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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第九十七章 王冠のない肖像



 国名を決める投票は、二票差だった。


 帝国という呼び名を、残すか。


 長い議論の末、古い名は歴史の中に置かれることになった。


 議場の書記が結果を読み上げたとき、拍手に交じって、椅子を引く音がした。退席する者もいた。


 律は傍聴席に座っていた。


 誰も、彼の方へ確認を求めなかった。


 壇上の紋章は、まだ取り外されていない。新しいものが決まるまで、布を掛けておくという。


 その白い布が、窓から入る風でわずかに揺れた。


 律はそれを見ていた。


 アンナが隣で、小さな帳面へ何か書いた。


「何を書いたの?」


 議場を出てから尋ねると、彼女は帳面を閉じた。


「二票差でも、決まったら次へ進む人たちがいた、ということ」


「怒って出ていった人もいた」


「それも書いたわ」


 階段の下で、新聞売りが号外を抱えていた。


 活字の上では、すでに新しい国が始まっていた。


     


 共和制への移行は、式典よりも書類に時間がかかった。


 役所の印を替える。


 税の納付先を書き換える。


 旧貴族領の裁判権を国へ移し、地方の役人を誰が選ぶか決める。


 かつて皇帝の名で結ばれた条約について、外国政府から確認が届いた。


 軍の宣誓文も変わった。


 その読み上げを、律は広場の端で聞いた。


 母へ忠誠を誓った将校が、今度は法と国民へ誓っていた。


 声を詰まらせた者もいた。


 律は、その人を弱いとは思わなかった。


 自分もまた、呼ばれなくなった名に、何度も振り返っていた。


 殿下。


 街で誰かがそう言うと、まだ足が止まる。


 訂正すれば相手が恐縮し、黙っていれば周囲が道を空けた。


 法が変わっても、人の身体に残った習慣は、すぐには消えなかった。


     


 Holly Olive Corporationの本社は、旧王室会計局の建物には置かなかった。


 駅と商業地区の間に、新しい建物を建てた。


 正面の扉は大きかったが、馬車のまま乗り入れる玄関はなかった。職員も役員も、同じ階段を上がった。


 律はそれで何かが変わったと思いたかった。


 しかし、最初の取締役会で、その考えは簡単に崩れた。


「東部工場の拡張を止めれば、利益率は改善いたします」


 財務担当者が、表を差し出した。


「輸送費を含めると、新設した南の工場へ集約する方が有利です」


「東部で働く人は?」


「一部は移れます。残りは、契約満了時に更新を見送る案です」


「何人ですか」


 数字が読み上げられた。


 議場の二票差より、はるかに大きな数だった。


 律は表を見た。


 合法だった。


 国の審査を受ける必要もなかった。


 所有する土地で、雇っている人員を、会社の判断で減らす。


 その結果、周囲の店が閉まり、家を手放す者が出るとしても、取締役会の決議で進められる。


「代案を出してください」


 律は言った。


「設備の更新と、別製品への転換。移る人への住居支援も含めて」


「費用が増えます」


「承知しています」


 親族から選ばれた取締役が、卓の向こうで口を開いた。


「あなたは、国に財産を渡し、次は会社の利益まで減らすのですか」


 律はその顔を見た。


「まだ、何も決めていません」


「決めないことにも、損失は生じます」


 会議室の壁に、大きな時計があった。


 議会では何日もかかった争いが、ここでは次の列車の時刻までに決められようとしていた。


     


 その夜、律は食卓で箸を止めた。


 アンナが顔を上げた。


「今日は、何人?」


「何が」


「あなたが、頭の中で数えている人」


 律は苦笑した。


 結婚してから、彼女には隠せなくなったことが増えた。


「東部の工場を、縮める案がある」


 アンナは手元の皿を見た。


「私、その町へ行ったことがあるわ」


「知っている」


「学校の寄付金を、会社が出しているでしょう」


「うん」


「工場が減れば、そちらも?」


「まだ、決まっていない」


 彼女はそれ以上、質問しなかった。


 代わりに、律の皿へ温かいものをよそった。


「明日は、記者として質問を送るかもしれない」


「今、聞いてもいい」


「今は、あなたと夕食を食べているの」


 律は皿を見た。


 湯気が上がっていた。


「難しいね」


「ええ」


 アンナは頷いた。


「でも、全部を仕事にしてしまうよりは、ましだと思っている」


 律は再び食べ始めた。


 しばらくして、彼女が言った。


「今度の日曜は、空いている?」


「午後なら」


「写真を撮りたいの」


「記事の?」


「私たちの」


     


 写真館の主人は、律の顔を見るなり、奥から大きな椅子を運ばせた。


 背もたれに彫刻のある、立派な椅子だった。


 律はそれを見て、隣の小さな腰掛けを指した。


「こちらで」


 主人は困った顔をした。


「お二人では、狭うございます」


「では、一脚ずつ」


 アンナが言った。


 椅子が並べられた。


 背景には、どこかの庭園を描いた布が掛かっている。


 主人が律の肩の向きを直し、アンナの手を膝の上へ置かせた。


「もう少し、威厳を」


 律の口元が動いた。


 アンナが彼を見た。


「難しい注文ね」


 彼は笑いそうになった。


「動かないでください」


 主人が暗幕の下から声を上げた。


 撮影が終わると、もう一枚、自然な姿でどうかと勧められた。


 アンナは椅子を少し寄せた。


 律の腕に、自分の腕を添える。


「今度は、笑ってもいいかしら」


「少しでしたら」


 主人の返事に、二人は同時に笑った。


 その瞬間を撮れたかどうか、主人はしばらく自信がなさそうだった。


     *


 東部工場の計画は、一か月遅れた。


 その間に、会社と働く者の代表、町の評議員が同じ机へ着いた。


 全員を残す案は、成立しなかった。


 一部の設備は南へ移った。


 更新しない契約も出た。


 ただし、会社は期間を延ばし、再訓練と移転費用を負担した。残る建物には、修繕部品を作る工場が入った。


 誰もが満足したわけではなかった。


 新聞には、譲歩が遅すぎたという記事が載った。


 株主からは、不要な費用をかけたという抗議が来た。


 その月、Holly Olive Corporationの利益は、創立以来の最高額になった。


 海運と自動車部門の伸びが、工場再編の費用を上回ったためだった。


 律は決算書を読んだ。


 会社は、これまでで最も豊かだった。


 東部の町では、仕事を探す人が増えていた。


 同じ月のことだった。


     


 研究所から、坑道調査の報告が届いたのは、その秋だった。


 調査隊は、閉鎖された炭鉱の奥まで入った。


 崩落箇所を補強し、水を抜き、空気を送り込むだけで、予定の倍の時間がかかった。


 持ち帰られたのは、石の拓本と写真、それから新しい測定表だった。


 扉と呼べるものは、見つからなかった。


 壁の一部に、周囲と異なる反応がある。


 だが、その理由は確定できない。


 律は地下の作業台で、写真を見た。


 黒い岩肌に、細い線が刻まれていた。


「ここです」


 主任技師が指した。


「古い写しでは、一本につながっていました。実物では、途中に小さな切れ目があります」


 CHUYUが応じた。


「空一郎の記録と比べると、その切れ目が重要かもしれない」


 善一AIが、慎重な声で続けた。


「転送時の補正図にも、似た配置がある。ただし、これが装置の表示なのか、誰かが写した記号なのかは分からん」


「動かすものでは?」


「まだ、何を動かすのかさえ分かっていない」


 律は頷いた。


 研究所へ来るたび、昔なら先へ進む答えを欲しがった。


 今は、分からないところを分けておく作業にも、意味があると知っていた。


「続けてください」


 彼は言った。


「ただし、坑道の安全を先に」


     


 机の端に、写真館から届いた封筒があった。


 アンナが持ってきたものだった。


 律は二枚の写真を取り出した。


 一枚目は、二人とも少し硬かった。


 二枚目では、アンナが彼を見て笑っている。


 律自身の顔は、かすかにぶれていた。


「失敗だと、写真館では言われたわ」


 アンナが言った。


「僕は、こちらがいい」


「私も」


 彼女は二枚目を受け取り、灯りへかざした。


 CHUYUが尋ねた。


「どんな写真?」


 アンナが説明した。


 椅子が二つあること。


 律が正面を見ていないこと。


 王冠も、儀礼の剣もないこと。


「柊の印は?」


「襟についているわ」


 アンナは写真を見直した。


「でも、小さすぎて、何の形か分からない」


 律は笑った。


 CHUYUはしばらく黙り、それから言った。


「いつか、もっとよく見られるようになったら、見せて」


「ええ」


 アンナは写真を封筒へ戻さず、机の上へ置いた。


     


 そのころ、親族の間では、次の当主をめぐる話が始まっていた。


 律にはまだ、子がいなかった。


 会社の持分を、誰がどの順で受け継ぐのか。


 当主と経営の代表を、今後も同じ者にするのか。


 ある分家は、婚姻によって持分が外へ流れることを警戒した。


 別の分家は、律が家の資産を社会へ差し出しすぎていると訴えた。


 王冠を失った彼らは、株式の数を確かめ始めていた。


 律の机へ、その提案書が届いた。


 表題は、柊家財産の永続的保全について。


 署名欄には、よく知る名が並んでいた。


 かつて母のもとへ集まり、自分の幼い日を知っていた人々だった。


 彼は読み終え、書類を閉じた。


     


 夜、アンナは書き物をしていた。


 律は窓を開けた。


 遠くの飛行場で、小さな灯りが動いていた。


 昼間なら、郵便を積んだ航空機が昇るのを見られる。旅客を乗せる便も始まったが、まだ天候によって簡単に欠航した。


 川には鋼鉄船。


 街道には貨物車。


 空には、細い翼。


 母が若かったころにはなかったものが、今は当たり前のように、人と荷物と金を運んでいた。


「寒いわ」


 アンナが言った。


「ごめん」


 律は窓を閉めた。


 彼女が筆を置き、こちらを見た。


「また、難しい顔」


「家から、手紙が来た」


「相続の?」


「うん」


 アンナは椅子を引いた。


 律はその隣へ座った。


「王冠を置けば、少し静かになると思っていた」


「本当に?」


 彼は苦笑した。


「少しだけ」


 アンナは彼の手を取った。


「では、少しだけ静かにしましょう」


 彼女が灯りを一つ消した。


 部屋が柔らかく暗くなった。


 律は彼女へ身を寄せ、額を合わせた。


 机の上には、王冠のない二人の写真があった。


 その横に、まだ開いていない親族からの封書が重なっていた。


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