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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第六十七章 油の下にあるもの



 ヴァレク伯爵の名が記された報告書を、澪は父の机へ戻した。


「昨夜の申し出は、ご親切だけではなかったのね」


 暁人は書類から顔を上げなかった。


「親切が含まれていたかどうかも、まだ分からない」


「私に採取権の保証を与えて、ご自分の土地から油を買わせるつもり?」


「土地を買えれば、そうするだろうな」


「皇室の名前で?」


「本人は、皇室のためだと言うだろう」


 澪は椅子に座った。


 怒りはあった。しかし、それを見せるために父の書斎へ来たのではなかった。


「どこまで買えているの?」


「そこまでは、まだ分からん」


「では、私が行くわ」


 父のペンが止まった。


「バフラーンへ?」


「採取地を見たい。権利を持っている人にも会いたい」


「人を送ればいい」


「送った人の説明を、私がここで聞くことになるでしょう」


「そのために、金を払っている」


「私が何を尋ねるべきか分からなければ、報告が正しいかどうかも分からないわ」


 暁人は、しばらく娘を見た。


「皇太子の次の招待は、どうする」


「まだ来ていないわ」


「来る」


「では、お断りする。旅の支度をしているとお伝えして」


「澪」


「殿下は、地面の油をどこへも運んでくださらないでしょう」


 父は眉を寄せた。


 澪は言い直した。


「……今、私が会わなければならないのは、あちらの人たちよ」


 暁人は椅子へ背を預けた。


「護衛はこちらで選ぶ。現地の通訳も、商館任せにはしない。契約は、その場で決めるな」


「最後の一つは、約束できない」


「なら、行かせられん」


 澪は、父の机の上を見た。


 運賃表。橋梁の修繕費。株主への説明。遠い土地から届いた何通もの電報。


「お父さまも、最初から全部を知って出かけたのではないでしょう」


 父の顔が硬くなった。


 澪は言葉を続けかけて、やめた。


 その沈黙のあと、暁人が引き出しを開けた。


 薄い革の帳面を出した。


「土地を買う前に、読んでおけ」


「何の記録?」


「鉄道を通したときの、移転と補償だ」


 澪は帳面を受け取った。


 開くと、金額の脇に、人の名が書かれていた。


 鉛筆で何度も直された数字もあった。


「事業の費用には、線路の値段しか入っていないわけではない」


 父は言った。


「それを忘れた奴は、あとで高く払う」


     


 ユリアンは、同行の申し出にすぐ頷かなかった。


「こちらの試験が残っています」


「採っている場所を見た方が、調べやすいのではない?」


「それは、そうです」


「では、お願い」


「現地で、何ができるとお考えですか」


 澪は答えを選んだ。


「地面の下に、どれくらいあるか」


「分かりません」


「見ても?」


「地表へ滲み出ている量だけで、地下にある量は決められません」


「掘る場所は?」


「地層や周囲の湧出を調べて候補は選べます。掘っても出ないかもしれない」


「あなたは、出資者を安心させるのが下手ね」


「安心したいなら、別の技師をお連れください」


 澪は、工房の窓へ目をやった。


 乾かしている部品の向こうに、星司の名が入った古い図面が掛けられていた。


「叔父さまは?」


「今回は行かれません。記録を持ち帰るようにと」


 ユリアンは荷造り用の箱を足元へ寄せた。


 澪がそれを見た。


「もう、準備していたの?」


「断れると思っていたのですか」


「今、断っていたでしょう」


「できないことを、先に申し上げたんです」


 彼女は笑った。


「分かったわ。では、できることを頼みます」


     


 バフラーンの港は、潮と獣脂と、干した魚の匂いがした。


 船から降りると、荷揚げの順番を待つ商人たちが、日除けの下で言い争っていた。埠頭の一部は傷み、大きな樽を運ぶ荷車が遠回りをしている。


 澪は、案内の役人より先に足元を見た。


「この板は、いつ直すのですか」


 通訳が言葉を伝えると、役人は苦笑した。


 来月。


 次の徴税のあと。


 職人が揃えば。


 説明を聞きながら、澪は隣にいるユリアンへ囁いた。


「宮殿の噴水と同じね」


「何です?」


「修理を待っているの」


「こちらは、待っている間に人が落ちます」


 実際、壊れた箇所の下には、潮水が見えていた。


 澪は帳面を開いた。


 油について書くはずだった最初の頁に、埠頭の修繕、と記した。


     


 丘陵まで、馬車で三日かかった。


 途中から道が細くなり、荷を減らして馬へ移した。雨季には渡れなくなるという川には、低い木橋が架かっていた。


 ユリアンは橋の手前で降りた。


「この荷車を、そのまま渡すのはやめましょう」


 御者が不満を言った。


 通訳が間に入り、結局、器具の箱を人が一つずつ運んだ。


 澪も小さな箱を持った。


「それは、お持ちいただかなくても」


「あなたが二度戻るより、早いでしょう」


 橋の中央で、足元がわずかに沈んだ。


 彼女は笑うのをやめた。


 油を採っても、この橋を渡れない。


 港に着いても、埠頭で積めない。


 父の机で引いた線は、現地では何度も途切れていた。


     


 採取地では、黒い油が岩の間から滲み出ていた。


 浅い窪みに溜まり、表面に薄い光を浮かべている。


 土地の男が棒を差し入れ、引き上げた。


 重い滴が、ゆっくり落ちた。


「昔から、ここに?」


 澪の問いを、通訳が伝えた。


 男は頷いた。


 舟の目止めに使う。


 皮膚についたものは落ちにくい。


 家の灯りに使うと、女たちが嫌がる。


 ユリアンは周囲を歩き、岩肌と水の流れを見た。採った試料に、場所と時刻を書いた札をつけた。


 澪は丘の下を見た。


 小さな集落があった。


 畑の間を、子どもが水桶を持って歩いていた。


「あちらの井戸が、使えなくなったの?」


 男は少し黙った。


 それから、案内の役人を見た。


 役人が何か言う。


 通訳は、言葉を選んでいた。


「油の件とは、まだ確かではないと」


 澪は子どもの方を見た。


「では、水を見せていただきたいわ」


     


 村の女たちは、最初、彼女を家へ入れなかった。


 柊の紋章がついた馬具を見ていた。


 役人を見ていた。


 澪は戸口で待った。


 やがて年配の女が、欠けた椀を持ってきた。


 水面に、薄い膜があった。


「飲んでいたの?」


 通訳が尋ねると、女は早口になった。


 家畜が嫌がる。


 煮ても匂いが残る。


 丘の向こうまで汲みに行くので、半日仕事になる。


 役人が口を挟んだ。


 女は黙った。


 澪は役人を見た。


「何とおっしゃったのですか」


「大げさに話すなと」


 通訳が答えた。


 役人の顔が変わった。


 澪は椀を返した。


「井戸を調べたいのですが、許していただけますか」


 今度は、女に向かって言った。


 返事が来るまで待った。


     


 その夜、商館に集まった土地の権利者は、七人いた。


 油の出る丘の所有者。


 丘へ至る道を管理する家。


 水路を共同で使う村の代表。


 連邦から徴税を任されている者。


 そして、ヴァレク伯爵の出資する商会と、既に仮契約を結んだ男。


「土地を売れば、そこから出るものも売ったことになる」


 その男は言った。


 村の代表が反論した。


 通訳が追いつかない速さで、声が重なった。


 澪は、机に広げられた地図を見た。


 境界線が三本、同じ場所を通っていた。


 父の帳面に、人の名が多かった理由が、少し分かった。


「皆さまへ、一つずつ伺います」


 彼女は言った。


「今、お持ちの権利は、油を採ることまで含んでいますか。それとも、地面を使う権利ですか」


 男たちは顔を見合わせた。


 そんな区別はない、と一人が答えた。


「では、今、決める必要があります」


 澪は、用意してきた契約書を脇へ置いた。


「私どもは、丘を買い上げる申し出を、いったん取り下げます」


 父の商館長が、隣で身じろぎした。


「お嬢さま」


「代わりに、期限を決めて試掘する権利を求めます。出た油の量に応じて、お支払いする。井戸と畑に損害が出れば、調査と補償を行う」


「出なければ?」


「試掘の間、土地を使った分を払います」


「どれほど掘る?」


 澪はユリアンを見た。


 彼は地図へ指を置いた。


「まず、地表と地層を調べます。そのあと、一か所。深さも、設備に合わせて上限を決める。出るまで掘り続ける契約にはできません」


 通訳が伝える間、澪は七人の顔を見た。


 金額を待つ者。


 村の代表の反応を見る者。


 既に受け取った前金を、どうするか考えている者。


 最後の男へ、彼女は尋ねた。


「先の商会との約束を、拝見できますか」


「お見せする理由はない」


「はい。無理には」


 澪は頷いた。


「ただし、その約束と重なる土地では、こちらは仕事を始められません。ほかの場所を調べます」


 男の指が、上着の胸へ動いた。


 そこに書類があるのだと、澪は思った。


     


 契約がまとまるまで、十一日かかった。


 七人が一度に署名することはなかった。


 村の代表は、水の調査へ村から立会人を出す条項を求めた。道の権利を持つ家は、荷車の往来で傷んだ場所の修繕を要求した。


 澪は受け入れた。


 一方で、試掘期間中に、同じ場所を別の商会へ貸さないことを求めた。


 売れる油が得られた場合には、次の採取契約を優先して協議する権利も加えた。


 村の井戸へ向かったユリアンが、夕方になって戻ると、彼女はまだ商館で交渉をしていた。


「ずいぶん、長い紙になりましたね」


 男たちが帰ったあと、彼は言った。


「短くすると、あとで違う意味になるの」


「読む側が、全部覚えられますか」


「写しを渡すわ。通訳にも、読み上げてもらう」


 ユリアンは契約書を見た。


「優先協議の期限が、長い」


「こちらが道を直し、器具を運び込むのよ。その翌月に、別の商会へ渡されては困る」


「分かります」


「では、何が気になるの?」


 彼は少し考えた。


「この人たちが、あなたの会社以外とも話せる余地です」


 澪はペンを置いた。


「話すことは禁止していないわ」


「話しても、売れない条件になることはある」


 彼女は彼を見た。


 疲れていた。


 十一日分の言い争いと、帰国を促す父からの電報と、増えていく費用が、机の上にあった。


「ユリアン。ここまで運んだ器具も、人の賃金も、誰かが払わなければならないの」


「ええ」


「私が払うには、回収できる見込みが必要なのよ」


「それも、分かっています」


 ユリアンは窓を開けた。


 夜風が入り、机の灯りが揺れた。


「だから、期限が来たら、本当に終わらせられる契約にしておきたい」


 澪は契約書へ目を落とした。


 優先協議の条項の余白に、小さく印をつけた。


「明日、もう一度話すわ」


 彼は礼を言わなかった。


 代わりに、隣の椅子へ座った。


「井戸の方は、明日から別の場所を掘れそうです。村の人が、昔、水の出ていた場所を教えてくれました」


 澪は、そこでようやく肩の力を抜いた。


     


 試掘は、帰国してからも続いた。


 最初の穴は、崩れた。


 次の穴では、水が出た。


 掘削管をつなぐねじが揃わず、現地で削り直した。ポンプの弁に砂が噛み、引き上げた油より、修繕に使った油の方が多い日もあった。


 澪は毎週、報告を受け取った。


 出た量。


 止まった時間。


 壊れた部品。


 次に必要な金。


 父の会社の幹部が、ある日、言った。


「地面から勝手に出てくるものを、これほど高く買うとは思いませんでした」


 澪は帳簿を閉じた。


「地面から港までは、勝手に動いてくれませんので」


「まだ、お続けになりますか」


「続けられるだけの資金は、分けてあります」


「鉄道への投資を減らしてまで?」


 会議室が静かになった。


 澪は父を見た。


 暁人は発言しなかった。


 彼女は幹部へ向き直った。


「今回は、私の持分と、同意してくださった出資者の資金です」


「柊の名前は、同じです」


「ええ。ですから、損失も隠しません」


 会議が終わると、父が娘を呼び止めた。


「次の送金で、いくら残る」


 澪は答えた。


 父は暗算した。


「もう一度、同じ遅れが出たら?」


「精製設備の建設を遅らせる」


「その次は?」


 彼女は黙った。


「そこまで、決めておけ」


 父は言った。


「やめる条件を、人に決められる前にな」


     


 油がまとまった量で汲み上がったという電報は、雨の夜に届いた。


 澪は何度も読み返した。


 勢いよく噴き上がったのではない。


 ポンプが止まらずに動き、貯めた槽へ、黒い液体を送り続けた。


 そのことが、短い文面で報告されていた。


 彼女はすぐに工房へ向かった。


 ユリアンは、同じ電報の写しを手にしていた。


「出たのね」


「出ました」


「売れる?」


「調べます」


 澪は笑った。


 今度は、彼も笑った。


「少しは、喜んでくださってもいいでしょう」


「喜んでいます」


「そうは見えないわ」


「では」


 彼は立ち上がり、彼女の両手を取った。


 澪は驚いて、言葉を失った。


「おめでとうございます、ミレイア」


 手袋越しにも、彼の指が温かかった。


 彼女はその手を、すぐには離さなかった。


「……家では、澪と呼ばれるの」


 ユリアンが彼女を見た。


「ミオ?」


「ええ」


 彼は、確かめるようにもう一度呼んだ。


「澪」


 その発音は、少しだけ違っていた。


 直してやろうと思ったが、やめた。


     


 最初の事故は、その二週間後に起きた。


 港の仮倉庫で、移し替えた油から出た蒸気に、近くの火が引火した。


 火は樽の外を走り、床にこぼれた油へ広がった。


 二人が火傷を負った。


 一人は、顔をかばった両腕をひどく焼いた。


 油を運んだ商人は、倉庫の主人が悪いと言った。


 倉庫の主人は、普通の灯油だと聞いていたと言った。


 保険の引受人は、契約書を示した。


 穀物、石炭、一般雑貨。


 そこに、その油の名はなかった。


 澪は報告書を読み終えると、書記へ言った。


「治療と、家族の生活費を送ってください。責任の話が決まるまで待たせないで」


「承知しました」


「港にある残りの荷は、移動を止めて。現地の商館長に、火気から離して、風通しを確保するよう伝えてください。詳しい扱いは、技師から送ります」


 書記が出ていくと、澪は机に両手をついた。


 ユリアンは向かいに立っていた。


「分けた油を、もう一度調べます」


「荷札には、灯油と?」


「そう書かれています。でも、工房で試したものと同じかは、分からない」


「分からないまま、運ばせたのね」


 彼は答えなかった。


 澪は目を閉じた。


 売る前だった。


 それでも、人は焼けた。


     


 翌週の会議で、澪は新しい費用を示した。


 採取したままの油と、精製した油を混ぜない。


 貯蔵槽を離して置く。


 漏れたものが水路や隣の倉庫へ流れ込まないよう、周囲を囲う。


 積み替えを担当する者を決め、油の種類と量を記録する。


 運搬に使う容器を揃える。


 保険の引受人には、火災の記録と試験結果を渡し、条件を作り直してもらう。


「そのために、専用の敷地を借りるのですか」


 幹部の一人が尋ねた。


「はい」


「船も、いずれ専用に?」


「他の荷と同じ場所に積めないなら、必要になります」


「売る前の費用が、増える一方です」


 澪は頷いた。


「増えます」


 反論が来ると思っていた男は、言葉を止めた。


 彼女は次の図面を広げた。


 港の敷地。


 精製所の予定地。


 貯蔵槽。


 そこから町へ運ぶ道。


「ですから、採取だけの会社にはしません」


 暁人が図面を見た。


「どこまで持つつもりだ」


「品質を確かめて、お客さまの手へ渡せるところまで」


「販売所までか」


「ええ」


 父の指が、地図の港に止まった。


 鉄道の線は、そこから内陸へ伸びていた。


 娘が描いた道は、その線を使い、途中で分かれ、線路の届かない町へ続いていた。


     


 会議の翌日、宮殿から使いが来た。


 皇太子は、小さな試験用の灯具を見たいと申し出ていた。


 澪はまだ持参できないと答えた。


 代わりに、港の事故と、出荷を止めている理由を書いた。


 その返書は、皇太子の執務室から、皇室財務の机へ回された。


 ヴァレク伯爵は、添付された事業図を広げた。


 油の出る丘陵だけではなかった。


 港があり、精製所があり、船があり、販売所があった。


 伯爵は、そばに控える書記へ尋ねた。


「殿下は、次にいつ、ご令嬢とお会いになる」


「まだ、お決まりではございません」


「では、日程を確かめなさい」


 書記が下がったあと、伯爵は図面をもう一度見た。


 採取地の権利を一つ押さえるだけでは、この娘の事業には手が届かない。


 彼は別の紙を引き寄せた。


 そこには、皇太子の婚姻について、幾つもの家名が並んでいた。


 伯爵はその末尾に、新しい名を書き加えた。


 ミレイア・ヒイラギ。


 インクが乾くまで、しばらくその名を見ていた。


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