第102章 同じ時刻を刻むもの
翌朝、研究所の玄関には、結より先に蓮が来ていた。
足元に旅行鞄が一つ。脇には、紐で括った図面筒を抱えている。
「何をしているの」
「待ってた」
「見ればわかる」
「じゃあ、聞かないでよ」
昔なら、ここでどちらかが笑った。
今朝は、二人とも笑わなかった。
結は玄関の鍵を開けた。蓮が後ろからついてくる。
研究所は、かつて測量技師の詰所だった建物を改修したものだった。外壁には新しい塗装が施されていたが、階段は歩くたびに鳴った。廊下の奥では、夜勤明けの助手が湯を沸かしていた。
結は自室へ入り、窓を開けた。
「予算の話なら、帰ってからでいい?」
「帰ってからだと、また地下に逃げるだろ」
「逃げていない」
「じゃあ、十分だけ」
蓮は図面を広げた。
発電機だった。
結は鞄を置くのも忘れて、机へ近づいた。
「これ……西の車両工場の?」
「予備機。新しい設備に替えてから、倉庫に入ってる」
「出力は足りる。でも回転が安定しないと」
「だから、こっち」
蓮が二枚目の紙を出した。
調速機と、蓄電池の仕様書だった。
「工場の電気主任に相談した。直接つなぐより、一度こっちを通した方がいいんじゃないかって」
結は紙を引き寄せた。
昨夜、自分が計算していた条件と照らし合わせる。
使えるかもしれない。
そう思った瞬間、顔に出たらしかった。
「その顔なら、見当違いじゃなかったね」
「……運搬は?」
「会社の貨物列車に載せる。ただし、坑道までの道は別だよ。橋がもつか、先に調べてもらう」
「費用は」
「ここ」
蓮の指が、紙の端を押さえた。
結の申請額より小さい数字だった。
だが、その下には、購入ではなく借用と記されていた。修理と管理の責任は研究所。工場で必要になれば返却する。
「専用機を買う話は、保留になる」
蓮が言った。
「その代わり、これで測れるところまで測って、次を説明してほしい」
結は仕様書を読み返した。
昨夜、弟に向かって言った言葉を思い出す。
何を減らせばいいの。
その答えを、弟は一晩かけて持ってきたのだった。
「ありがとう」
蓮は、少し目を伏せた。
「まだ動くかわからないよ」
「それでも」
廊下で、助手が咳払いをした。
「お茶をお持ちしましょうか」
二人は同時に振り返った。
助手は湯呑みを二つ持っていた。
坑道へ向かう自動車は、舗装の切れ目で大きく跳ねた。
結は観測箱を押さえ、蓮は天井に頭をぶつけかけた。
「これを毎日?」
「雨の日は、もっとひどい」
「発電機を運ぶ前に、道が壊れそうだな」
「だから、申請書に道路の補修も入れたの」
「そういうことは、もっと目立つところに書いてよ」
「三頁目に書いてある」
「三頁目は計算式だった」
「その下」
運転手が、前を向いたまま肩を揺らした。
やがて、山の斜面に古い炭鉱の建物が見えてきた。
選炭場の屋根は半分落ち、使われなくなった軌道の間には草が生えている。だが、その奥の坑口だけは、新しい支柱で補強されていた。
坑口の前に、一人の若い女性が立っていた。
厚い作業着を着て、髪を布でまとめている。片手には測量用の標尺。もう一方には、包みを二つ提げていた。
「遅かったわね」
「道が悪くて」
「道のせいだけ?」
女性は助手席の蓮へ目を向けた。
結が紹介した。
「弟の蓮。こちらは、共同研究者のリディア」
「姉がお世話になっています」
「それは、お互いさま」
リディアは差し出された手を握った。
手袋を外した指には、小さな擦り傷がいくつもあった。
「昼食は食べた?」
「まだです」
「よかった。三人分ある」
結が顔を上げた。
「私たち、二人で来るって知らせていないけど」
「あなたは、お昼を忘れてくるでしょう」
リディアは包みを持ち上げた。
「予備よ」
輪は、坑道の最も古い部分にあった。
初めて訪れたとき、蓮はもっと壮大なものを想像していたらしい。
「これ?」
岩壁に埋もれた石の曲面を見て、そう言った。
「まだ一部しか出していない」
結は灯りを近づけた。
煤けた石に、細い溝が走っていた。自然の割れ目には見えない。何本もの線が等しい間隔で並び、そのうちの数本だけが、途中で折れ曲がっている。
蓮は腰を屈めた。
「飾りじゃないんだね」
「たぶん。でも、用途はわからない」
「姉さんが、わからないって言うと安心する」
結が睨むと、弟はすぐに付け加えた。
「悪い意味じゃないよ」
少し離れた場所に、計測机が置かれていた。
時計が三つ。
振り子式の標準時計、小さな電気時計、それから、保存機材を接続した記録装置。
記録装置から延びた線は、輪の手前の三脚へつながっている。
蓮は、机の上を眺めた。
「何を測るの」
「ここで起きたことが、どの順番で記録されるか」
「昨日は?」
「順番は同じ。でも、間隔が合わないところがあった」
結は昨夜の帳面を開いた。
「この値だけなら、故障かもしれない。だから今日は、装置を入れ替える。線も替える。魔法を使わない時間も測る」
「魔法を使うのは、彼女?」
リディアは頷いた。
「私の家では、昔から少し使えるの。役に立つのは、火を起こしたり、井戸の具合を調べたりするくらいだけど」
「それでも、便利ですね」
「便利だからって、一日中やっていると倒れるわ」
蓮は、彼女の手元を見た。
「お怪我を?」
「昨日、支柱に挟んだの」
リディアは笑った。
「魔法を使えても、ぼんやりしていると怪我はする」
最初の測定では、何も起きなかった。
二度目も、三度目も同じだった。
結は記録紙へ時刻を書き込み、助手に電源の電圧を読み上げさせた。
蓮は、初めのうちは壁際に立っていたが、やがて予備の椅子を持ってきて座った。
坑道には、水滴の落ちる音がしていた。
「退屈でしょう」
結が言うと、弟は首を振った。
「工場の点検も、だいたいこんな感じ」
「もっと、機械が動くんじゃない?」
「動かないのを待つ方が長い」
結は笑いそうになり、記録紙へ目を戻した。
四度目。
リディアが輪へ近づいた。
彼女は石に触れず、掌を向けた。
結には、光も風も見えなかった。
リディアの呼吸が少し深くなる。
針が揺れた。
「今」
結が言った。
助手が時刻を読み上げる。
記録装置の紙に、細い線が刻まれた。
その瞬間だった。
結の背後で、小さな音がした。
硬いものが、木を叩く音。
振り返ると、保管機材の箱の蓋が、わずかに開いていた。
「今のは?」
蓮が立ち上がった。
「触らないで」
結は先に箱へ向かった。
中には、この日の測定には使っていない部品が入っていた。
空一郎の転送記録との比較のため、保管室から持ち出した旧機材だった。長いあいだ動かしておらず、接点の一部は保護材で包まれている。
結は箱の底を見た。
小さな留め具が一つ、外れていた。
「運んだときに緩んだのかな」
蓮が言った。
結は頷きかけた。
だが、リディアが掌を下ろすと、箱の中で、もう一度音がした。
今度は三人とも見ていた。
薄い金属片が、かすかに震えた。
結は、その日のうちに現象へ名前をつけなかった。
記録紙にも、「反応」とは書かなかった。
箱内の金属部品に振動。
そう書いて、時刻を添えた。
そのあと、箱を別の机へ移した。
輪から遠ざけた。
向きを変えた。
部品を外し、一つずつ置いた。
同じ手順を繰り返すうちに、リディアの額に汗が浮いた。
「今日は、ここまで」
結が言った。
「まだできるわ」
「手が震えてる」
リディアは自分の指を見た。
それから、黙って椅子に座った。
蓮が水筒を差し出した。
結は記録をまとめた。
確かなことは、ほとんどなかった。
振動は毎回起きるわけではない。
強さも一定ではない。
だが、旧機材を輪から離すと、確認できなくなった。
そして、近づけたときにだけ、再び起きた。
「何か、つながったの?」
蓮の問いに、結は首を振った。
「まだ、そうは言えない」
「でも、姉さんが昨日言おうとしたのは、こういうこと?」
結は、机の上の小さな金属片を見た。
「うん」
蓮も、それを見た。
会社を動かすものにしては、あまりに小さかった。
何千人もの賃金と比べるには、頼りなかった。
それでも、姉が何を見つめているのか、初めて少しわかった気がした。
帰宅したのは、夜だった。
結は外套を脱ぐと、そのまま地下へ降りた。
蓮から渡された仕様書は、鞄のいちばん上に入っていた。折れないよう、観測帳の間に挟んである。
「CHUYU、記録を見て」
『準備できています』
結は数値を読み込み、坑道で起きたことを説明した。
善一AIは、途中まで黙って聞いていた。
『旧機材の識別番号は?』
結が答えると、画面に古い図面が出た。
『転送装置の周辺機器に用いられていた部品だ。ただし、それ単独で転送を起こす機能はない』
「輪の方にも?」
『断定はできん。少なくとも、今日の結果から人や物を送れるとは考えない方がいい』
「そうね」
結は椅子に深く座った。
興奮が少しずつ引いていくと、手足の疲れが戻ってきた。
地下室の隅には、布の掛かった大きな保管台があった。
昼間、蓮と並んで立ったときのことを思い出したせいか、その布の下の形が、今夜は妙に気になった。
結は立ち上がった。
端を持ち上げる。
古い義体の右手が現れた。
人の手に似せて作られた指は、半ば開いたまま止まっていた。手首の継ぎ目には、修復を試みた古い痕がある。
結は子どもの頃、この手が動くのを見たことがなかった。
「CHUYU」
『はい』
「あなたなら、今日の部品を持って、確かめられた?」
返事までに、いつもよりわずかな間があった。
『義体が正常であれば、振動や温度の変化を、その場で測定できた可能性があります』
「そう」
結は布を戻しかけた。
だが、手を止めた。
先ほどまで、リディアが疲れた指を水筒に巻きつけていた。
蓮が図面を広げていた。
自分は、石に触れて、その冷たさを確かめた。
ここにいる声だけが、いつも誰かの報告を待っている。
「直すとしたら、どこから?」
『結』
CHUYUが呼んだ。
『今日の記録の解析が先です』
「わかってる。今日は分解しない」
『それなら、まず既存の修復記録を確認してください』
画面の端に、別の目録が開いた。
結は机へ戻り、その表題を書き写した。
義体保守記録。
最後の追記の日付は、ずっと昔だった。
『手を広げすぎるなよ』
善一AIが言った。
「あなたも、その手を使ってみたくない?」
室内が静かになった。
結は振り返った。
「……無理?」
『無理かどうかは、設計を見なければわからん』
善一AIの返事は、いつも通り慎重だった。
だが、そのあとに続いた言葉は、少し違っていた。
『まずは、指一本だ』
結は、小さく笑った。
「ええ。まずは、そこから」
机の上には、三つのものが並んでいた。
坑道で採った記録。
弟が持ってきた発電機の仕様書。
そして、長く開かれていなかった義体の図面。
結は灯りを手元へ寄せた。
今夜は、まだ読むべきものがあった。




