第九十八章 残すもの
最初の石が投げられたのは、株主総会の朝だった。
石は、馬車の窓には届かなかった。
道路を跳ね、車輪の脇へ転がった。
護衛が振り返り、御者が馬を止めかけた。
「進んでください」
律は言った。
窓の外に、男が立っていた。
見覚えはなかった。
工場の作業着でも、港の服でもない。擦り切れた外套を着て、片方の手に帽子を握っていた。
男は何か叫んだ。
車輪の音に紛れ、最初は聞こえなかった。
次の言葉だけが、届いた。
「国を捨てて、金だけ残した!」
律は、男の姿が見えなくなるまで窓の外を見ていた。
*
総会の議場は、以前の宮廷より騒がしかった。
持株数に応じて議決権を持つ者たちが、配当と設備投資について争っている。
外国から来た出資者もいた。
通訳が隣へ座り、発言を小声で訳していた。
柊家の親族は、前方の席を占めていた。
その中で、律へ乗馬を教えた男だけが、わざと一列後ろへ座っていた。
議事が進み、家の持分をまとめて管理する案が出された。
持分を相続する者は、その議決権を家の管理組織へ預ける。
婚姻による移転には制限を設ける。
当主の選任は、親族の合議による。
律は、説明を最後まで聞いた。
「この案では、配当を受け取る者と、経営へ意思を示す者が分かれます」
彼は言った。
「預けた者が、管理の仕方に異議を唱える方法は?」
提案者が書類をめくった。
「家内の協議によって」
「協議がまとまらなければ」
「家の統一を優先します」
律は頁を閉じた。
国を治める権利を失った人々が、今度は株式を動かす権利を一つに集めようとしていた。
その理屈を、彼はよく知っていた。
「僕は、この形には賛成できません」
会場の前方で、椅子が鳴った。
「家をばらばらにするのですか」
親族の一人が立った。
「王冠を捨てたあと、今度は財産まで」
「所有することと、経営することを、同じにしない方がいい」
「あなたが代表でいる間は、そう言えるでしょう!」
その声に、何人かが頷いた。
律は相手を見た。
「僕が代表を退いたあとも使える形にするために、話しています」
議場が、少し静かになった。
*
昼の休憩に入ると、年長の親族が廊下で待っていた。
「退くつもりか」
「今日ではありません」
「だが、考えている」
「はい」
男は窓へ顔を向けた。
駅前の通りに、会社の貨物車が並んでいた。
「お前は、渡されたものを置いていくばかりだな」
律は返事をしなかった。
「母上が、どれほど苦労して守ったと思っている」
「知っています」
「知らん。知っていれば、こんなことはできん」
男の声は低かった。
怒鳴られるよりも、律には堪えた。
幼いころ、この人の手を借りて馬へ乗った。
落ちたときには、真っ先に駆け寄ってくれた。
その人が、今は自分を見ようとしない。
「会社を、潰したいわけではありません」
「なら、なぜ家の力を弱める」
律は通りの貨物車を見た。
「強くなりすぎることも、考えなければならないからです」
男は、ようやく彼へ顔を向けた。
「それを、恩知らずと言うのだ」
律はその言葉を受けたまま、立っていた。
議案は、一部が継続審議になった。
家の管理組織を作ること自体は認められたが、持分を持つ者に無条件の委任を求める条項は退けられた。
経営者の任期と解任の手続きは、別に検討する。
重大な利害関係のある取締役は、その議案の採決から外れる。
誰にとっても、完全な勝利ではなかった。
総会を終えた律へ、財務担当者が決算書を差し出した。
「こちらは、ご報告済みの確定値です」
利益は、前年を上回っていた。
会社の船は、以前より遠くへ行っていた。
新しい工場は、毎月、貨物車を送り出した。
電話線の敷設を請け負う部門も、無線装置を扱う工場も、注文を抱えている。
家の歴史で、これほど富んだ時代はなかった。
律は数字を確かめ、書類を返した。
「ありがとうございます」
その声を聞いて、担当者が少し戸惑った顔をした。
祝いの言葉を待っていたのかもしれなかった。
帰宅すると、アンナが玄関にいた。
「怪我は?」
律は足を止めた。
「聞いたの?」
「石を投げた人が、警察へ連れていかれたそうね」
「僕には、当たっていない」
彼女は彼の顔を見て、それから肩へ手を置いた。
「そう」
その短い声で、どれほど心配していたか分かった。
律は彼女の手へ触れた。
「投げた理由は、まだ聞いていない」
「私が調べると思った?」
「少し」
「編集部では、取材を進めている」
彼女は彼を見た。
「でも、今は、あなたが帰ってきたところを見ているの」
律は鞄を下ろした。
アンナを抱き寄せると、彼女の腕がすぐに背へ回った。
しばらく、二人とも話さなかった。
夕食のあと、アンナは小さな箱を持ってきた。
律が開けると、中には、編みかけの靴下が一足分入っていた。
あまりに小さかった。
彼は箱と彼女を交互に見た。
「これは」
「まだ、上手に編めないの」
アンナは椅子へ座った。
「左右の大きさが違うでしょう」
律は箱を机へ置いた。
「アンナ」
彼女は笑った。
その目が、少し潤んでいた。
「医師には、昨日、診てもらったわ」
彼は立ち上がりかけ、何をすればよいか分からなくなった。
アンナが手を伸ばした。
「まず、ここへ来て」
律は彼女の前へ膝をついた。
その手を握る。
「身体は?」
「今は、問題ないそうよ。少し疲れやすいくらい」
「仕事は」
「続けるつもり。休む時期は、編集長と相談する」
律は頷いた。
何度も頷いてから、自分が笑っていることに気づいた。
彼女も笑っていた。
「嬉しい?」
アンナが尋ねた。
「うん」
返事が、子どものようになった。
「すごく」
彼は彼女の手へ額を寄せた。
昼間、親族に言われた言葉が、ふと戻ってきた。
家をばらばらにするのか。
渡されたものを置いていくばかりだ。
律は顔を上げた。
「この子には、まだ何も決めたくない」
アンナは彼を見た。
「名前も?」
「名前は、考える」
彼女が笑った。
律も笑い、その腹へ、ためらいながら手を添えた。
まだ、何も分からなかった。
それでも、掌を離したくなかった。
翌朝、律は法務官へ手紙を書いた。
相続の相談をしたい。
ただし、生まれてくる子を、会社の次の代表として扱わないこと。
財産を受け継ぐことと、経営を任されることを分ける案を、具体的に検討したい。
書き終えたあと、彼は筆を止めた。
この手紙を知れば、親族の争いは、さらに激しくなるだろう。
子が生まれる前から、その持分を数える者がいる。
守るつもりで、進路を決める者もいる。
自分も、その一人になり得る。
律は手紙へ署名した。
炭鉱へ向かう調査隊には、二台の貨物車が加わった。
以前なら何日もかかった機材の運搬が、半分の時間で済んだ。
坑口には電話が引かれた。
内部の作業班とは、有線で連絡を取った。
律は、今回は現地へ同行した。
アンナには反対されなかった。
ただ、帰る日を曖昧にしたときだけ、厳しく見られた。
「三日で戻る」
「四日目になったら?」
「連絡する」
「連絡は、三日目にして」
その約束を思い出しながら、律は坑口の時計を見た。
壁の印は、写真より小さかった。
主任技師が灯りを寄せる。
岩肌に刻まれた線は、一部が鉱物の筋に隠れていた。
「ここを削れば、全体は見えます」
作業員が言った。
主任は首を横に振った。
「今は削らない。表面の形を残す」
律は脇へ退いた。
持ち込まれた測定器が、壁の前へ据えられる。
反応は、弱かった。
照明の電源を切り離しても、変化が残る。
同じ条件で、三度測った。
それでも、何かが起動することはなかった。
光も、声も、扉も現れなかった。
坑道には、水滴の落ちる音がしていた。
「帰りましょう」
主任が言った。
「今日の分は、取れました」
律は壁を見た。
空一郎がここを見たのかどうかも、まだ分からない。
ただ、この世界へ来たときの記録と、似た構造を持つ印が、地中に残っている。
彼は帽子の縁を直し、引き返した。
研究所で記録を照合したのは、その翌日だった。
CHUYUが測定値を読み込み、善一AIが補正図と並べた。
長い沈黙のあと、善一AIが言った。
「一致する箇所が、増えた」
律は椅子を寄せた。
「どこですか」
「印の外側ではない。中の、切れ目の配置だ」
机上に、二枚の図が置かれた。
坑道の印。
空一郎の転送記録。
向きと縮尺を変えると、幾つかの線が重なった。
「偶然では?」
「まだ、除外はできん」
善一AIは答えた。
「だが、比べる理由は、十分にできた」
CHUYUが続けた。
「転送先の座標を、そのまま書いたものとは限らない。ずれを補うための情報かもしれない」
「帰る場所が、分かるのですか」
律が尋ねた。
二つの声は、すぐには返らなかった。
「そこまでは、分からない」
CHUYUが言った。
「ただ、空一郎が来た道と関係する可能性がある」
律は重なった線を見つめた。
家の書庫で幾度も読んだ、帰れなかった人の名。
その人が、まだ帰るつもりで残した記録。
自分たちは今、その続きを読んでいた。
帰宅したとき、アンナは眠っていた。
机の上に、読みかけの本が伏せてある。
律は足音を抑え、上着を脱いだ。
寝台へ腰を下ろすと、彼女が目を開けた。
「おかえり」
「ただいま」
「何か、見つかった?」
「少し」
アンナは片手を差し出した。
律はその手を握った。
「明日、聞かせて」
「うん」
彼女は目を閉じかけ、もう一度開いた。
「無事で、よかった」
律は屈み、その額へ口づけた。
隣へ横になると、彼女が近づいてきた。
その温かさを感じながら、彼は天井を見た。
子へ残すものがある。
残さずに済ませたいものもある。
まだ何なのか分からず、次の人へ渡すしかないものもある。
研究所では、その夜も計算が続いていた。
扉は開かなかった。
だが、二枚の古い図を重ねた紙は、別々の箱へ戻されなかった。




