【第2幕】空一郎の帝国 第6章後半 時空間での遭難、そして漂着
最初に消えたのは、上下の感覚だった。
座席に固定されているはずなのに、身体が落ち続けているように感じた。次の瞬間には、横へ引きずられていた。
窓の外は白かった。
何も見えない白ではない。幾重にも折り重なった光が、互いの奥へ入り込んでいく。遠くを見ているつもりなのに、眼のすぐ前を何かが通り過ぎた。
《予定経路から逸脱しています》
CHUYUの声がした。
「どれくらい」
《算出できません。観測値が、座標系の適用範囲を外れています》
空一郎は操作盤へ手を伸ばした。
指先が、思った場所へ届かなかった。
「姿勢制御は?」
《作動中。ただし、外部からの作用を相殺できていません》
警告音が重なった。
呼吸が浅くなる。表示を読もうとすると、文字の輪郭が二重になった。
訓練で経験した、どの加速度とも違った。
「地上へ、送れるものを送れ」
《送信を継続しています》
「生命記録も」
《送信対象に含めています》
母の顔が浮かんだ。
届くなら、先に知らせてほしかった。
まだ生きている、と。
窓の中央に、白とは違う色が現れた。
青。
その下に、黒い枝のようなものが見えた。
「出口か」
《判定できません。衝撃に備えてください》
空一郎は背もたれへ身体を押しつけた。
次に見えたのは、光の中から迫る地面だった。
「空兄。聞こえる?」
声が、何度か繰り返された。
「聞こえたら、返事をして」
空一郎は眼を開けようとした。
まぶたが重かった。口の中が乾き、後頭部に鈍い痛みがある。
「……聞こえる」
「よかった。今は、急に起きないで」
彼は天井を見た。
木の梁がある。
梁の間には淡い色の漆喰が塗られ、窓から入った光が、その表面をゆっくり動いていた。
研究所の天井ではなかった。
ポッドの中でもない。
「どこだ」
「まだ分からない」
「神楽坂?」
「一致しない。少なくとも、予定していた部屋ではない」
空一郎は顔を横へ向けた。
枕元に、脱がされた外装が置かれていた。前腕の作業支援機と《Bible》もある。腰のNoös Pouchには、細い布が巻かれていたが、留め具は開いていなかった。
身体には、装備の下に着ていた黒い内衣が残っている。
「誰かが、運んだ?」
「到着後の記録に、人の姿がある。意識を失った空兄を、担架へ移している」
「何人」
「確認できるのは五人。武器を持つ人が二人。それから――」
少し間が空いた。
「明るい色の髪の女性がいる。スーツの開け方を探していた」
「開けられたのか」
「外側の留め具だけ。危険な操作には触れていない」
空一郎は、自分の胸に手を置いた。
呼吸できる。
指も動く。
足先へ意識を向けると、重さはあるが、感覚は残っていた。
「転送記録は?」
「経路が分かれたところで、一部が欠けている。強い干渉は記録されているけど、原因は特定できない」
「家から、返事は」
「受信できていない」
彼は天井へ視線を戻した。
予想していた失敗ではなかった。
到着地点が数百メートル違う。時刻が数日ずれる。そうした場合の手順は、何度も確かめていた。
けれど、目の前の部屋を、どの想定に入れればよいのか分からなかった。
「……想定外だな」
「うん」
「そこは、否定してくれないのか」
「今、間違った安心を渡したくない」
空一郎は、短く笑った。
笑うと、胸の奥が少し痛んだ。
「分かった。順番に調べよう」
扉の向こうで、声がした。
空一郎は身体を動かすのをやめた。
金属の留め具が鳴り、若い女性が入ってきた。生成りの袖に、濃い色の上衣。腰に細い帯を巻き、髪を銀色の飾りでまとめている。
手には盆があった。
彼女は空一郎が眼を開けていることに気づくと、扉の方へ振り返り、何か言った。
聞いたことのない言葉だった。
「翻訳できる?」
「まだ。短い発話だけでは、意味を絞れない」
女性は盆を置き、彼の顔をのぞき込んだ。
何かを尋ねるように、語尾が上がった。
空一郎は自分の胸を指した。
「空一郎」
彼女は首を傾げた。
「ソ……ライロ?」
「空」
「ソラ」
彼が頷くと、女性は自分を指した。
「ミレナ」
「ミレナ」
彼女も頷いた。
最初に確かな意味を持ったのは、二人の名前だった。
ミレナは水差しを持ち上げ、杯へ液体を注いだ。湯気はない。透明で、匂いもほとんどなかった。
空一郎が杯を見ていると、彼女はその警戒を理解したらしい。別の杯へ少し注ぎ、自分で飲んでみせた。
「好意はありそうだ」
彼が小さく言うと、CHUYUが答えた。
「そう見える。ただし、飲んで大丈夫かは別。装備の水が使えるなら、その方が確実」
空一郎は礼をするつもりで頭を下げ、枕元の給水容器を指した。
ミレナはそれを持ち上げ、しばらく形を調べた。
彼が受け取り、飲み口を開けると、彼女の眼が大きくなった。
空一郎は少量を飲んだ。
喉を水が通っていく。
それだけで、自分がまだ身体を持ち、生きていることを実感した。
ミレナは杯を盆へ戻した。拒まれたことを怒っている様子はなかった。
代わりに、薄い布を水へ浸し、彼の額を冷やした。
「ありがとう」
言葉は伝わらなかった。
それでも、彼女は笑った。
夕方、別の人物が部屋へ来た。
灰色の衣を着た、年配の男だった。小さな革袋を持ち、ミレナと短く話してから、空一郎の手首へ指を当てた。
診察らしい。
空一郎は、されるままにした。
男は瞳を見て、胸の動きを確かめ、痛む場所を尋ねているらしい身振りをした。
彼が後頭部を指すと、男はそこを慎重に調べた。
次に、男の手が、額の少し上で止まった。
何かを唱えた。
指の間に、淡い光が現れた。
空一郎は眼を細めた。
炎ではない。
少なくとも、芯も、灯具も見えなかった。
「ちゅゆ」
「記録している」
光が額へ近づく。
熱くはなかった。しかし、皮膚の表面に、小さな振動のような感覚があった。
男はしばらくその状態を保ち、手を下ろした。
痛みが少し和らいだ気もした。
だが、横になって時間がたったからかもしれない。額を冷やされた効果かもしれない。
「何だ、今の」
「分からない。発光と、周囲の場の変化を検出した」
「道具は?」
「確認できない」
男は、空一郎の不審そうな顔を見て、穏やかに何か言った。
意味は分からなかった。
空一郎は頭を下げた。
診察が終わると、ミレナが寝具を直し、二人は部屋を出た。
扉が閉じてから、彼は尋ねた。
「手品だと思う?」
「可能性は残る。でも、その説明に必要な仕掛けは、まだ見つかっていない」
空一郎は、先ほど男の手があった空間を見た。
祖父なら、何と言っただろう。
分からないものを、すぐに間違いとも魔法とも決めるな。
まず、記録を残せ。
「さっきのデータ、別に保存しておいて」
「保存した」
翌日、空一郎は寝台から立った。
最初の一歩で、足元が揺れた。
「ゆっくり」
CHUYUが言った。
「分かってる」
「椅子まで。窓は、そのあと」
彼は言われたとおり、いったん座った。
ミレナが入ってくると、彼は窓を指し、次に扉を指した。
歩く身振りをする。
彼女はすぐには頷かなかった。扉の外にいる男へ話し、しばらくやり取りをした。
やがて、革の上衣を着た衛兵が入ってきた。
空一郎は、その腰の剣を見た。
衛兵も、彼の前腕装具を見ていた。
「つけていくと、警戒されるか」
「すでに警戒されている。今日は、外装を持たない方がよさそう」
彼は作業支援機を机へ置いた。
《Bible》とNoös Pouchだけを身につける。ミレナはその二つを外させようとはしなかった。
部屋の外には、長い石の廊下があった。
窓から見える中庭には井戸と、植え込みと、土のままの道がある。壁には獣をかたどった紋章が掲げられていた。
遠くで馬が鳴いた。
空一郎は足を止めた。
街が見えた。
灰色の屋根が重なり、その向こうに高い塔がある。荷車が門を通り、人々が道を横切っていく。
煙の匂いがした。
薪と、食べ物と、湿った土。研究所では嗅がなかった匂いだった。
「……本当に、違うところへ来たんだな」
CHUYUは、今度は返事を急がなかった。
「うん。予定していた場所とは、明らかに違う」
庭へ出たところで、空一郎は腰の端末を開いた。
衛兵がすぐに動いた。
剣を抜きはしなかったが、彼との距離を縮めた。
空一郎は手を止めた。
「しまった」
「先に、何をするか伝えよう」
CHUYUが言った。
彼は端末を閉じ、両手を見せた。
それから空を指し、小さく円を描いた。
衛兵には伝わらなかった。
空一郎は地面の砂に、館と、空を飛ぶものの絵を描いた。飛ぶものから地面へ線を引き、さらに、その絵を自分の眼へつないだ。
ミレナが近づき、絵を見た。
何かを尋ねた。
空一郎は頷いた。
衛兵は困った顔で、もう一人を呼びに行かせた。
許可が出るまで、かなり待った。
「勝手に三機、飛ばさなくてよかったな」
「そう思う」
CHUYUの返事に、空一郎は苦笑した。
ようやく認められたのは、小型機一機を、庭の上で飛ばすことだった。
彼はNoös Pouchから無人機を取り出した。
何も入っていないように見える小さな口から、折り畳まれた機体が現れる。
ミレナが、一歩下がった。
衛兵の手が、剣の柄へ動いた。
空一郎は急いで機体を地面へ置き、自分も手を離した。
翼を開き、低い音とともに浮上させる。
無音ではない。
羽音に似た音が、石壁の間に響いた。
庭にいた者が、次々と空を見上げた。
一人が、胸元の飾りへ手を当てた。
「……クラークが見たら、喜びそうだ」
「何の話?」
「科学が、魔法に見えるって話」
「向こうが喜んでいるかは、まだ分からないよ」
空一郎は、衛兵の硬い顔を見た。
「そうだな」
端末に映像を出し、彼にも見せた。
衛兵は、画面と、上空の機体を交互に見た。
その表情は、驚きだけではなかった。
城壁の向こうを、空から見られる道具。
何に使えるかは、言葉が通じなくても理解したらしい。
その後の数日は、観察と、言葉の収集に費やされた。
ミレナは、物の名前を根気よく教えた。
水。
食事。
窓。
痛い。
眠る。
彼女が言い、空一郎が繰り返す。間違えると、彼女は同じ言葉をゆっくり発音した。
CHUYUは音声と、指し示されたものと、前後の行動を結びつけた。
館の中で同じ表現が繰り返されるたびに、候補が絞られていった。
「三日で、話せる?」
空一郎が尋ねた。
「食事や移動のお願いなら、かなりできると思う。でも、約束や身分の話は、まだ危ない」
「危ない?」
「似た言葉でも、意味が違うかもしれない。『客』と『保護されている人』が、同じ扱いとは限らない」
空一郎は扉を見た。
食事は運ばれてくる。
寝具も清潔だった。
しかし、廊下にはいつも誰かがいる。
外へ出るには、許可が必要だった。
「保護と、監視か」
「両方だと思う」
四日目の夜、彼は窓辺で観測記録を開いた。
館は、街を見下ろす丘に建っていた。
城壁の内側には、店や住居が密集している。水は共同の井戸と、水売りらしい荷車から供給されていた。
無人機による短い観測では、川沿いに水車が見つかった。大きな作業場もある。
遠くを走った煙の出る車両は、蒸気機関なのか、別の動力なのか、まだ分からなかった。
「中世、って言えば簡単だけど」
空一郎は映像を止めた。
「これ、何で動いてるんだろう」
「映像だけでは判断できない。車輪と、荷台の下の構造を見たい」
「それに、昨日の光」
「記録を比較している。既知の装置では、まだ説明できていない」
空一郎は窓の外を見た。
夜空が、少しずつ暗くなっていく。
星の位置を測っても、故郷の空のようには並ばなかった。
時代が違うだけでは、説明しにくい差があった。
「地球じゃない?」
「まだ断定できない。違う惑星、長い時間の隔たり、別の時空構造。候補は複数ある」
「並行世界も?」
「仮説としては」
彼は、家族への送信画面を開いた。
未確認の送信が、いくつも並んでいた。
返事はない。
「着いたら、最初に連絡するって言ったんだけどな」
「送信は続けている」
「分かってる」
彼は新しい音声記録を始めた。
「空です。生きてる。身体は、だいぶ動くようになった。現地の人に保護されている。言葉は、今、覚えてる」
そこで、一度止まった。
母へ何と言えば、心配を少し減らせるだろう。
考えた末、余計な保証はやめた。
「帰る方法を調べる。記録は残してる。また送る」
送信した。
画面は、変わらなかった。
夜更け、CHUYUの顔を小さな投影パネルへ表示した。
空中に浮く実体ではない。薄い画面に、宙結をモデルにした表情が映っている。
それでも、寝台の脇に置くと、少し家に近づいた気がした。
「明日、ここの主に会うらしい」
「ミレナの説明も、そう取れる」
「何を話せばいい」
「名前。助けてもらったお礼。帰る場所を探していること。まずは、その三つ」
「記憶喪失ってことにする?」
「あとで話が合わなくなるよ。分からないのは、ここがどこかでしょう」
「そうだな」
彼は椅子へ座り直した。
「全部は、話せない」
「全部を話す必要はない。ただ、知らないことと、話さないことを混ぜない方がいい」
空一郎は頷いた。
父も、同じように言ったかもしれない。
「帰れると思う?」
CHUYUの表情が、少し静かになった。
「今は、約束できない」
彼は画面を見た。
「でも、方法を探すことはできる。空兄が眠っている間も、私は記録を整理できる」
「……助かる」
「明日のために、そろそろ寝よう」
窓の外で、犬が吠えた。
廊下では、見張りの足音がした。
知らない家の、知らない夜だった。
空一郎は写真の入った袋を枕元へ置き、眼を閉じた。




