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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第六十六章 招かれた者の席


 皇太子の晩餐会へ着ていく衣装を選ぶとき、澪は最も高価な一着を外した。


 仕立屋は、困ったように両手を合わせた。


「お似合いになりますのに」


「ええ。だから、別のものを」


 鏡の中で、濃紺の絹が肩から流れていた。首元の飾りは小さな真珠だけにした。


 クララは椅子に腰掛け、娘が身を返すのを見ていた。


「目立たないように?」


「何を着ても、柊家の娘だとは分かるでしょう」


「そうね」


「宝石の値段を数えながら話を聞かれるのは、嫌なの」


 母は少し笑った。


「あなたは、相手の指輪を数えるのに」


「数えることはあるわ」


「澪」


「借金の多い方ほど、立派なものを着けていることがあるのよ」


 クララは笑いかけて、やめた。


 娘は鏡越しに、それを見た。


「何か、おかしかった?」


「いいえ。ただ……」


 母は立ち上がり、澪の襟元を直した。


「今夜は、楽しめる時間もあるといいと思って」


 澪は返事をしなかった。


 そんなことを考えていなかったと気づいた。


     


 出発の前、暁人が玄関で待っていた。


 外套を着た父を見て、澪は足を止めた。


「ご一緒するの?」


「俺にも招待が来ている」


「存じているわ。でも、お断りになると聞いたから」


「気が変わった」


 澪は父を見た。


 父も娘を見た。


 先に視線を外したのは、暁人だった。


「宮廷には、商談とは違う作法がある」


「教えてくださる?」


「返事を急ぐな。親切にされたからといって、その場で何かを約束するな」


「それは商談でも同じね」


「それから――」


 父は言いかけて、黙った。


「何?」


「困ったら、俺を見るといい」


 澪は少しだけ表情を緩めた。


「見ても、お父さまが先に答えないでね」


 暁人は眉を寄せたが、何も言わずに馬車の扉を開けた。


     


 宮殿の廊下は、明るすぎるほどだった。


 壁際に並んだ灯りが磨かれた床へ映り、歩く者の靴まで照らしていた。高い天井には、古い戦争を描いた絵が続いている。


 案内役の侍従が、父より半歩先を歩いた。


「本日は、皇太子殿下たってのお招きでございます」


 澪は礼を述べた。


 侍従は彼女を広間の入口で待たせ、先に暁人を奥へ案内した。


 ほんの短い間だった。


 けれど、その間に、近くにいた人々は彼女を見た。


 母譲りの顔立ち。


 父から受け継いだ姓。


 どちらを先に見るかは、人によって違った。


「ミレイア嬢でいらっしゃいますね」


 白髪の男が近づいてきた。


 細い指に、印章のついた指輪をしていた。澪は顔を見てから、その印章へ目を落とした。


 皇室財務を預かるヴァレク伯爵。


 父の机に届く報告書で、何度も見た名だった。


「お父上には、帝国も大きな恩がございます」


「父に伝えます」


「いや、ご本人には、なかなか申し上げにくい」


 伯爵は笑った。


「もっとも、鉄道の運賃については、恩だけで済ませるわけにもまいりませんが」


「軍用輸送のお話でしょうか」


 伯爵の笑みが、わずかに薄くなった。


「お詳しい」


「今月の請求を確認いたしましたので」


「ご令嬢も、帳簿をご覧になるのですか」


「間違いがあれば、直す必要がありますから」


「頼もしいことです」


 その言葉と同時に、伯爵の目が彼女の肩越しへ動いた。


 誰かが来た。


 澪は振り返る前に、伯爵が背を伸ばすのを見た。


     


「伯爵。今夜も国庫の話ですか」


 声は、思っていたより若かった。


 皇太子は澪より数歳年上で、細身の身体を礼服に包んでいた。肖像画では威厳を添えられていた目元に、実際には少し疲れがあった。


 伯爵が深く礼をした。


 澪もそれに倣った。


「ミレイア嬢。お越しくださって嬉しい」


「お招きいただき、光栄です」


「お父上から、油の研究へ出資されていると伺いました」


 澪は父のいる方を見た。


 暁人は離れた場所で、軍人と話していた。


「まだ、研究というほど整ったものではございません」


「地面から出るものを、灯りにするのでしょう」


「使える部分を分けて、確かめているところです」


「では、今夜の灯りも、いずれ変わるのかな」


 皇太子は壁際へ目を向けた。


 澪は、その横顔を見た。


「殿下が、ご興味をお持ちなら」


 伯爵が口を挟んだ。


「皇室事業として保護を与えることも、検討できましょう」


 澪は皇太子へ向けていた顔を、ゆっくり戻した。


「どのような保護でしょうか」


「採取権の保証。輸送の便宜。必要なら、専売の勅許も」


「その場合、研究の結果は、誰に属しますか」


 伯爵は少し笑った。


「まだ夕食前です。難しい話は、また」


 澪も微笑んだ。


「はい。私も、今すぐにはお答えできませんので」


 皇太子が彼女を見た。


 その目に、初めて儀礼とは違うものが浮かんだ。


     


 晩餐の席で、澪は皇太子の右斜め向かいに座らされた。


 隣には古い家柄の侯爵夫人がいた。


 夫人は料理が運ばれるたびに、皿より先に澪の手元を見た。澪は気づかないふりをした。


「お母さまは、ご一緒ではないのね」


「今夜は、家に」


「宮廷へお出になるのは、お好きでない?」


「人の多い席では、お疲れになることがございます」


「まあ。では、お父さまのお仕事を助けていらっしゃるのは、あなたなのね」


 澪は杯を置いた。


「母も、父を助けております」


「もちろん。家庭をお守りになることも、大切なお役目ですもの」


 夫人は満足そうに頷いた。


 澪はその顔を見ながら、母が誰の手紙を読み、誰の見舞いへ行き、父が会えなくなった人の名をどれほど長く覚えているかを考えた。


 説明しても、この人は同じ返事をするだろうと思った。


「ミレイア嬢」


 向かいから、皇太子が声をかけた。


「先ほどの話ですが、油の灯りは、今のものより明るくなるのですか」


「明るさを揃えられるかどうかも、試験中です」


「揃える?」


「同じ名前で売られていても、よく燃えるものと、煙の多いものが混じっていては、困りますから」


 皇太子は、自分の前の灯りを見た。


「なるほど」


「殿下には、もう十分に明るうございましょう」


 侯爵夫人が笑った。


「ご令嬢には、もっと華やかなお話を」


「私は、この話を聞きたい」


 皇太子の声は静かだった。


 夫人は口を閉じた。


 澪は少しだけ、背を起こした。


     


 食後、皇太子は彼女を回廊へ誘った。


 侍従と侍女が、話の届かないほどではない距離を保ってついてきた。二人きりになったわけではなかったが、広間より息がしやすかった。


 庭では噴水が止められていた。


「水が出ていないのですね」


「管の修理です。冬までに直すはずだった」


「予算が?」


「職人の手配が遅れた、と聞いています」


 皇太子は少し間を置いた。


「本当かどうかは、分からない」


 澪は彼を見た。


「お尋ねには?」


「したよ。すると、尋ねる前より長い説明が届いた」


 澪は思わず笑った。


 皇太子も笑った。


「あなたも、そういうことがある?」


「ございます」


「どうするのですか」


「説明を書いた人とは別の人に、聞きます」


「私が職人を呼ぶと、その前に十人が会ってしまう」


 笑みが、少しずつ消えた。


 皇太子は庭へ向き直った。


「彼らも私を守っているつもりなのだと思う」


 澪は、すぐには返事をしなかった。


「それでも、困ることはございますね」


「あなたにも?」


「はい」


 短い答えだった。


 それ以上話さなくても、伝わった気がした。


 皇太子は手すりへ指を置いた。


「今日、あなたがお父上と違う答えをするところを、初めて見た」


「ご不快でしたか」


「羨ましかった」


 澪は彼の顔を見た。


 皇太子は、彼女を見ていなかった。


「父の前では、私はいつも、父のあとに話す」


 回廊の奥で、侍従が姿勢を直した。


 皇太子はそれに気づき、手を手すりから離した。


「戻りましょう。長くなると、また心配させる」


 澪は頷いた。


 そのとき初めて、彼が今夜の席を設けた理由を、縁談や金のことだけで説明したくないと思った。


     


 帰りの馬車で、父はしばらく黙っていた。


 澪も、窓の外を見ていた。


「専売の話をされたか」


 やがて暁人が尋ねた。


「ええ」


「受けるな」


「まだ条件も分からないわ」


「分からないうちは、なおさらだ」


「お父さまは、条件を聞いたことがあるの?」


 父が彼女を見た。


「鉄道のとき、宮廷から同じような話があったのでしょう」


「誰から聞いた」


「契約の古い綴りに、草案が残っていたわ」


 暁人は、小さく息を吐いた。


「あれは便利だ。競争相手を退けられる。役人も動く」


「では、なぜ断ったの?」


「こちらが止まりたいときにも、止まれなくなる」


 車輪が石畳の継ぎ目を越えた。


「軍が要ると言えば運ぶ。宮廷が値を下げろと言えば下げる。拒めば、特権を与えたのは誰だと言われる」


 澪は膝の上で指を組んだ。


「今日、それを教えてくださればよかったのに」


「俺が断れば済むと思った」


「ええ」


 彼女は父を見た。


「でも、私は理由を知らないままだったわ」


 暁人は答えなかった。


 街灯が窓を横切るたび、その顔が明るくなり、また暗くなった。


     


 翌朝、澪は宮殿から届いた礼状を読んでから、工房へ出かけた。


 皇太子の署名の下に、短い追伸があった。


『灯りが長く燃えるようになったら、知らせてください』


 彼女はそれを引き出しにしまい、手袋を取った。


 工房では、ユリアンが灯具を前に座っていた。


 目の下に薄い隈があった。


「昨夜は、宮殿でしたか」


「どうして知っているの」


「出入りの職人まで知っています」


「そう」


「こちらは、九時間目です」


 灯りのそばに、時刻を書いた紙が置いてあった。


 炎は燃えていたが、硝子の上部が黒ずんでいた。


「まだ煙が出るのね」


「芯も替えました。油の方だけの問題ではなさそうです」


 ユリアンは椅子を引いた。


 澪は座った。


「皇室から、保護の申し出があったわ」


「そうですか」


「嬉しくなさそう」


「何を保護するのでしょう。研究ですか。利益ですか」


「まだ、決まっていない」


「では、喜ぶには早い」


 彼女は笑った。


「あなたは、いつも私を待たせるのね」


「待てない方からは、資金を頂かない方がいい」


「それは困るわ。もう、出してしまったもの」


 ユリアンは机の書類へ手を伸ばした。


「でしたら、追加で困っていただきたいことがあります」


「何?」


「試験の記録を、大学と他の工房にも渡したい」


 澪の笑みが消えた。


「まだ、使える品物にもなっていないのに?」


「だからです。別の灯具で試せます。こちらで見落としたことが見つかるかもしれない」


「その記録を使って、別の商会が先に売り始めたら?」


「危険な使い方も、一緒に伝えられます」


「それは、私の問いの答えではないわ」


 ユリアンは彼女を見た。


 澪も目を逸らさなかった。


 卓上の灯りが、小さく音を立てた。


「渡す範囲を決めましょう」


 彼女は言った。


「製造の手順は、今は出せない。でも、事故につながる性質と、試験で駄目だった使い方は公にする。その費用も出すわ」


 ユリアンは、少し考えた。


「失敗した記録を、商会の名前で?」


「ええ」


「売りにくくなると言う人がいますよ」


「いるでしょうね」


「あなたは?」


 澪は黒ずんだ硝子を見た。


「売ったあとで、燃えた家の前に立つよりはいい」


 ユリアンは書類を彼女の方へ回した。


「では、ここを読んでください。都合の悪いことは、かなり書いてあります」


 澪は手袋を外した。


「そのために来たのよ」


     


 昼近く、工房へ使いが来た。


 柊家の印がある封筒だった。


 澪はその場で開いた。


 父の書記からだった。


 バフラーンの採取地について、追加の報告が届いていた。土地の権利を持つ者が一人ではないこと。丘陵の下にある集落が、油の流れ込む井戸を幾つか塞いでいたこと。


 そして、帝国の別の商会が、既に交渉を始めていること。


 彼女は二枚目をめくった。


 商会の背後にいる出資者の名を見て、指を止めた。


「何か?」


 ユリアンが尋ねた。


「先に、買おうとしている人がいるわ」


「珍しいことではないでしょう」


「ええ」


 澪はもう一度、その名を読んだ。


 ヴァレク伯爵。


 昨夜、彼女に保護を申し出た男だった。


 澪は書類を丁寧に畳んだ。


「お帰りになりますか」


「まだ」


 彼女は机へ戻った。


 火を弱められた灯具の中で、炎が細くなっていた。


「この試験を、最後まで見ていくわ」


 ユリアンは時刻を書き留めた。


 澪は隣で、その手元を見た。


 昨夜、宮廷で交わされた言葉を、一つずつ思い返した。


 採取権の保証。


 輸送の便宜。


 専売の勅許。


 伯爵は、どこまで知っていたのだろう。


 どの返事をすれば、満足して彼女を帰したのだろう。


 灯りが一度揺れた。


 ユリアンが身を寄せ、芯の先を確かめた。


 澪は立ち上がらなかった。


 まず、この灯りが何時間保つのか。


 それを、自分の目で知っておきたかった。


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