第九十九章 受け継ぐ手
娘が生まれた日、律は廊下の時計を三度見間違えた。
長針は、ほとんど動いていない。
それなのに、扉の向こうから人が出てくるたび、ずいぶん時間が過ぎた気がした。
「お座りください」
看護師に言われ、彼は椅子へ戻った。
数分後には、また立っていた。
窓の外を、路面電車が通った。
会社の会議へ遅れる者がいるだろう。
港へ向かう者も、新聞を買う者もいる。
世界は、普段通りに動いていた。
律だけが、その動きから外れていた。
泣き声が聞こえたとき、最初は別の部屋の子だと思った。
扉が開き、医師が顔を出した。
「お生まれになりました」
律は立ち上がった。
「アンナは」
「お疲れですが、落ち着いておられます」
彼は頷いた。
もう一度頷き、ようやく息を吐いた。
室内へ入ると、アンナは枕へ頭を預けていた。
髪が額に張りついている。
彼女は律を見て、弱く笑った。
「あなた、ひどい顔」
「君に言われるとは思わなかった」
「私は、理由があるもの」
律は寝台のそばへ膝をついた。
その手を握ると、アンナが握り返した。
いつものような強さはなかった。
それでまた、喉が詰まった。
「ありがとう」
ほかの言葉が、見つからなかった。
アンナは少し目を細めた。
「ええ。今日は、そう言ってもらうわ」
娘は、思っていたより軽かった。
抱かせてもらうとき、律は何度も手の位置を直された。
「首を、こちらで」
「はい」
「力を入れすぎなくて大丈夫です」
「はい」
アンナが寝台から見ていた。
「返事だけは、上手ね」
律は笑う余裕もなく、腕の中を見つめた。
赤い顔。
閉じた目。
唇が少し動いた。
その小さな手が、彼の指へ触れた。
握る力があった。
律は、動けなくなった。
「名前」
アンナが言った。
「今なら、決められそう?」
いくつか、二人で考えていた。
祖先から取る案もあった。
母の名を継がせたいと、律が言いかけたこともあった。
そのときアンナは、否定せずに尋ねた。
この子を呼ぶたび、誰を思い出したいの、と。
律は娘の手を見た。
「結」
静かに言った。
「ユイ」
アンナが繰り返した。
娘は目を開かなかった。
ただ、指を握ったままだった。
「どんな字?」
「糸のある字なんだ。結ぶ、と書く」
律は娘を抱き直し、空いた指で、掛布の上へゆっくり形をなぞった。
アンナはその指先を見ていた。
「この子に、何かを結ばせたいの?」
律は少し考え、首を横に振った。
「僕と君が出会って、この子が生まれた。そのことを、名前に残したい」
アンナは娘の頬へ指を寄せた。
「それなら、いいわ」
「公的な名は、ユリア」
律が言うと、彼女は両方の名を、小さな声で呼んだ。
「結。ユリア」
娘の眉が、わずかに動いた。
二人は顔を見合わせた。
「聞こえたのかな」
「そういうことにしておきましょう」
アンナは笑った。
出生を届ける書類には、以前なら必要だった欄がなかった。
皇位継承順位。
皇族としての称号。
宮廷での席次。
代わりに、父母の名と、子の名を書く。
律は筆を持ち、しばらく白い紙を見た。
アンナが隣から覗き込んだ。
「難しい?」
「字を間違えそうで」
「あなたが教えてくれた字でしょう」
彼は笑い、ゆっくり書いた。
柊結。
公的名、ユリア。
届出を受け取った役人は、二つの名を確かめた。
「こちらが、旧来の文字によるお名前ですね」
「はい」
「公文書では、ユリア様と」
役人は言いかけ、少し言葉を改めた。
「ユリアさんと記載いたします」
律は頷いた。
印が押された。
それだけだった。
退出したあと、律は廊下で立ち止まった。
アンナは娘を抱いたまま、彼を見た。
「何?」
「終わったんだね」
「届出?」
「うん」
彼女は彼の顔を見て、少しだけ頷いた。
「ええ。今度は、おむつを替えましょう」
祝いの品は、次々に届いた。
衣服。
銀の匙。
小さな寝台。
親族の一人からは、古い意匠の胸飾りが贈られた。
皇女が身につけるために作られたものだと、添え書きがあった。
律は箱を閉じた。
返すべきか迷っていると、アンナが言った。
「この子に、今つける必要はないわ」
「持っていても?」
「贈られたものとして残して、由来も書いておけばいい」
律は箱に、小さな紙を添えた。
誰から、いつ、何として贈られたか。
書きながら、自分たちは娘の最初の記録を作っているのだと思った。
いつか本人が、箱を開けられるようにしておく。
そのとき、どう受け取るかまでは、決めない。
結が生まれて一か月も経たないうちに、相続をめぐる提案が届いた。
娘の持分を保全するため、親族の管理下へ置く。
成人するまで、議決権は家の代表者が行使する。
その代表者を選ぶ資格は、一定以上の持分を持つ親族に限る。
律は最後まで読み、机へ置いた。
結は、隣の部屋で眠っていた。
自分の手も、まだ思うように動かせない。
その手が将来持つものを、すでに何人もの大人が数えていた。
親族会議で、律は別の案を出した。
子が受け継ぐ財産は、生活と教育を支えるために管理する。
ただし、その財産を持つことによって、会社の経営へ就く権利が自動的に生じることはない。
代表取締役の選任は、取締役会と株主総会の手続きに従う。
家の当主という呼称は残しても、経営上の命令権とは分ける。
「娘に、何も継がせないのか」
分家の男が尋ねた。
「財産は、継ぎます」
「責任は?」
「育つ前から、仕事を決めません」
「この家の子なのだぞ」
「はい」
律は答えた。
「でも、この子は、自分でこの家に生まれると決めたわけではありません。僕とアンナが、迎えたのです」
誰も、すぐには口を開かなかった。
やがて、卓の端の親族が言った。
「では、私たちの子が代表になっても、異論はないのだな」
「必要な能力と信任があるなら」
「あなたの娘ではなくても」
律は、その問いを受け止めた。
「はい」
その返事で、会議の空気が変わった。
王冠をめぐる争いは終わった。
だが、会社を率いる席には、まだ大きな力があった。
親族たちは、今、その席へ至る別の道を見つけた顔をしていた。
帰宅すると、結が泣いていた。
アンナは寝台の端へ座り、娘を抱いて揺らしている。
律が入ると、彼女は顔を上げた。
「代わって」
彼は急いで手を洗った。
娘を受け取ると、泣き声が少し大きくなった。
「僕では、駄目みたいだ」
「まだ、一息しか経っていないわ」
アンナは横になり、目を閉じた。
律は部屋を歩いた。
窓まで行き、戻る。
娘の頬が、自分の胸へ触れていた。
会議で何を言われたか、話すつもりだった。
だが、アンナの寝息が聞こえたので、やめた。
しばらくすると、結の泣き声も細くなった。
律は歩く速度を落とした。
この小さな身体を眠らせるために、今、自分ができることはそれだけだった。
初めて研究所へ連れていったのは、風の穏やかな午後だった。
娘のいる部屋には、中枢を置いていない。
上階の応接室へ、音声だけを繋いだ。
主任技師が、小さな籠を不思議そうに覗き込んだ。
「よく眠っていますね」
「家では、そうでもないんです」
律が言うと、アンナが隣で笑った。
CHUYUの声がした。
「結?」
娘は動かなかった。
「まだ、返事はしないわ」
アンナが言った。
「ええ。待つわ」
律は籠の布を少し直した。
善一AIが尋ねた。
「泣き声も、こちらへ聞こえるのか」
「たぶん」
「では、そのうち確認できるな」
主任が笑った。
律も笑った。
その声に驚いたのか、娘の眉が寄った。
全員が、同時に静かになった。
帰る前に、律だけが地下へ降りた。
測定記録の整理は、続いていた。
壁の印と、空一郎の転送記録。
二つを結びつける可能性は強まったが、まだ、どこへどう繋がるものかは分からなかった。
「娘が大きくなるころには、何か分かるでしょうか」
律が尋ねると、CHUYUはすぐには答えなかった。
「約束はできない」
「そうですね」
「でも、調べたことを残せば、その子が同じところから始めなくて済む」
律は机上の帳面を見た。
自分が初めて地下へ来たとき、そこにあったのは、読めない文字と止まった装置だった。
今は、動かすための手順がある。
壊れた部品の記録がある。
分かったことと、まだ分からないことを分けた目録がある。
「この子が、調べたいと思えば」
彼は言った。
「ええ」
CHUYUが答えた。
「そう思えば」
数年後、結に弟が生まれた。
柊連。
レン、と呼ぶと、幼い結は寝台のそばで、その名を何度も繰り返した。
「れん」
「そう。連よ」
アンナが答えた。
結は小さな弟を覗き込み、真剣な顔で尋ねた。
「おはなし、できる?」
「まだ、もう少し先ね」
娘は少し考えた。
「じゃあ、まつ」
律はアンナと顔を見合わせた。
彼女は笑い、結の髪を撫でた。
本社の会議室に律の肖像を飾る話が持ち上がったのは、その年の秋だった。
共和制への移行と、会社の成立を記念するためだという。
持ち込まれた下絵では、律は大きな机の前に立っていた。
背後には港と工場。
机上には、世界の地図。
アンナはそれを見て、しばらく黙った。
「何か、言っていい?」
「どうぞ」
「この人、家へ帰らなさそう」
律は吹き出した。
結局、写真館で撮った、少し顔のぶれた写真が原画の参考に加えられた。
絵には、妻も子どもたちも描かれなかった。
会社の肖像だからと、アンナが断った。
ただ、律の表情だけが変わった。
目の前にいない誰かの声を、聞いているような顔になった。
その肖像が掲げられた日、Holly Olive Corporationの株価は、過去最高をつけた。
新しい航路が開かれ、外国の工場との契約がまとまった。
新聞は、王冠を置いた当主が、王朝の時代を超える富を築いたと書いた。
同じ日の午後、親族の一部が、次期代表の候補を独自に推薦した。
提案書には、律の経営判断への批判が並んでいた。
労働者への過剰な譲歩。
研究所への長期支出。
家の利益より、公的な評価を重んじる傾向。
律は書面を読み終え、受領の印を押した。
その下へ、審議の日付を書いた。
止める権限はあった。
だが、自分で作った手続きを、最初に自分が破るわけにはいかなかった。
夜、結は床に座り、紙へ線を描いていた。
アンナが傍らで原稿を読んでいる。
少し離れた籠の中では、連が眠っていた。
律が帰ると、娘が顔を上げた。
「おかえり」
「ただいま」
彼は鞄を置き、隣へ座った。
「何を描いているの?」
結は紙を差し出した。
丸が四つ。
その下に、長い線が何本も伸びていた。
「これ、パパ」
「うん」
「ママ。ユイ」
娘の指が、最後の小さな丸へ移った。
「これ、レン。まだ、ちいさいから」
律は紙を見た。
王冠も、社章もなかった。
四人の区別は、大きさだけだった。
「もらっていい?」
結は頷いた。
アンナが原稿から目を上げた。
「会社へ飾る?」
「僕の机に」
「それなら、いいんじゃない」
律は紙の端を折らないように持った。
娘はもう、次の紙へ手を伸ばしていた。
同じ夜、研究所では、古い坑道の測定値が再び読み出されていた。
CHUYUが、過去の表と新しい表を重ねた。
善一AIが、差のある箇所を確かめた。
印の周囲で測られる値は、完全に一定ではなかった。
揺れには、繰り返しがあるように見えた。
「機器の誤差を、もう一度」
CHUYUが言った。
「環境の記録も要る」
善一AIが答えた。
結論は、出なかった。
ただ、二つの記録の間に引かれた線が、もう一本増えた。
扉は、まだ開かない。
翌朝のために整えられた作業台で、計器の小さな灯りが、静かに点り続けていた。




