失礼しました」


 声が変わっていた。


 食卓で使っていた、丁寧な距離へ戻っていた。


 澪は立ち上がった。


「ユリアン」


 彼は振り向いた。


 引き留めるための言葉が出てこなかった。


 明日、工房へ行くと言えば、仕事の約束になる。


 また夕食に来てと言えば、父の説明が必要になる。


 あなたがいると嬉しい。


 ただそれだけを言うのに、家の中にある何もかもが、先に目へ入った。


 父の肖像。柊の印がついた書類箱。宮殿からの封筒。


「……図面の写しを、忘れないで」


 彼は机の上の革筒を取った。


「ありがとうございます、ミレイア嬢」


     


 翌日の午後、皇太子は修理の終わった噴水の前で待っていた。


「ようやく、水が出ました」


 少し誇らしそうに言った。


 澪は噴き上がる水を見た。


「お確かめになったのですか」


「今朝、管を直した職人に会えた。あなたに教えられた通り、説明を書いた者とは別の者に聞いた」


「どうでした?」


「割れた管を見せられました。修理の報告書より、短く済んだ」


 澪は微笑んだ。


 皇太子も、彼女の表情を見て少し安心したようだった。


「事故の報告を読みました」


「お目にかけるべきか、迷いました」


「なぜ?」


「まだ、何一つ安定しておりませんので」


「安定したものだけ見せられる方が、困る」


 その答えに、澪は彼を見た。


 皇太子は手袋を外した。


「怪我をした二人は?」


「治療を受けています。一人は、まだ腕を動かせません」


「そうですか」


 彼は目を伏せた。


 すぐに励ますことも、事業の将来へ話を戻すこともしなかった。


 澪は、その沈黙に少し救われた。


     


 庭園の奥の小さな部屋で、茶が出された。


 皇太子は、石油の図面を取り出さなかった。


 代わりに、昨夜の食事について尋ねた。


「ロシュフォール氏が、あなたのお宅へ?」


 澪の指が、受け皿の縁に触れた。


「設備の説明に参りました」


「技師なのですね」


「はい」


「あなたが、随分信頼していると聞きました」


「必要なことを、隠さず話してくださいます」


 皇太子は頷いた。


「そういう者は、そばに置いておくべきだ」


 澪は杯を持ち上げた。


 口をつける前に、香りだけを吸った。


「殿下にも、いらっしゃいますか」


「昔は」


 彼は窓の外を見た。


「一緒に学んだ者がいた。私より計算が速く、剣は下手だった。私が負けたときだけ、嬉しそうな顔をした」


「今は?」


「地方へ赴任している。手紙は来るが、近頃は、文章が父親に似てきた」


 澪は小さく笑った。


「殿下も、変わられたのでは」


「そうかもしれない」


 彼は、その可能性を嫌がらなかった。


 彼と話すとき、澪は時々、皇太子という身分を忘れた。


 彼もまた、それを望んでいるように見えた。


 けれど扉の外には、必ず誰かがいた。


     


「一つ、先に話しておきたいことがあります」


 皇太子が言った。


 澪は杯を置いた。


「私たちの婚姻について、議論が始まっています」


 部屋の中の音が、急に遠くなった。


 澪は彼を見たまま、動かなかった。


「まだ、決まったことではない」


 彼は続けた。


「あなたの家へ正式な話が行く前に、知らせたかった」


「……殿下は、どうお考えですか」


 皇太子は、今度はすぐに答えなかった。


「あなたと話す時間を、私は楽しみにしている」


 澪の胸が痛んだ。


 その言葉が、打算だけではないと分かったからだった。


「ですが、私がお尋ねしているのは――」


「分かっています」


 彼は手袋を机へ置いた。


「あなたの資金と、事業を求める者がいる。それを、知らないふりはできない」


「殿下ご自身も?」


「国庫を案じている。軍の輸送も、港の整備も必要です。あなたの家が助けになっていることは、否定できない」


 澪は俯いた。


 皇太子は、綺麗な言葉だけで覆おうとはしなかった。


 だからこそ、安易に嫌うことができなかった。


「それでも、私は、あなたとなら話ができると思った」


 彼は言った。


「それが私だけの思い込みなら、教えてほしい」


 澪は唇を開いた。


 話せる。


 それは本当だった。


 彼の孤独も、少しは分かる。


 彼が、自分を単なる持参金と見ていないことも。


 けれど、その先の答えを口にすれば、ユリアンの名前を、自分の胸の中でどう扱えばいいのか分からなかった。


「お時間を、いただけますか」


「もちろん」


 皇太子は頷いた。


 安堵したようにも、傷ついたようにも見えた。


     


 家へ戻ると、父が待っていた。


 もう、知っていた。


 澪は外套を脱ぎ、椅子へ座った。


「お父さまは、望んでいらっしゃるの?」


「俺の望みを聞く前に、お前はどうなんだ」


「家の話をしているのよ」


「俺もだ」


 澪は父を見た。


 暁人は机へ両手を置いた。


「皇室との婚姻が、柊家に何をもたらすかは分かっている。得るものも、失うものもある」


「では、私が断ったら?」


「断る理由を作る」


「宮廷の機嫌を損ねても?」


「婚姻でしか守れない会社なら、先に会社の方を考え直す」


 澪は、息を止めた。


 父は視線を外した。


「……ただし、受けるなら、家の仕事をそのまま持ち込めると思うな。資産も、人事も、権利も、どこまで皇室から切り離せるか、先に決める」


 澪は頷いた。


 父は、断れと言わなかった。


 受けろとも言わなかった。


 初めて与えられたその余地に、彼女は立ち尽くした。


     


 夜、クララが部屋を訪ねると、澪は机の前にいた。


 白い紙を一枚、広げていた。


「お返事?」


「まだ、書けないわ」


 母は隣に座った。


 しばらく、二人で紙を見た。


「殿下は、お優しい方?」


「ええ」


「あなたの話を、聞いてくださる?」


「聞いてくださるわ」


 澪はペンを置いた。


「だから、困るの」


 クララは娘の横顔を見た。


「嫌な方だったら、よかった?」


「そんなことを思うのは、ひどいでしょう」


「思ったことまで、叱れないわ」


 澪は下を向いた。


 母の前なら、言えると思った。


 好きな人がいる。


 その人に、自分の名を呼ばれるだけで、何も考えられなくなる。


 会えない日は、工房から届く報告の筆跡を先に探す。


 昨夜は、帰ってほしくなかった。


 言葉は、胸の中では簡単だった。


「……私が誰かを選んだら」


 ようやく、そこまで言った。


「その人も、柊家のことを考えなければならなくなるのね」


 クララは答えを急がなかった。


「ええ。何も変わらないというわけには、いかないでしょうね」


「仕事で失敗したら、私のせいで隠してもらったと言われるかもしれない。成功したら、私に気に入られたからだと」


 母は娘の手を取った。


「もう、その人の心配をしているのね」


 澪は、何も言わなかった。


 その沈黙で、十分だった。


     


 翌朝、工房から小さな包みが届いた。


 中には、木の薄片と、短い手紙が入っていた。


『舟を削らずに、試せるものを作りました。


 船底の軽い方へ、糸で結んでみてください。重すぎるようなら、少しずつ薄くできます。


 ユリアン』


 澪は、窓辺の舟を取った。


 手紙に書かれた通り、薄片を結んだ。


 水盤へ浮かべると、舟は以前より真っすぐに進んだ。


 端に当たり、静かに止まった。


 澪はもう一度、反対側から浮かべた。


 同じように進んだ。


 彼は、あの夜の話を覚えていた。


 自分が帰ったあとも、この舟のことを考えてくれた。


 彼女は濡れた指を布で拭き、机へ戻った。


 返事を書いた。


『ありがとう。今朝、試しました。真っすぐ進みました。


 今度は、あなたと一緒に――』


 ペンが止まった。


 一緒に、何をするのだろう。


 この家で、舟を浮かべる。


 食事をする。


 昨日のように、名前を呼んでもらう。


 彼にとっては、小さな親切だったのかもしれない。


 自分だけが、そこへ暮らしの続きを描いていた。


 澪は紙を折り、引き出しへしまった。


 新しい紙を出した。


『改良した灯具は、母が毎晩使っております。


 貯蔵槽の図面を、明日の会議までにお送りください。


 ミレイア・ヒイラギ』


 署名を終えたあと、彼女はしばらく、その名を見ていた。


 窓辺の水盤で、小さな舟が、縁に触れたまま浮かんでいた。


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