第103章 右手の記憶
最初に外れたのは、指ではなく、ねじの頭だった。
小さな音がして、金属の欠片が作業布の上へ落ちた。
結は工具を持ったまま、しばらく動かなかった。
『力を掛けすぎました』
CHUYUが言った。
「先に言ってほしかった」
『三秒前に警告しました』
「三秒では止まれないこともあるの」
『それは、工具を使う者としては困るな』
善一AIが口を挟んだ。
結は拡大鏡を持ち上げた。
義体の右手首。
その内側にある保護板を外すだけで、一時間以上かかっていた。
人の肌を模した外装は、長い年月で硬くなっている。関節を覆う薄い素材には亀裂があり、かつて柔らかかったはずの指先も、触れると乾いた音がした。
幼い頃、結は、この義体が眠っているのだと思っていた。
CHUYUの声は別の場所から聞こえるのに、なぜ身体だけが眠っているのか。
父に尋ねたことがある。
父は、直せる人がいないのだと答えた。
それなら、自分が大きくなれば直せる。
結はそう思った。
大きくなったいま、最初のねじ一本さえ、うまく外せずにいた。
「この時代の工具で触っていいものかしら」
『いま、それを考えるのかね』
「作業を始める前から考えているわ」
結は折れたねじを小皿へ移した。
外したものは、壊れたものも含めて、すべて順番に並べる。
善一AIが繰り返し言ったことだった。
捨てるのは、何のためにあったかがわかってからにしなさい。
右手首の保護板が外れたのは、翌日の午後だった。
結一人の仕事ではなかった。
研究所の助手が固定具を作り、鉄道工場から借りた細い工具を使い、最後は時計職人に来てもらった。
白髪の職人は、地下室へ降りると、まず義体を見た。
次に、周囲の機器を見た。
そして、結を見た。
「時計ではありませんね」
「細かいものを扱う方だと伺って」
「歯科医も細かいものは扱います」
「お願いしたら、引き受けてくださいました?」
「断ったでしょうな」
職人は鞄を置いた。
「ですから、先に見せなかったわけですか」
結は返事に困った。
職人は短く笑うと、椅子を引いた。
彼が持ってきた工具は、布に一本ずつ包まれていた。
どれも長く使い込まれ、柄の部分だけが滑らかに光っている。
「動かしたいのは、この手ですか」
「まずは、指一本を」
「よろしい」
職人は拡大鏡を目に当てた。
「最初から全部とおっしゃる方は、たいてい全部壊します」
壁の機器から、善一AIの咳払いが聞こえた。
結は聞こえなかったふりをした。
保護板の内側には、二種類の時間があった。
製造時のまま残された、細かな部品。
そして、この世界の工具で直された痕。
細い配線の横に、手で削ったらしい金属片が挟まれている。寸法は驚くほど正確だったが、その表面には、やすりの目が残っていた。
「これは、元の部品ではないですね」
職人が言った。
『はい』
CHUYUが答えた。
『空一郎が製作した補助部材です』
結は顔を上げた。
「空一郎が?」
『右手の保持力が不安定になった際、代替部品として取り付けました』
「いつ頃?」
示された記録の日付を、結は帳面に書き留めた。
空一郎がこの世界に来て、まだそれほど経っていない頃だった。
鋼材も、工作機械も、いまほど揃っていなかったはずだ。
結は金属片へ灯りを当てた。
薄い縁の一か所に、浅い傷があった。
工具を滑らせた痕のようにも見えた。
「これを残したまま、動いていたの?」
『長期間、問題なく使用できました』
職人が低く唸った。
「いい仕事です」
結は、もう一度その部品を見た。
始祖の肖像画に、こんな小さなものは描かれていない。
街の看板にも、会社の沿革にも、載らない。
誰かの手が動くように、一人の青年が金属を削った。
その痕が、目の前にあった。
夕方、蓮が地下へ来た。
階段を降りきったところで、立ち止まった。
「……人が増えてる」
机を囲む結と助手と時計職人を、順番に見た。
「研究所の備品では直せなくて」
結が言うと、蓮は義体へ目を移した。
「坑道の機械じゃないんだね」
「今日は、こっち」
蓮は少し黙った。
結には、その沈黙の理由がわかった。
発電機を用意する話をしたばかりだった。
その翌日には、別の仕事を始めている。
「費用は、私の分から出す」
結が先に言った。
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてあった」
「顔で決算はしないよ」
蓮は机へ近づき、並べられた部品を見た。
時計職人が、椅子を少しずらして場所を空けた。
「これが、CHUYUの身体?」
『その通りです、蓮』
声を聞いても、義体は動かなかった。
蓮は、その顔を見つめた。
結と同じく、彼もこれが動くところを知らない。
「全部、直るの?」
「まだわからない」
「指一本なら?」
「それも、まだ」
蓮は頷いた。
鞄から書類を出し、机の空いた端へ置いた。
「発電機の点検が済んだ。運べるのは、早くても来週」
「ありがとう」
「それから、橋の補強が要る。研究所だけのために直すと申請が通りにくいけど、地元の運送業者も困ってるそうだから、共同で出す」
結は書類へ手を伸ばした。
裏面には、村役場の担当者の名が書かれていた。
「そこまで調べたの」
「運ぶって言ったからね」
蓮は鞄を閉じた。
帰ろうとして、もう一度、義体の右手を見た。
「動いたら、教えて」
最初の通電では、何も動かなかった。
結は、少しほっとした。
予想外の動きをして、古い関節を壊す方が怖かった。
電源を切り、温度を確かめる。
配線を調べる。
職人が拡大鏡の下で接点を覗いた。
「こちらは通っています」
『指令は右手の制御部まで到達しています』
CHUYUが言った。
「では、その先」
『記録上、右手の駆動系には複数の故障があります。今回復旧したのは、その一部です』
「一部ずつしか直せないもの」
結は椅子へ座り直した。
時計職人は、義体の指をそっと支えた。
「このまま、もう一度」
結は電源を入れた。
人差し指の付け根で、微かな音がした。
動きはなかった。
だが、職人が目を細めた。
「いま、力が掛かりました」
結は息を止めた。
「もう一度、同じ指令を」
『実行します』
音がした。
職人の指の下で、義体の人差し指が、ほんの少し曲がった。
結は立ち上がりかけ、机に膝をぶつけた。
工具が鳴った。
『結。机を揺らさないでください』
「わかってる」
声が裏返った。
職人は指を支えたまま、笑った。
「見ましたか」
「見た」
結は頷いた。
「見ました」
助手が、記録用の時計を確かめた。
時刻を告げる声まで、少し弾んでいた。
喜んでいられたのは、三秒ほどだった。
『停止してください』
CHUYUが言った。
結はすぐに電源を落とした。
右手首の奥が、熱くなっていた。
職人が手を離す。
微かな、焦げた匂いがした。
誰も喋らなかった。
結は灯りを近づけた。
新しくつないだ線ではなかった。
そのさらに奥、外からは見えなかった部分で、古い絶縁材が傷んでいた。
「……ここも」
言ってから、結は唇を噛んだ。
直した箇所が動くようになったために、次の故障へ電気が届いたのだった。
職人は道具を置いた。
「今日は、ここまでですな」
「でも」
「見つけるべきものは、見つかりました」
結は椅子に座ったまま、右手を見た。
指は、少し曲がった位置で止まっている。
動かなかったときより、その姿がつらかった。
『結』
CHUYUが呼んだ。
「壊した?」
『新たな損傷が生じた可能性はあります。確認が必要です』
いつも通りの、正確な答えだった。
結は目を伏せた。
『ただし、故障箇所の特定は進みました』
今度は善一AIが言った。
『次に直す場所まで、手が届いたということだよ』
職人と助手が帰ったあと、結は一人で作業台を片づけた。
折れたねじ。
取り外した保護板。
焦げた絶縁材。
いずれも、捨てなかった。
小袋へ収め、日付と場所を書いた。
最後に、空一郎の作った金属片を包もうとして、手を止めた。
「CHUYU」
『はい』
「これを直したとき、空一郎は何と言ったの?」
『どの時点の発言でしょうか』
「動いたとき」
記録を検索する小さな表示がともった。
結は待った。
地下室の時計が、何度か音を立てた。
『該当する音声記録があります。ただし、一部に欠損があります』
「聞かせて」
短い雑音がした。
次に、結の知らない声が聞こえた。
『……どう? 指、開ける?』
若い男の声だった。
肖像画から想像していたより、ずっと若かった。
『開閉を確認しました』
いま隣で話しているCHUYUと、同じ声が答えた。
何かを置く音。
椅子の軋み。
そして、男が笑った。
『よかった。これでまた、手伝ってもらえる』
結は動かなかった。
音声は、そこで終わらなかった。
『修復に要した時間は、予定を超過しました』
『うん。それは、アリステリアには言わないで』
『すでに夕食の時刻を超過しています』
『……先に、それを言ってほしかったな』
そこで記録が途切れた。
結は、手の中の金属片を見つめた。
さっきまで、自分も似たことを言っていた。
何世代も前の青年が、同じ声を相手に、同じように困っていた。
結は笑った。
笑ったあと、なぜか、少しだけ泣きたくなった。
その夜、蓮は書類を届けに来た使用人から、小さな紙片を受け取った。
姉の字だった。
――少し動いた。
その下に、書き足してあった。
――それから、止まった。続きを直す。
蓮は紙を裏返した。
何も書かれていなかった。
机に戻り、返事を書いた。
――発電機は止まらないようにして届ける。
それだけでは嫌味に見える気がして、少し考えた。
末尾に一行、加えた。
――次は見に行く。
結は、CHUYUが示した保守記録をもう一度開いていた。
義体を動かすには、指令を伝える仕組みだけでなく、身体の側から状態を返す仕組みも必要だった。
力を掛けすぎていないか。
関節はどこまで曲がったか。
熱は上がっていないか。
その往復が途切れれば、動くこと自体が故障の原因になる。
図面の余白に、結は自分の言葉で書いた。
命令だけでは、動かせない。
返事を受け取らなければ。
「善一」
『何かね』
「あなたが使う場合も、この仕組みが必要になるのね」
『そうだろう。CHUYUとは処理の構成が違う。私の判断を、そのまま身体へ流せばよいとは思わん』
「同時には、無理ね」
『少なくとも、誰が動かしているかを曖昧にしてはいけない』
結は、新しい頁を開いた。
右手の修復が先だった。
その先に、両腕があり、脚がある。
善一AIとの共有など、いまはまだ、紙に線を引くことしかできない。
それでも、頁の上に二つの名を書いた。
CHUYU。
善一。
その下に、一つの身体を描いた。
線をつなごうとして、結は鉛筆を止めた。
机の端には、坑道の観測記録が置かれていた。
輪のそばで生じた、小さな変化。
古い転送機材の振動。
届いた指令と、戻ってくる返事。
結は二冊の帳面を並べた。
まだ、同じ仕組みだとは言えなかった。
だが、どちらを考えるときにも、自分が一つの側ばかりを見ていたことに気づいた。
送る側。
動かす側。
こちらから、何をするか。
では、向こうからは。
結は坑道の記録の余白へ、短く書いた。
**受け取る側の条件を調べる。**
作業台の上では、義体の人差し指が、わずかに曲がったまま止まっていた。
結はその下に柔らかな布を敷き直した。
次に動くとき、余計な力が掛からないように。
それから、明日の測定計画を書き始めた。




