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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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帰結編Prologue 第101章 灯りの向こう 遠い家族からの返事

これまでのあらすじ


 遠い世界で、一人の青年が帰れないまま生きた。その人生から始まった柊家の歴史は、四世代を経て、一つの国と、大陸を結ぶ巨大な企業を生み出すまでになった。


 だが、一族が富と力を得るほどに、始まりの願いは遠ざかっていった。


 誰かを救いたかったこと。

 離れた家族に、もう一度会いたかったこと。


 その願いだけは、古い研究記録と、眠り続ける装置の中に残されていた。


【始祖・空一郎と、初代・黎明の時代】「空一郎の帝国」から「「残された約束」


 柊空一郎は、祖父・葛城善一の研究に導かれ、事故で失われた祖母アヤを救おうと、過去への転移を試みる。しかし、たどり着いたのは目指した時代ではなく、魔法と剣が存在する異世界だった。


 帰還の道を失った空一郎を支えたのは、未来から持ち込んだ機材と、妹・宙結をもとにしたAI、CHUYU。そして、この世界で出会ったアリステリアだった。


 空一郎は科学の知識を使い、資源を掘り、工房を育て、交通と産業の礎を築いていく。その力は人々を救う一方、争いを制する手段にもなった。やがて彼は、この地で家庭を持ち、帰れない世界を、自分の家族が生きる場所として受け入れていく。


 空一郎の死後、初代当主となった黎明は、その知識と事業を受け継いだ。妻ミーナとともに人々の暮らしや医療を支え、柊家の基盤を固める。しかし、蓄積された富と、未来の機材が秘める力は、次の世代に争いの種を残した。


【復讐編  第二世代】「鉄の兄弟」


 黎明の後を継ぐ世代では、暁人と星司の兄弟、そして妹の灯花を中心に、一族の結びつきが揺らぎ始める。


 家を守るための判断と、奪われたものを取り戻そうとする復讐は、次第に見分けがつかなくなった。証拠を得るために続けさせた危険な取引は惨事を招き、生き残った星司は妻を失う。


 互いに守りたいものがあった兄弟は、同じ悲劇を違うものとして受け止めた。灯花の取りなしも、二人の間に刻まれた傷を埋めることはできない。


 柊家は力を保った。だが、その内側では、家族であることだけでは越えられない隔たりが生まれていた。


【野望編  第三世代・澪】「女帝と、黒い油」


 兄弟の争いの後に現れた澪は、ミレイナの名で帝位へ登りつめる。


 彼女は産業と交通を育て、国を立て直し、多くの人々の暮らしを改善した。その一方で、統治を進めるために切り捨てたもの、届かないままになった声もあった。


 女帝として力を得るほど、私人としての澪は、自分の人生を選べなくなっていく。愛するユリアンとは、身分と政治、果たすべき責任によって引き離された。


 それでも、二人の思いは消えなかった。


 長い歳月の末、ユリアンの危篤を知った澪は、女帝としての行列を捨て、一人の女性として列車に乗る。柊家が築いた鉄道は、かつて離れた二人を、再び会わせる道になった。


【栄光編 第四世代・律】 「王冠を置いた当主」


 澪の息子、柊律。公的名はリヒト。


 皇位継承者であり、柊家の事業を継ぐ青年でもある彼は、誰より自由に見えながら、誰より人生を選べない立場にいた。


 律は母を愛し、その統治によって救われた人々を知っていた。しかし、工場で左腕を失った少年エミルとの出会いから、家の繁栄を支える人々の声を聞き始める。


 恋人は、イグナーツの一族に連なるレグリアの新聞記者、アンナ・エステールだった。彼女は律を愛しながら、柊家の工場事故や労働者への扱い、政治への資金の流れを調べていた。


 記事を止めれば、家は守れるかもしれない。だが、それは、家族を守るために他人の声を塞いできた過去を繰り返すことになる。


 律は、アンナの取材を止めなかった。


 同じころ、彼は長く閉ざされていた保管設備の復旧を進める。現地で整えられる電源と冷却設備を用い、残された予備部品で接続を修復し、保存されていた未来の計算中枢へ、再び電力を通した。


 戻ったのは、姿ではなく声だった。


「黎明は、どこ?」


 CHUYUにとって、停止していた長い歳月は、目覚めた瞬間に大切な人を失う時間でもあった。律は、黎明がすでに亡くなっていることを伝える。


 さらに、空一郎が保管していた善一の研究記録に基づくレプリカAIへの接続も回復する。善一AIは、葛城善一本人ではないことを明言し、限られた記録と知識を持つ存在として、研究に加わった。


 CHUYUが示した原記録は、律の知る家史と食い違っていた。


 神罰として語られた「女神の鉄槌」は、人が条件を検討して行った攻撃だった。兄弟の争いには削られた経緯があり、事故報告からは人の名が抜け落ちていた。


 そして、母の治水事業にも、公式の完成報告には記されなかった死者がいた。


 下流を洪水から守った工事。そのために移転させられ、劣悪な環境で病に倒れた人々。母は病気の発生を知りながら工事の継続を裁可し、説明を統一する措置も了承していた。


 律は、母の功績を否定して罪だけを示すことも、愛する母のために記録を隠すことも選ばなかった。澪もまた、自らの署名を認め、調査を受け入れる。


 家の功績と、損なったものを、ともに残す。その作業は、統治の仕組みを問い直すことへ繋がっていった。


 国の財産、皇室の財産、柊家の事業は、長年の融通によって複雑に絡み合っていた。記録を公開するかどうかさえ、その記録に署名した君主自身が決めていた。


 律は会計の分離と監査を進め、やがて、皇位の世襲そのものを終える改革を支持する。


 澪は葛藤の末にそれを受け入れた。母の死後、律は即位を求める声を退け、定められた移行期間を経て、国は共和制へ進む。皇室と貴族の政治的特権は廃止された。


 柊家の事業は皇室から分離され、持株会社を中心とする企業群、Holly Olive Corporationとして成立する。


 柊の葉と〈柊〉の字を組み合わせた印は残った。だが、その印が政治上の権利を与えることは、なくなった。


 電力と送電網が広がり、工場には電動機が入り、自動車と貨物車が道路を走った。鋼鉄船が遠い港を結び、電話と無線が知らせを運び、空には郵便機が飛び始めた。


 柊家は、王冠を持っていたころを超える富を得る。


 その繁栄の中で、律は気づく。国境を越えて資金を動かし、工場を移し、町の暮らしを変える企業の力は、王冠を置くだけでは制御できない。


 親族の反発も消えなかった。彼らは王冠を失わせた律を恨み、今度は株式と議決権、経営者の席をめぐって争い始める。


 律は、自分への反対にも、自ら作った手続きを使うことを認めた。家の理想を守るための改革は、家族の心まで一つにはしなかった。


 その歳月の中で、律とアンナは結婚する。


 長女は、柊結――公的名ユリア。やがて、弟の柊連が生まれた。


 律は、財産を受け継ぐことと、人生の役割を受け継ぐことを分けようとした。子どもたちが何を選ぶかは、本人たちに残したかった。


 研究所では、CHUYUと善一AIが、炭鉱遺跡の古い測定記録を読み続けていた。


 坑道の壁に刻まれた印。その構造の一部が、空一郎の転送記録と似ている。まだ意味は分からず、扉も開かない。それでも、帰れなかった始祖の旅路と、この世界の地下に残されたものとの間に、細い繋がりが見え始めていた。


 幼い結は、父に尋ねる。


「そのひと、おうちに、かえった?」


 律は、帰れなかったと答えた。


 すると娘は、少し考えて言った。


「じゃあ、おへんじ、まってるかもしれないね」


 王冠を置いた父が残したのは、かつてない富と、解けなかった争い。そして、まだ返事の届かない、遠い家族への道だった。

柊家第5世代 main cast:柊結〈ユイ〉/公的名ユリア (律とアンナの娘)

 

列車の窓に、街の灯りが流れていた。

 柊結は、膝の上に開いた帳面から顔を上げた。

 川に架かる鉄橋。その向こうの発電所。煙突の赤い標識灯。対岸には百貨店の時計塔があり、その壁面を照らす電球が、まだ夕闇の残る空に白く浮かんでいる。

 橋の下を、貨物船が一隻くぐっていった。

 船腹には、柊の葉をかたどった印があった。

 Holly Olive Corporation。

 幼い頃、結はそれを、自分の家の名前だと思っていた。

 駅にも、病院にも、機関車にも、遠い町から届く木箱にも、同じ印があった。父の机に積まれる封筒にも、母が連れていってくれた学校の門にも。

 世界には、自分の家がたくさんある。

 そう言うと、母は笑った。

 父は、少し困った顔をした。

 その理由が、今ならわかる。

 結は窓際に置いていた新聞を折った。

 第一面には、沿岸航空路の定期運航開始が大きく報じられている。三面には、山間部の診療所が医師の退職によって閉鎖されたという小さな記事があった。

 同じ国で、同じ日の出来事だった。

「また、それを読んでいるの」

 向かいの席で、アンナが尋ねた。

「うん」

「飛行機の記事?」

「その裏」

 母は手を差し出して新聞を受け取った。記事を見つけるまでに、少し時間がかかった。

「小さいわね」

「村から次の診療所まで、歩いて半日だって」

 車輪が継ぎ目を踏んだ。

 規則正しい音が、二人の間を通り過ぎていく。

「うちの会社の線路は、近くまで通ってる」

 結が言うと、アンナは新聞から目を上げた。

「蓮も、その話をしていたわ」

「蓮が?」

「駅から村へ、自動車を走らせられないかって。道路の修繕費を調べているそうよ」

 結は、何も言わなかった。

 弟の机に積まれた帳簿を思い出した。

 あの数字のどこかに、山の村の道も入っていたのだろうか。

     

 終着駅の正面には、大きな電光看板があった。

 列車を降りた人々の頭上で、会社の名が明滅している。

 その下を、仕事帰りの男たちが歩いていた。旅行鞄を抱えた家族がいた。荷車を引く老人が、道を横切ろうとして自動車に警笛を鳴らされた。

 結は立ち止まった。

 看板の葉の縁を、小さな光が順番に走っていく。

 あの印の始まりを、結は知っていた。

 古い記録に残っている。

 まだ会社と呼べるほどのものもなかった頃、一人の青年が、この世界では誰も読めない文字を書いた。

 柊。

 その文字を、妻が覚えた。

 子どもが覚えた。

 工房の人々が、荷に付ける印として使った。

 やがて線路に掲げられ、船に描かれ、海の向こうへ運ばれた。

 いまでは、その名を知らない商人を探す方が難しい。

 けれど、その文字を書いた青年が、どこから来たのか。

 誰のもとへ帰りたかったのか。

 正確に答えられる者は、ほとんどいなかった。

「結」

 母に呼ばれ、結は歩き出した。

 家ではユイ。

 学校や研究所ではユリア。

 二つの名を持つことに、不自由を感じたことはなかった。ただ、ときどき考える。

 最初にこの文字を書いた人は、自分の名を呼ぶ声を、どれほど長く聞けずにいたのだろう、と。

     

 夕食のあと、父の書斎には、まだ灯りがついていた。

 王冠を置いてからも、律の机が片づくことはなかった。

 議会へ返す書簡。各地の事業所から届く報告。署名を待つ契約書。結が幼い頃から見慣れた光景だった。

 変わったのは、父の背後に掛けられていた肖像画が外され、そこに大きな路線図が置かれたことだった。

 蓮が、その地図の前に立っていた。

 袖をまくり、鉛筆を耳に挟んでいる。

「帰っていたんだ」

 結が言うと、弟は振り返った。

「姉さんこそ。測量は?」

「明日から。今日は資料を取りに来た」

「例の輪?」

「まだ、輪の一部しか出ていないけど」

 蓮は頷き、机の上の紙を一枚取り上げた。

「研究所から、追加の見積もりが来てる」

 結は、その紙に見覚えがあった。

 自分が提出したものだった。

「発電設備が必要なの。町の送電線から取ると、測定のたびに電圧が変わる」

「専用の発電機と、坑道の補強。それから計測室」

「湿度を一定にしないと、同じ条件で測れない」

「わかってる」

 蓮は紙を置いた。

「わかってるけど、今年は全部は出せない」

 結の手が、鞄の留め金の上で止まった。

 父は口を挟まなかった。

「まだ、何を調べているかの説明もしていない」

「報告書は読んだよ」

「それだけでわかるものじゃない」

「じゃあ、説明して」

 弟の声は静かだった。

「何ができるようになる?」

 結は答えようとした。

 けれど、すぐには言葉が出なかった。

 遺跡に刻まれた印。

 空一郎の転送記録に残る、説明のつかない偏り。

 魔法を使ったときにだけ、わずかに変わる測定値。

 それらが無関係だとは、どうしても思えなかった。

 だが、関係があると証明するための装置が、まだなかった。

「それを、確かめたいの」

 蓮は俯いた。

 耳に挟んでいた鉛筆を取り、指の間で一度回した。

「姉さん。西の車両工場で、先月、賃金の支払いが遅れた」

「……聞いてる」

「取引先から金が入らなかった。会社全体では利益が出ていても、工場の金庫には金がなかったんだ」

 結は父を見た。

 律は頷いた。

「立て替えは済ませた。だが、蓮が言う通りだ」

「研究費を出したせいで、遅れたわけじゃないでしょう」

「そうだよ」

 蓮はすぐに答えた。

「でも、払えるものを全部払っていたら、次に立て替える金がなくなる」

 机の端には、工場から届いた手紙があった。

 結の見積書と、同じ厚さの紙だった。

「研究をやめろとは言っていない」

「では、何を減らせばいいの」

「一緒に決めたい」

 結は、紙へ手を伸ばしかけてやめた。

 弟は昔から、彼女の作ったものを最初に試す子だった。

 小さな電動車も、屋根裏から飛ばした模型飛行機も。

 失敗して壊れるたびに、姉より先に駆け出して拾いにいった。

 いま、その弟が、自分の研究を止める側に立っている。

 結には、それが思っていた以上に堪えた。

「資料を取ってくる」

 そう言って、彼女は書斎を出た。

 廊下まで来てから、父が何か言う声が聞こえた。

 蓮の返事は聞こえなかった。

     

 地下の保管室には、地上の電車の響きがかすかに伝わってきた。

 結は扉を閉め、壁のスイッチを押した。

 新しい電灯が、古い机を照らした。

 その机だけは、何度移されても捨てられなかった。傷だらけの天板に、熱い器具を置いた丸い跡がある。引き出しの一つは、少し持ち上げなければ開かない。

 空一郎が使っていた机だった。

「こんばんは」

 結が声をかけると、奥の機器に小さな光がともった。

『こんばんは、結』

 CHUYUの声がした。

 少し遅れて、別の声が続いた。

『また、こんな時間かね』

「まだ夜中じゃないわ」

『そう言う者ほど、夜中まで帰らん』

 善一AIの小言に、結はようやく笑った。

 鞄から観測帳を取り出し、机に広げる。

「今日の記録を見てほしいの」

『遺跡の測定ですか』

「うん。魔法を使ってもらったときの値。でも、その前に」

 結は椅子に座った。

 言うつもりのなかったことが、口から出た。

「この研究は、そんなに役に立たないかな」

 しばらく、機器の冷却音だけがした。

『何をもって役に立つとするかによる』

 善一AIが答えた。

「蓮は、工場の人の給料の話をした」

『それは大事な話だ』

「わかってる」

『君の研究が大事であることと、弟の話が大事であることは、両立するよ』

 結は、帳面の角を指で押さえた。

「……おじいさんなら、もう少し私の味方をしてくれると思った」

『私は君の祖父ではない』

「知ってる。始祖のおじいさん」

『それも、正確には本人ではないがね』

 いつものやり取りだった。

 けれど、その夜は、最後の言葉が胸に残った。

 本人ではない。

 ここにある声は、誰かが残したものだ。

 残されたから、自分は聞ける。

 空一郎も、この声を聞いていた。

 結は保管棚へ目を向けた。

「空一郎の記録を出して」

『どの時期のものを?』

「最初の頃。まだ、帰るための実験をしていた頃のもの」

 CHUYUが記録を探す間、結は机の引き出しを開けた。

 持ち上げて、少し右へ引く。

 中には、複製を作るために何度も開かれた手帳が収められていた。

 紙の端は擦れ、綴じた糸は補修されている。

 結は、そこに並ぶ文字を読んだ。

 計算式。

 部品の寸法。

 試験の失敗。

 そして、ときどき、研究とは関係のない短い言葉。

 アリステリアが怒った。

 今日は花が咲いた。

 父さんなら、ここをどうするだろう。

 結は、一つの頁で手を止めた。

 隅に、小さく書かれていた。

 ――着いたと知らせるだけでも、できないか。

 その下には、通信に使えるかもしれない条件がいくつも並び、ほとんどに線が引かれていた。

「……知らせたかったんだ」

『はい』

 CHUYUが答えた。

『初期には、帰還実験と並行して通信を試みていました』

「成功は?」

『確認できていません』

 結は、その答えを聞きながら頁をめくった。

 いつか帰る。

 帰れなくても、無事だと知らせる。

 どちらもできないまま、彼はこの机に向かっていた。

 地上で、列車が通った。

 微かな振動が机の脚を伝わり、開いた紙を震わせた。

 あの人が作り始めた鉄道だ、と結は思った。

 それがいま、この人の手帳を揺らしている。

『結』

 CHUYUの声に、彼女は顔を上げた。

『本日の測定記録に、確認が必要な箇所があります』

「誤差?」

『その可能性があります。ただし、同じ変化が三度あります』

 結は観測帳を引き寄せた。

 三つの時刻に印がついていた。

 いずれも、共同研究者が輪のそばで魔法を使った直後だった。

「記録計の遅れじゃない?」

『比較用の時計には、同じ変化がありません』

 眠気が消えた。

 結は椅子を寄せ、鉛筆を取った。

 機器の故障。

 振動。

 電源の揺れ。

 一つずつ書き出していく。

「明日、もう一度測る。魔法を使わない条件も増やして」

『承知しました』

「それから、古い転送記録も。元の数値を見たい。後から整理した表じゃなくて」

 返事を待ちながら、結は手帳へ目を戻した。

 着いたと知らせるだけでも、できないか。

 その一行の横には、小さな染みがあった。

 水か、油か。

 いまとなっては、誰にもわからなかった。

     

 階上では、蓮がまだ父の書斎にいた。

 追加見積書の横に、別の紙を置く。

 発電機の購入を延期した場合。

 借り受けた場合。

 工場の予備機を運び込んだ場合。

 三つ目の案には、輸送費と修理費が書き込まれていた。

「姉さんは怒ったね」

 蓮が言った。

「ああ」

「僕も、少し怒った」

 律は息子を見た。

 蓮は見積書を揃えた。

「わからないんだ。会ったこともない人のために、どうしてあそこまで」

 律はすぐには答えなかった。

 机の向こうには、子どもたちが幼かった頃の写真が置かれていた。

 結が模型飛行機を抱えている。

 蓮は、その翼の折れた部分を、両手で押さえていた。

「明日、その代案を持っていきなさい」

「父さんから話してくれない?」

「お前が考えた案だ」

 蓮は困った顔をしたが、やがて頷いた。

     

 街の灯りが一つずつ消えていった。

 駅の看板も、百貨店の窓も暗くなった。

 遠くの村では、最後のランプの芯が落とされた。

 地下の保管室では、まだ鉛筆の音が続いていた。

 結は新しい帳面を開き、最初の頁に日付を書いた。

 次に、研究の仮題を書こうとして、手を止めた。

 転送。

 接続。

 座標。

 どの言葉も、まだ大きすぎた。

 彼女は古い手帳を見て、短く書いた。

 通信の可能性について。

 その下に、もう一行。

 最初に、何を伝えるか。

 結はしばらく考えた。

 始祖の業績なら、書ききれないほどある。

 工房。船。病院。鉄道。

 けれど、もし自分が、帰ってこない家族を待っていたなら。

 真っ先に知りたいのは何だろう。

 結は鉛筆を動かした。

 柊空一郎は、この世界で生きました。

 そこまで書いて、止まった。

 過去の誰かに読んでもらうことなど、このときの彼女はまだ考えていなかった。

 ただ、その一行を消す気にはなれなかった。

 結は頁を開いたまま、明日の測定の準備に取りかかった。


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