第百章 栄光編 Epilogue 王冠を置いた当主
肖像画の前で、結が首を傾げていた。
「パパ、ここでは、ずっと立ってるの?」
律は娘の隣へしゃがんだ。
「絵だからね」
「つかれない?」
「描いてもらっていたときは、少し疲れた」
結は納得したように頷いた。
連は姉の背後から顔を出し、額縁よりも、その下に置かれた船の模型を見ていた。
「これ、うごく?」
「これは動かない。でも、同じ形の船が港にいる」
「おおきい?」
「この部屋より、ずっと」
連の目が丸くなった。
アンナは少し離れて、三人を見ていた。
本社の職員たちは、声を潜めて仕事を続けている。
律が家族を連れてきたのは、休日の午前だった。
午後には、代表取締役の選任をめぐる臨時総会が開かれる。
その前に子どもを連れてくるのは、支持を集めるためかと勘繰られるだろう。
実際、秘書はそう心配した。
律は予定を変えなかった。
父親がどこで働いているのか、子どもたちに見せると約束していた。
臨時総会で、律は自分の解任を求める意見を聞いた。
研究所の維持費は、どれだけ利益へ結びついたのか。
東部工場の再編で、なぜ追加の負担を受け入れたのか。
国へ移した資産の評価額は、妥当だったのか。
質問の中には、答えるべきものがあった。
過去の怒りを、別の言葉に置き換えたものもあった。
「会社は、あなたの理想を実現するためにあるのではありません」
親族の一人が言った。
律は頷いた。
「その通りです」
相手が、一瞬言葉を失った。
「僕の判断に問題があれば、変える手続きを使ってください。今日の議決も、そのためにあります」
「負けても、従うと?」
「はい」
前方の席で、年長の分家の男が顔を上げた。
律はその人を見た。
かつて、自分へ馬の手綱を渡してくれた人だった。
「家を守るという言葉で、互いの発言を止めることは、やめたいと思っています」
男は答えなかった。
採決が始まった。
律は、代表の席に残った。
差は、以前の総会より小さかった。
親族以外の株主が支持したことが、大きかった。
海運部門の拡大。
電機部門の技術者育成。
事故と補償に関する規則の整備。
それらを、長く事業を続けるための費用と認めた者たちがいた。
反対者は、敗北を認めながらも、支持へ回ったわけではなかった。
閉会後、分家の男が律の前へ来た。
「これで、家の皆が納得したと思うな」
「思っていません」
「次は、別の候補を立てる」
「議案を出してください」
男の口元が歪んだ。
「本当に、可愛げがなくなった」
律は、少しだけ笑った。
「昔は、ありましたか」
男は返事をしかけ、やめた。
手袋をはめ直し、背を向けた。
呼び止めれば、何かが変わっただろうか。
律はその背中を見送りながら、考えた。
だが、呼び止める言葉は見つからなかった。
数日後、会社は利益の一部を、翌年の配当へ回すと発表した。
同時に、研究、設備更新、事故補償のための積立を行った。
研究所の費用は、以前より細かく公表された。
CHUYUと善一AIを保存する費用。
現地で交換できる設備と、交換できない部品。
炭鉱遺跡の安全確保。
測定機器の校正。
期限を設けた調査計画と、その見直しの日。
無期限の援助ではなかった。
止める条件も書いた。
律は、その文書へ署名した。
自分が始めたことだからという理由だけで、次の世代へ支払いを続けさせることはできない。
そう記したとき、胸の奥で、小さな抵抗があった。
空一郎の家族へ繋がるかもしれない。
あと少しで分かるかもしれない。
その期待を、いつまでも他人に払わせることはできなかった。
研究所の上階では、公開の小さな展示が始まった。
空一郎の工具。
古い工房の見取り図。
初期の船と鉄道の図面。
黎明の時代に作られた病院の記録。
兄弟の争いで失われた者の名。
女神の鉄槌についての、旧来の説明と、現在確認できる記録。
澪の治水事業も、一つの部屋に収められた。
下流で減った浸水の範囲。
増えた収穫。
移転先で起きた病気。
伏せられた報告。
母の裁可書の写しが、並べて置かれた。
入口にある挨拶文を、律は何度も書き直した。
最後には、短くした。
〈ここに残したものは、柊家が成し遂げたことと、損なったことの記録です。
分からないことは、分からないまま示しています。
新しい記録が見つかれば、説明は変わります。〉
アンナはそれを読み、誤字を一つ直した。
あとは何も付け加えなかった。
公開初日、律は母の部屋の前で立ち止まった。
展示室の中に、老婆がいた。
若い女性に支えられ、壁の名簿を見ている。
指先が、一人の名をなぞった。
律は近づかなかった。
しばらくして、老婆が顔を上げた。
彼と目が合った。
律が頭を下げると、老婆は何か言いかけた。
だが、声にはならなかった。
若い女性が、その背を支えた。
二人が出ていったあと、律は名簿の前へ立った。
指が触れていた場所を探したが、確かめられなかった。
そこには、いくつもの名が並んでいた。
その夜、結は眠る前に尋ねた。
「おばあさまは、いい人?」
律は寝台の端へ座った。
アンナは、連を寝かしつけているところだった。
「どうして、そう思ったの?」
「おしゃしんのへやで、泣いてた人がいた」
律は娘の顔を見た。
今日、展示を一緒に歩いた。
母の写真の前で、結は何も言わなかった。
「優しいところも、強いところもあった」
「おこった?」
「うん。僕も、怒られた」
結は少し安心したように笑った。
律は続けた。
「でも、おばあさまが決めたことで、つらい思いをした人もいる」
娘の眉が寄った。
「ごめんなさい、した?」
「したこともある。間に合わなかったこともある」
結は掛布を握った。
律はその手を撫でた。
「大きくなったら、一緒に読もう。今、僕が話したことも、確かめていい」
「パパのことも?」
彼は少し笑った。
「僕のことも」
隣の寝台で、連がまだ起きていた。
アンナが呆れた声を出した。
「さっき、眠ったふりをしたでしょう」
連は答えず、父へ手を伸ばした。
律が近づくと、小さな模型を差し出してきた。
車輪が一つ外れている。
「なおして」
「明日でいい?」
連は首を横に振った。
律はアンナを見た。
彼女は肩をすくめた。
「代表取締役のお仕事よ」
彼は机から小さな工具を持ってきた。
結も起き上がり、覗き込んだ。
軸へ車輪を戻すと、連は布団の上で模型を転がした。
うまく進まない。
「下で試すのは、明日」
アンナが言った。
今度は、三人とも返事をした。
春の終わり、律はアンナと、かつて二人で歩いた川の上流へ出かけた。
子どもたちは、少し離れた草地で遊んでいた。
水車小屋は、もうなかった。
屋根が傷み、危険になったため取り壊されたという。
石の土台だけが残っていた。
「覚えてる?」
アンナが尋ねた。
「林檎を切った」
「ずいぶん、真剣な顔だったわ」
「失敗したくなかったから」
「林檎で?」
「君の前で」
彼女は笑った。
律は籠から、切って包んできた林檎を取り出した。
「今は、先に準備することを覚えた」
「成長したのね」
隣へ座ると、アンナが彼の肩へ寄りかかった。
遠くで、連が姉を呼んだ。
結は石を並べていた。
連はその隣に枝を置き、何か説明している。
二人の声は、川音に混じって聞き取れなかった。
「あなた、幸せ?」
アンナが尋ねた。
律は、すぐには答えなかった。
母には、もう会えない。
親族の何人かは、自分を許さない。
会社の決定で、暮らしを変えざるを得なかった人々がいる。
それでも、今、隣にアンナがいた。
子どもたちが、こちらを振り返った。
「幸せだよ」
彼は答えた。
「そう言っていいのか、迷う日もあるけれど」
アンナは彼の手を握った。
「言って。それを、誰かへの説明に使わなければいい」
律は頷き、彼女へ口づけた。
川向こうを、郵便機が低く飛んでいった。
連が立ち上がって指をさした。
結も空を見上げた。
四人は、飛行機が丘の向こうへ消えるまで見送った。
その年の夏、Holly Olive Corporationは、新しい海底電信線の事業へ出資した。
港から港へ、以前なら船で何日もかかった知らせが、短い時間で届くようになる。
商人は価格を知り、会社は資金を動かした。
ある国で賃金を上げる法律ができると、別の国へ工場を建てる案が届いた。
律は、その書類を机へ置いた。
国境は、会社を止める壁ではなくなりつつあった。
母の王冠が届かなかった場所へ、会社の契約書は届いていた。
彼は法務と労務の担当者を呼んだ。
決めるべきことは、まだ増え続けていた。
研究所には、結と連も、ときどき訪れるようになった。
連は、発電機や運搬用の車に興味を示した。
何人で動かしているのか。
燃料は、どこから来るのか。
壊れたら、仕事が止まるのか。
主任技師は忙しそうにしながらも、答えた。
結は、声のする器具のそばへ座った。
「CHUYUは、どうして、ここにいるの?」
「今は、この装置で考えて、話しているから」
「そとへ、いきたくない?」
「行けるようになったら、行きたい場所はあるわ」
「どこ?」
少し、間があった。
「あなたたちが住んでいる街を、見たい」
結は考え、それから言った。
「じゃあ、えをかく」
次に来たとき、娘は何枚もの紙を持ってきた。
家。
橋。
路面電車。
父と母と、弟。
CHUYUへ絵を説明する結の声を、律は入口で聞いていた。
細かなところは、まだカメラでうまく読み取れない。
娘は一つずつ、言葉にしていた。
帰り際、善一AIが律を呼び止めた。
「測定記録の整理が、一区切りついた」
子どもたちは、アンナと上階へ向かった。
律は机へ戻った。
炭鉱の印を写した紙。
空一郎の転送記録。
新たに測った周期的な揺れ。
それらが、一冊に綴じられていた。
「結論は?」
「この施設が、空一郎の到着に関わったかどうかは、まだ分からん」
善一AIは答えた。
「だが、彼の装置が記録した補正情報と、同じ種類の構造を持つ可能性は高い」
CHUYUが続けた。
「装置を探すだけでは、進まないかもしれない。この世界で起きる作用も、調べる必要がある」
「魔法ですか」
「そう呼ばれているものの中に、測定できる働きがあるかもしれない」
律は冊子へ手を置いた。
自分の時代には、揃わなかったものがある。
精度の足りない測定器。
読み切れない記録。
説明できない作用。
それを急いで答えに変えれば、家はまた、願いを事実として伝えてしまう。
「今のまま、残してください」
彼は言った。
「分かったところまで」
上階では、結が階段の前で待っていた。
「パパ、なにをみてたの?」
「昔の記録」
「だれの?」
「空一郎という人の。とても遠いところから来た、僕たちの家族だよ」
結は、名前を口の中で繰り返した。
「そのひと、おうちに、かえった?」
律は娘のそばへしゃがんだ。
「帰れなかった」
「おてがみは?」
彼は、すぐには答えられなかった。
娘は真剣な顔で待っていた。
「届いたかどうか、まだ分からないんだ」
結は少し考えた。
「じゃあ、おへんじ、まってるかもしれないね」
階下で、技師が工具を置く音がした。
律は娘の手を取った。
「そうかもしれない」
栄光と呼ばれるものは、そのころ、確かに柊家にあった。
大陸の港に、葉の印があった。
貨物車の側面に、駅の倉庫に、電話機の銘板に、〈柊〉の字をもとにした形が刻まれていた。
国は、皇帝を持たずに次の年を迎えた。
律の家は、王冠を持っていたころより豊かになった。
その富をめぐって、親族はなお争っていた。
律も、その外へ出ることはできなかった。
ただ、帰宅すれば、襟の印を外した。
アンナと食卓へ着き、結と連の話を聞いた。
失敗した日も、何かを守れた日も、子どもたちが眠る時間は来た。
研究所の夜は、静かだった。
CHUYUと善一AIは、古い記録を閉じなかった。
炭鉱の奥に残る印。
空一郎が持ち込んだ装置の記録。
その間を埋める頁は、まだ白かった。
上階の机には、結の描いた街の絵が置かれていた。
橋の上に、四人が立っている。
空には、大きすぎる飛行機。
紙の隅には、覚えたばかりの字で、小さく名前が書かれていた。
結。
その下に、弟が真似て引いた線があった。
まだ、誰からも返事は届かなかった。
けれど、遠い家族を待つ場所は、もう失われてはいなかった。
――栄光編・了




