野望編―第三世代 第六十五章 二つの名、黒い水「女帝と、黒い油」序章
ここまでの物語
――始祖・空一郎から、初代・黎明へ――
葛城善一は、研究中の事故で妻アヤを失って以来、時間を越える方法を追い続けていた。その研究を受け継いだのは、娘みさをと夫の俊介、そして孫の陸一郎、海一郎、空一郎、宙結だった。
家族の知識と技術を託され、空一郎は過去への旅に出る。しかし、転送経路の異常によって、魔法と剣の存在する別世界へ漂着してしまう。帰還の道を失った彼を支えたのは、妹の宙結をモデルにした支援AI・CHUYUと、家族が用意した収納装置Noös Pouch、その中に収められた未来の道具だった。
公爵ラグエル・ヴァレンタインに保護された空一郎は、その娘アリステリアと出会い、やがて夫婦となる。故郷へ帰るための研究を続けながら、水路や工房、街道の整備に携わり、この世界の人々と暮らしを築いていった。
長男・黎明と、長女エレオノーラが生まれたことで、空一郎には、帰りたい家族と、今ここで守りたい家族ができた。
成長した黎明は、父の技術を学ぶ一方、友人ティオや、その妹ミーナとの交流から、道具だけでは解決できない暮らしの問題を知っていく。のちに妻となるミーナは医療と救護を、ティオは教育と大学の運営を担い、黎明の歩みを支えた。
職人たちとの試行錯誤から蒸気機関が育ち、石炭を運ぶ船が川を進み、鉄道が街と鉱山を結ぶ。医療院と学校が増え、やがて電気も、新しい産業の一部となった。黎明は政治の中枢で制度改革に取り組み、課税や予算を代表会議で審議する仕組みを整えていく。
しかし、発展は喜びだけをもたらしたのではなかった。土地を追われる者、富を独占しようとする者、改革へ反旗を翻す者が現れた。未来の力で反乱を止めたときには、巻き添えとなった人々もいた。科学を神の裁きとして語れば統治に役立つ。その誘惑に、空一郎も黎明も向き合わなければならなかった。
故郷からの返事を待ち続けた空一郎は、ついに帰還を果たせないまま、家族に囲まれて生涯を終える。彼が息子へ託したのは、未来の装置だけではなかった。知らないことを隠さず、失敗も記録し、道具を使う人々への責任を引き受けるという姿勢だった。
柊家の事業をまとめる初代当主となった黎明は、ミーナとともに、暁人、星司、灯花の三人を育てた。長男の暁人は財務と契約を、次男の星司は技術と検査を担い、娘の灯花は医療と救護の仕事に携わるようになる。
その家族を揺るがしたのが、鉄道橋の崩落だった。
多くの死傷者を出した橋には、柊製鉄所の印を持つ部材が使われていた。星司たちの調査で製造記録との不一致が見つかり、部材のすり替えが疑われる。さらに、記録を追っていた技術者オスカー・リンデが倉庫火災で命を落とし、調査の手がかりも失われた。
補償と復旧で事業が苦しくなる中、ヴァルデック商会が資金援助を申し出る。その条件には、柊家の経営へ深く入り込む権利が含まれていた。
病床の黎明は、子どもたちへ言い残す。
家の名より先に、失われた人の名を確かめること。
記録を残し、原因を調べること。
父を見送ったあと、二代目当主となる暁人は、その遺言と、焼け残った帳簿を前にする。
父が残せと言った記録を、誰が消したのか。
家業と家族を守るための調査は、やがて、相手の名を暴くための復讐へと変わり始めていた。
――復讐編 暁人・星司・灯花――
父・黎明の死後、柊家を継いだ暁人を待っていたのは、鉄道橋崩落の補償、復旧費、迫る返済期限だった。ヴァルデック商会の代表エルンストは、資金と引き換えに、柊家の事業を左右する権限を求めてくる。
暁人は、その条件を拒みながら、事故の背後にある取引を追い始めた。
弟の星司は、部材と製造記録を調べ、妹の灯花は、母ミーナとともに傷ついた人々を支えた。三人は、初めは同じものを守ろうとしていた。しかし、事実を確かめることを重んじる星司に対し、暁人は、相手を動かすための金と権利を求めるようになる。
借金を買い取り、会社の経営へ入り、帳簿と証言を確保する。敵の手法を理解するほど、暁人自身も、その力を使い始めていた。
その過程で彼が近づいたのが、エルンストの娘クララだった。
父の取引の裏側を知らず、病院の仕事を手伝うクララは、暁人へ真心を寄せる。暁人も彼女に惹かれていった。しかし、その思いと並んで、ヴァルデック家との婚姻を、共同事業の監査や過去の記録へ近づく手段として考えていた。
二人は結婚し、娘の澪が生まれた。穏やかな家庭を得ながらも、暁人は、結婚を決めたときの目的を妻へ明かせずにいた。
一方、星司は北部の獣人集落との仕事を通じてサラと出会い、夫婦となった。土地と水を知り、魔法も使う彼女は、研究と現場を行き来する星司の、大切な伴侶となっていた。
兄弟がそれぞれ帰る家を持ったころ、橋の事故へつながる不正な取引の追跡は、危険な局面へ入る。
暁人は、支払いの記録と承認者を押さえるため、疑わしい取引をすぐには止めず、監視しながら続けさせた。受け取った部品を使わなければ、危険は管理できると考えていた。
だが、情報は現場まで十分に届かず、共同試験場で事故が起きる。
星司は負傷し、サラは、取り残された作業員を救おうとして命を落とした。
不正を暴く資料は得られた。けれど、その記録と同じ日に、サラの死が残った。
星司は、兄が妻を死なせたいと願ったわけではないと理解していた。それでも、危険を止めるより証拠を待つことを選び、その判断を十分に伝えなかった兄を、許すことはできなかった。
暁人が、さらに未来の装備による威嚇で証拠を出させようとしたとき、CHUYUは協力を拒む。星司は、Noös Pouchと保管施設を、当主一人の判断では使えない仕組みへ変えようとする。灯花も、兄たち双方の判断と過失を、同じように残す立場を選んだ。
やがて裁判では、エルンストが粗悪な部材と偽の記録によって人命を危険にさらし、不正な利益を得た責任が認められる。彼には実刑が下り、暁人は失われた事業の持分を取り戻していった。ただし、橋の崩落そのものを命じたことや、オスカーが死んだ火災の命令者まで、すべてが明らかになったわけではなかった。
そして、勝利のあとに、暁人自身の秘密も明らかになる。
婚姻前の書類を読んだクララは、自分との結婚が調査の手段として検討されていたことを知った。夫の愛情をすべて嘘とは思えなくても、何も知らずに信じていた時間を、簡単には取り戻せなかった。
クララは澪を連れ、屋敷を出る。星司も商会の技術責任者を辞め、研究と事故調査の仕事へ戻った。灯花は、それぞれの家を訪ね続けたが、兄弟を同じ食卓へ戻すことはできなかった。
保管設備の管理が分かれ、複数の判断による移設と作業の中で冷却系が損傷する。交換部品は残っておらず、CHUYUは記録を退避したのち、主な処理を休止した。家族を見守り続けた声も、日々の暮らしから遠ざかった。
十年後、柊家の事業網は、以前より大きくなっていた。
暁人は再興を成し遂げた当主と呼ばれた。けれど、取り戻した富のそばに、かつての家族の食卓はなかった。
十四歳になった娘・澪は、父の商館を訪れる。壁の地図には、鉄道、港、炭鉱を結ぶ線が、大陸を横切っていた。
家族は別々に暮らすようになったのに、会社は前より大きくなった。
なぜなのか。
母を愛し、父から学ぼうとする少女は、その問いを胸に、帳簿を開き始める。
復讐によって取り戻された家の富と、取り戻せなかった家族の時間。その両方を見つめる澪へ、柊家の物語は受け継がれていく。
主役:暁人とクララの娘 柊澪〈ミオ〉/公的名ミレイア
父の勝利を、澪は拍手の音で覚えていた。
広間に集まった大人たちは、父が入ってくると一斉に立った。
以前は父の話を遮った男も、手紙に返事を寄越さなかったという男も、その日は笑っていた。父が何か言うたびに頷き、まだ冗談が終わらないうちから笑った。
澪は母の隣に座り、膝の上で両手を重ねていた。
「お父さまは、もう大丈夫なの?」
クララは娘を見た。
「どうして?」
「みんな、お父さまが正しかったと言っているから」
母は、すぐには答えなかった。
給仕が皿を置きに来た。クララは礼を言い、少し場所を空けてやった。その何でもない仕草を、澪はよく覚えている。
この広間で、母だけが給仕の顔を見ていた。
「……澪」
「はい」
「正しかったと言ってもらえることと、大丈夫になることは、少し違うの」
そのときの澪には、意味が分からなかった。
分かったのは、その夜だった。
寝室の扉が、わずかに開いていた。
父の声がした。
「これで、お前たちを脅かす者はいなくなる」
澪は、扉へ伸ばしかけた手を止めた。
「暁人」
母が言った。
「ええ」
「今夜だけは、その話をしないで」
長い沈黙があった。
父が母に近づいた気配がした。衣擦れの音。椅子がわずかに動く音。
「クララ。俺は――」
「分かっているわ」
母の声は優しかった。
その優しさが、澪には怖かった。
「あなたが、私たちのためにしてくれたことは、分かっているの」
それから、母が泣いた。
声を抑えていた。それでも、泣いていると分かった。
澪は自分の部屋へ戻り、寝台に入った。目を閉じると、昼間の拍手が聞こえた。母の泣き声も聞こえた。
父は勝った。
母は、父に愛されている。
それなのに、母は泣いていた。
澪という名を書くとき、母は筆先を少し慎重に運んだ。
古い言葉の文字は、クララにとって覚えやすいものではなかった。それでも、娘の名前だけは、自分で書けるようになりたいと言った。
「ここを、こう?」
「そこは、少し離すんだ」
暁人が横から教える。
「あなた、昨日はつなげていたわ」
「急いでいた」
「先生が、それでは困るでしょう」
母が笑うと、父も笑った。
澪は二人の間に座り、母の指についた墨を布で拭った。
こういう時間も、確かにあった。
父は母の好きな果物を覚えていた。母は父が仕事をしすぎると、書類の上へ黙って手を置いた。父がその手を取ると、母は怒った顔を保とうとして、たいてい途中で笑ってしまった。
澪は、その笑顔が好きだった。
「外で使う名前は、どうして違うの?」
ある日、彼女は尋ねた。
机には二枚の紙があった。
一枚には、柊澪。
もう一枚には、ミレイア。
「どちらも、あなたの名前よ」
クララが答えた。
「澪は、お父さまの家から。ミレイアは、私の育った言葉でも呼びやすいように」
「二人いるみたい」
「一人よ」
母は、娘の胸へ指先を当てた。
「どちらで呼ばれても、ここにいるのは、あなた」
暁人は家の古い記録を開き、娘の二つの名を書き入れた。
公の書類に記す名と、家族が古い言葉で呼ぶ名。
後の柊家で、それが子どもの誕生に添えられる習慣になることを、その日の三人は知らなかった。
「私は、どちらで呼ばれるのが好きかしら」
澪が考え込むと、父は言った。
「嫌な呼び方をされたら、そう言えばいい」
「偉い人にも?」
「誰にでも」
澪は頷いた。
父自身がその答えを喜べなくなる日が来るとは、まだ思わなかった。
十二歳の春、澪は初めて、自分の婚姻について話す大人たちの声を聞いた。
客間の隣にある小書斎で、本を読んでいたときだった。
「もちろん、まだ先のお話ですが」
客の男は言った。
「ご令嬢にとって、これ以上に確かな庇護はございますまい」
澪は本から目を上げた。
男は、その家の名前を挙げた。土地と爵位と、宮廷へのつながりを説明した。
父は返事をしなかった。
「柊家の事業にとりましても、望ましい縁になるかと」
そこで澪は、扉を開けた。
男が驚いた顔をした。
「まあ、ミレイア嬢。お勉強の最中でいらっしゃいましたか」
「はい」
彼女は父を見ず、男に尋ねた。
「私がその家へ行けば、何をしていただけるのですか」
「澪」
父の声がした。
しかし、男は笑った。
「お幸せに暮らせるよう、お守り申し上げるのですよ」
「父の会社のことを、お話しでしたでしょう」
笑顔が止まった。
「私を守るお話と、会社のお話は、同じ契約なのですか」
男は父を見た。
その一瞬を、澪は見逃さなかった。
自分の質問へ答えるより先に、この男は父の機嫌を確かめた。
「今日は、ここまでにしましょう」
暁人が言った。
客が帰ると、父はしばらく窓の外を見ていた。
「立ち聞きは感心しない」
「隣にいると、お伝えしました」
「……そうだったな」
「私は、あの家へ行くの?」
「行かせない」
父は即答した。
「お前が心配することではない」
いつもなら、その言葉で安心できた。
その日は、できなかった。
「では、誰が心配するの?」
父が振り向いた。
「私のことなのに」
灯花が訪ねてきたのは、それから数日後だった。
庭のベンチで、叔母は澪の話を最後まで聞いた。
「お父さまを困らせたのね」
「怒らせたのかもしれない」
「その二つは、似て見えることがあるわ」
灯花は膝に置いた手袋を畳んだ。
「誰かと結婚するのが、嫌なの?」
「まだ、分からない」
「そう」
「でも、私が嫌だと言う前に、お父さまが断ってしまった」
灯花は姪を見た。
澪は靴の先で、地面の小石を押した。
「守ってくださったのは、分かるの」
「ええ」
「でも、あの方が私をどこかへ連れていくのも、お父さまが私をここへ置いておくのも、私が黙っていたら、同じように決まるでしょう」
風が吹いた。
灯花は、すぐに慰めなかった。
そのために澪は、もう少し話してもいいと思った。
「私は、お母さまが好き」
「知っているわ」
「お父さまも、お母さまが好き」
「ええ」
「好きでいてもらうだけでは、駄目なのね」
灯花の指が、畳んだ手袋の上で止まった。
「澪。お母さまが悲しまれたのは――」
「私には、分からない?」
「……一つの理由だけではないと思うの」
澪は黙った。
叔母は、分かったふりをしなかった。
それも、覚えておこうと思った。
十八歳になる頃には、ミレイアは父の商談へ同席するようになっていた。
最初、大人たちは彼女の顔を見た。
次に、父の顔を見た。
その間に彼女は、相手の指が何に触れるかを見ていた。
値引きの話になると杯を持つ男。納期に触れると書記へ目を向ける男。損失よりも、部下の前で非を認めることを恐れる男。
彼女は、相手を言い負かすことには、あまり興味がなかった。
相手が何を持ち帰れば席を立てるのか。
それを見つける方が、役に立った。
「値段を下げなくてよかったのか」
ある商談のあと、暁人が尋ねた。
「下げてほしいのではないもの」
「では?」
「前任者より良い契約をした、と報告したかったのよ。だから、予備部品と技師の派遣を加えたわ」
「あれにも金はかかる」
「値引きより少ない。それに、向こうの設備が止まらなければ、次の注文が来る」
父は、机に置かれた契約書を見た。
「誰に教わった」
「お父さま」
「俺は、あんなやり方はしない」
「だから、見て覚えられたの」
暁人は娘を見た。
叱るべきか、笑うべきか、決めかねている顔だった。
バフラーン連邦から届いた荷には、香料と染料と、粗末な瓶が一本入っていた。
瓶の口は厳重に封じられ、油染みのついた布で包まれていた。
使節団に同行した商人は、申し訳なさそうに言った。
「お求めの品とは、違うかもしれません」
ミレイアは瓶を光へかざした。
中身は暗褐色で、傾けると硝子の内側をゆっくり流れた。
「どこで採れるのですか」
「南の丘陵です。地面から滲み出ます。昔から、傷んだ舟の目止めなどに使っておりますが、臭いが強くて」
「燃やしたことは?」
「あります。ただ、そのままでは煙がひどい。灯りには、あまり」
父は瓶を見ていた。
澪はその顔を見た。
「ご存じなの?」
「古い記録にはある」
父は慎重に答えた。
「地の下から出る油だ。だが、この土地のものが同じ性質かは、調べなければ分からない」
「調べる費用を出します」
商人が笑顔になった。
「では、採取地の権利を――」
「その前に、地図を」
「地図、ですか」
「丘陵から川までは? 雨季にも荷車が通れる道はありますか。最も近い港は、誰が管理していますか」
商人は父を見た。
父は何も言わなかった。
「それから」
ミレイアは瓶を机へ置いた。
「その土地で水を汲んで暮らしている人たちは、この油をどう思っているのか、教えてください」
試験を引き受けた工房で、最初に彼女を迎えたのは悪臭だった。
次に、怒鳴り声だった。
「その栓を、閉めるな!」
若い男が助手の手を払いのけた。
ミレイアは戸口で足を止めた。
男は器具を確かめ、火を弱めてから、ようやく彼女に気づいた。
「見学なら、外で待ってください」
「費用を出している者でも?」
「器具の中の圧力は、出資者を見分けません」
助手が青くなった。
ミレイアは、少し笑った。
「それは公平ね」
男の手には、小さな火傷の痕がいくつもあった。
「お名前は?」
「ユリアン・ロシュフォールです」
「ロシュフォール……通訳のマリナ殿の?」
「一族です。私は語学の方では、あまり役に立ちませんが」
「今の説明は、よく分かったわ」
ユリアンは笑わなかった。
作業が落ち着くと、彼は三つの小瓶を並べた。
「温度を変えて、出てくるものを分けています。同じ油でも、ずいぶん違う」
一つはさらりとしていた。一つはわずかに色があり、もう一つは重く粘った。
「どれが使えるの?」
「それを、調べています」
「灯りには?」
「真ん中のものは、使えるかもしれません。煙と臭い、それに火の移り方を確かめます。重い方は、機械の潤滑に試したい」
「こちらは?」
彼女が最初の瓶を指すと、ユリアンはそれを少し遠ざけた。
「扱いに困っています。蒸気になりやすく、離れた火にも気をつけなければならない」
「捨てるの?」
「安全に処分するにも、方法が要ります」
ミレイアは、小瓶を見た。
価値のないもの。
まだ、使い方のないもの。
帳簿の中では、その二つが同じ欄に入ることを知っていた。
「分けた量を、すべて記録しておいて」
「しています」
「失敗した分も」
そこで初めて、ユリアンが彼女の顔をまともに見た。
「失敗の費用も、お支払いになりますか」
「必要なら」
「必要です」
「では、その顔をやめて。私はまだ、断っていないでしょう」
彼は少し口元を緩めた。
澪は、その小さな変化を、帰りの馬車でも思い出した。
数週間後、父の机に、彼女の計画書が置かれた。
暁人は数枚めくってから、手を止めた。
「これは、採油の計画ではないな」
「採るだけでは、売れないもの」
地図には丘陵から港へ線が引かれていた。
倉庫の候補地。川を渡す場所。精製設備に使う水。船で運ぶ量。到着した港で保管する敷地。
まだ空欄ばかりだった。
「船まで持つのか」
「いずれは」
「販売所も?」
「品質の悪い油を私たちの名前で売られたら、困るでしょう」
「保険を引き受ける者がいると思うか。石炭倉庫と同じ条件では済まないぞ」
「だから、先に事故の記録を集めたいの。何が燃え、どこまで広がり、どうすれば止められたか。工房の試験も、その費用に入れてあるわ」
父は計画書を閉じた。
「大きすぎる」
「今、全部を買うのではないわ」
「そういう意味ではない」
ミレイアは父を見た。
暁人は窓辺へ歩いた。
遠くに鉄道が見えた。彼が資金を集め、権利を取りつけ、敵の逃げ道を塞ぐためにも使った鉄の道だった。
「油なら、鉄道で運べる」
「ええ。初めは、そうするわ」
「初めは?」
「線路のない町にも、人は住んでいるでしょう」
父が振り向いた。
「道を使うのか」
「馬車でも運べる。もっと良い運び方ができるかもしれない」
「誰が、そんな話をした」
「工房の人たち。星司叔父さまの研究を引き継いでいる方もいるわ」
その名が出ると、父の顔が変わった。
澪は気づいた。
気づいて、それ以上は言わなかった。
父にも、触れられたくない場所がある。
その場所を知ることと、そこを押すことは、別だと分かる程度には、彼女も大人になっていた。
その夜、クララが娘の部屋へ来た。
澪は髪を解き、机に地図を広げていた。昼間の服を脱ぐと、商談で使う微笑みも、いくらか顔から消えた。
「忙しそうね」
「お母さまなら、いいの」
クララは娘の後ろに立ち、櫛を取った。
幼い頃と同じように、髪を梳いた。
「お父さまが、心配していらした」
「反対していらした?」
「その二つを、ご自分でも分けられないみたい」
澪は笑った。
母は鏡越しに娘を見た。
「そんなに、遠くまで行きたい?」
「遠く?」
「この地図の先へ」
澪は答えを考えた。
富が欲しい、と言えば簡単だった。
事業を育てたい。それも嘘ではなかった。
けれど、もっと古いものが、胸の中にあった。
「私がいなくても決められる場所から、出たいの」
櫛が止まった。
「誰かが、私のためだと言って決めるでしょう。私が何を知っているかも、何を望んでいるかも、聞かずに」
「澪……」
「守ってもらえることには、感謝しているわ」
母の指へ、そっと触れた。
「でも、それだけでは怖いの」
クララは、娘の肩を抱いた。
鏡の中に、よく似た二人の顔が並んだ。
「あなたが誰かを守るときも、聞いてあげてね」
澪は母を見た。
「その人が、何を望んでいるか」
返事をするまでに、少し時間がかかった。
「……ええ」
クララはもう一度、髪へ櫛を通した。
皇太子の晩餐会への招待状は、翌朝届いた。
厚い紙に、皇室の紋章が押されていた。
宛名は、ミレイア・ヒイラギ。
彼女は封を切り、文面を一度読んでから、机の端へ置いた。
その下には、工房から来た報告があった。
蒸留器の接合部に漏れ。
試験中止。
負傷者なし。
改修費用の申請。
末尾に、ユリアンの筆跡で一行、書き添えられていた。
『前回の灯油試験は、まだ成功として発表しないでください。長時間使うと、芯に問題が出ます』
澪は、二通を並べた。
一方は、彼女を迎えようとしていた。
もう一方は、待てと言っていた。
彼女は先に、工房への返事を書いた。
『費用を認めます。発表は延期してください』
それから、招待状を手に取った。
窓の外で、列車が長く汽笛を鳴らした。
机の隅には、バフラーンの黒い油が、小瓶に半分ほど残っていた。瓶を動かすと、底に沈んだ泥がゆっくり舞い上がった。
澪はそれを光に透かした。
まだ、向こう側は見えなかった。




