第6章 前半 タイムトラベル・プロジェクト始動――帰還の道を託す者たち Chrono One Project。
クロノ・ワン計画の最終会議は、予定より二時間長くなった。
画面には、転送先の日時と場所が表示されていた。
アヤの事故前年、十一月二十五日、午後三時三十二分。
東京都新宿区神楽坂。葛城善一が、当時、私的な研究に使っていたアパートの一室。
その日時が選ばれたのは、善一の記憶だけが理由ではなかった。
実験日誌、古い写真、建物の図面。複数の資料を照合し、周囲に人がいない空間と、本人の所在を絞り込める時間帯を選んでいた。
それでも、転送先の状態を直接見られるわけではない。
最後まで、推定は残った。
「往路の無人試験は、三回とも成功している」
陸一郎が説明した。
「搭載物の記録では、指定した時刻と場所への到達が確認できた。短い通信も戻った。ただし、物体の帰還には成功していない」
みさをは、机の上で両手を組んだ。
「通信が戻るのに、物は戻せない」
「必要な条件が違う。今の受信側には、物体を通す経路を維持する装置がない」
「空が着いて、向こうで作る」
「その計画です」
彼女は、息子の顔を順に見た。
「それを、成功したら帰れる、という言い方にはしないで」
陸一郎は頷いた。
「帰れる可能性を作る。今、言えるのはそこまでです」
空一郎は、机の端へ置かれた資料を見ていた。
何度も読んだ文章だった。
自分の名前の横に、渡航者と書かれている。
その下には、帰還時期未定。
計画の目的は、過去の善一へ、研究の到達点を渡すことだった。
事故の原因を示す記録。
制御系を改めるための設計。
そして、帰還装置の建設に必要な知識と機材。
なぜ通信だけでは足りないのか。
その問いは、何度も議論されていた。
「警告だけなら、短い信号にできる」
みさをは言った。
「完全な事故記録や設計を渡すには、今の経路では不安定です」
海一郎が答えた。
「何より、届いたとき、その時代の善一が、信号を本物だと判断するか分からない」
善一は、会議室の奥で聞いていた。
「身に覚えのない未来の話を受け取れば、わしも疑うだろうな」
「孫が来ても、疑うんじゃない?」
宙結が尋ねた。
「疑う」
祖父は即答した。
「だが、目の前にいて、質問に答え、装置を動かせる者なら、調べ続けることはできる」
みさをは父を見た。
「だからといって、空を送る理由が全部そろうわけではない」
「分かっている」
善一は声を落とした。
「わしは、この計画を望んでいる。それだけに、わしが空へ頼んではいかんと思っている」
空一郎が顔を上げた。
「頼まれてないよ」
「お前が、そう感じていなくてもだ」
善一の手が、机の上の杖を握った。
「わしがアヤの話をするたびに、お前たちは聞いてくれた。あの人に会いたいという願いを、いつの間にか、お前たちの仕事にしてしまったのかもしれん」
誰も、すぐには答えなかった。
空一郎は資料を閉じた。
「それだけなら、行かない」
善一が彼を見た。
「僕は、この装置で人が渡れるか確かめたい。向こうで装置を作って、帰れる道をつなぎたい。じいちゃんに会うのも、ばあちゃんを助けたいのも、その中にある」
「戻れなかったら」
母の問いに、空一郎は少し黙った。
「怖くないとは言わない」
彼は、みさをを見た。
「でも、待っていれば、必ず安全になるとも思えない。試験が足りないところは、もっと確かめる。そのあとで、僕が決めたい」
「私が反対しても?」
「聞く。理由も、全部」
みさをの目が、わずかに揺れた。
空一郎は続けた。
「聞いたうえで、行きたいと言うかもしれない」
その日、結論は出なかった。
追加試験が行われた。
転送中の生命維持、収納領域の安定、現地での独立電源、通信が途絶した場合の判断。
空一郎は、到着後に使う機材を実際に組み立て、限られた資材で修理する訓練を繰り返した。
父の俊介は、帰還装置の設計を見直した。
海一郎は、膨大な資料を持ち込む順序を整理した。
陸一郎は、転送を中止する条件を、何度も書き直した。
みさをは、家族とは別の担当者による評価を求めた。
身内だけで、互いの希望を根拠にしないためだった。
空一郎は、その手続きを急がせなかった。
出発の決定まで、季節が一つ変わった。
搭載物の最終確認で、空一郎は画面の一覧を見た。
「これ、全部?」
「全部。ただし、一度に取り出せるわけではない」
陸一郎が答えた。
Noös Pouchは、転送時に保管領域ごと搬送する仕様へ改良されていた。元の研究所にある倉庫と接続したままでは、時代を越えたあとに使える保証がなかったからだ。
収納物には、食料と医療資材、測定器、工作機械、予備部品、蓄電装置があった。
小型の移動車両。
偵察用の無人機。
展開式の居住設備。
組み立てを要する観測機器や、特殊な環境で使う装備も含まれていた。
「ずいぶん増えたね」
空一郎が言った。
「帰還装置を一から作るなら、修理できる道具を先に作れなければならない」
海一郎は一覧を切り替えた。
「でも、材料も燃料も有限。図面があっても、作れないものはある」
「機材を壊したら?」
「予備がなければ、代わりを作る」
「代わりを作る機械が壊れたら?」
海一郎は、別の項目を開いた。
手工具だった。
空一郎は笑った。
「結局、ここへ戻るんだ」
「手で直せるところを残しておいた方が、長く使える」
陸一郎は、防護装備の欄を指した。
「現地で見せるものも、選んで。未来の機械を並べれば、信用してもらえるとは限らない」
「じいちゃんには?」
「じいちゃんにも」
空一郎は頷いた。
画面の下には、もう一つの搭載項目があった。
善一の研究記録から構築された、専門対話用のレプリカAI。
「本人が向こうにいるのに、必要?」
彼が尋ねると、善一が後ろから答えた。
「わしが信じるまで、時間がかかるかもしれん。その間にも、計算はできた方がよい」
「二人のじいちゃんが、違うことを言ったら?」
「根拠を比べろ」
善一は少し笑った。
「年寄りの方が、正しいとは限らん」
出発前夜、宙結はAI-CHUYUの記録設定を確認した。
転送後は、こちらの宙結と常時接続できるわけではない。現地で動くモデルは、独立して空一郎を支援する。
彼女は端末へ話しかけた。
「空お兄ちゃんが、平気って言ったとき、声だけで判断しないでね」
《生体情報と行動記録を併せて確認します》
「でも、数字が正常でも、困っていることはある」
《本人へ確認します》
「答えないときもある」
短い沈黙があった。
《その場合、答えられる問いへ変更します》
宙結は頷いた。
そこへ、空一郎が入ってきた。
「僕の取扱説明書?」
「そう」
「本人にも見せて」
「見せたら、その対策をするでしょう」
「そんなことしないよ」
宙結は彼を見た。
空一郎は、すぐに目をそらした。
「……たぶん」
妹は端末を閉じた。
「帰ったら、向こうで何があったか教えて」
「記録は全部残す」
「記録じゃなくて、話して」
空一郎は、椅子の背へ置いていた手を離した。
「分かった」
宙結は、それ以上の約束を求めなかった。
ただ、小さな袋を差し出した。
中には、四人で撮った写真が入っていた。
「端末にも入ってるよ」
「電源がなくても、見られる方がいい」
空一郎は袋を受け取った。
「ありがとう」
出発当日、転送装置《Chrono Diver》の周囲には、一定の低い音が満ちていた。
空一郎は、生命維持機能を備えたポッドへ乗り込む前に、一人ずつ家族の顔を見た。
陸一郎は、何度も確認した接続部を、もう一度見ていた。
海一郎は、端末の表示を止めずに監視していた。
宙結は、兄の装具の留め具を直した。
「苦しくない?」
「大丈夫」
「それ以外の言葉で」
「右肩が、少しきつい」
「最初から言って」
彼女は調整した。
善一は、少し離れた椅子から立ち上がった。
「空」
「うん」
「向こうのわしが、無理を言ったら、断れ」
空一郎は、祖父の目を見た。
「じいちゃんでも?」
「わしだからだ」
彼は頷いた。
俊介はポッドの入口へ来た。
「着いたら、予定より周囲の状態を優先して。場所が違うと思ったら、無理に動かない」
「記録を取って、連絡する」
「そう」
父は、続けようとして、一度口を閉じた。
「ここでも、帰還の研究を続ける」
「頼む」
最後に、みさをが近づいた。
彼女は息子の頬に手を置いた。幼いころ、熱があるか確かめたときと、同じ触れ方だった。
「私は今でも、行ってほしくない」
空一郎は黙って聞いた。
「でも、行くあなたに、渡せるものは全部渡した」
「うん」
「困ったら、計画を変えていい。誰の期待も、守ろうとしなくていいから」
「分かった」
みさをは、手を離した。
「元気でいて」
空一郎は返事をする前に、短く息を吸った。
「母さんも」
ポッドの扉が閉まった。
表示が、外部監視から搭載支援系へ切り替わる。
《AI-CHUYU、独立運用を開始します》
聞き慣れた声がした。
「よろしく」
《こちらこそ。まず、呼吸を少しゆっくりにしてください》
「緊張してる」
《確認しました》
空一郎は、背もたれへ体を預けた。
通信に陸一郎の声が入った。
『空。まだ中止できる』
「続ける」
『了解』
秒数が減っていく。
観測値は、許容範囲にあった。
海一郎が最終確認を読み上げた。
『搭載系、正常。収納領域、安定。生命維持、正常』
空一郎は、手元の帰還計画を一度見た。
そこには、完了した確認項目と、到着しなければ始められない項目が並んでいた。
「じゃあ、行ってくる」
家族の返事が、少し重なった。
最後まで聞き取れたのは、宙結の声だった。
『着いたら、最初に連絡してね』
「分かってる」
光が、窓の外から満ちてきた。
ポッドの輪郭が、観測画面から失われた。
異常が現れたのは、その直後だった。
「位相差、増大」
監視担当者が言った。
陸一郎は表示を拡大した。
目標への接続を示す線が、途中から二つに分かれていた。片方は、すぐに消えた。残った方には、座標を確定できないという警告が点灯している。
「予定経路から外れている」
彼は通信へ切り替えた。
「空、聞こえるか。現在の状態を報告して」
雑音が返った。
「空」
海一郎が、受信した短いデータを別の画面へ移した。
「搭載系から、信号が来てる」
「本人の応答は?」
「まだない。待って――生命維持の記録がある」
みさをが、彼の隣へ来た。
「いつの記録?」
海一郎は時刻を確認した。
「転送経路が外れたあとです。心拍と呼吸を記録してる」
「その時点では、生きている」
彼女は自分にも言い聞かせるように、正確に言った。
「次を受け取って」
海一郎は頷いた。
宙結が通信を試みた。
「CHUYU。空お兄ちゃんの状態を送って。声じゃなくてもいい。受信できる形式で」
返事はなかった。
しかし、表示の端に、新しい短いパケットが現れた。
海一郎が復号を始める。
陸一郎は、経路の再計算を続けていた。
「戻せる?」
みさをが尋ねた。
彼は、画面から目を離さなかった。
「今の座標では、逆向きの接続を指定できない」
「探して」
「探してる」
声が強くなった。
陸一郎は一度、手を止めた。
「……ごめん」
「謝らなくていい。続けて」
善一は、消えたポッドのあった場所を見ていた。
計器の向こうに、何もない空間がある。
彼は一歩近づきかけ、止まった。
「善一さん」
俊介が声を掛けた。
祖父は、ゆっくり振り返った。
「また、わしが――」
「原因は、まだ分かりません」
俊介は言った。
「今は、届いた記録を見てください。あなたにしか気づけないことがあるかもしれない」
善一は、机へ戻った。
手が震えていた。眼鏡を掛けるのに、少し時間がかかった。
海一郎が復号した画面には、搭載AIの報告が表示された。
――主電源、維持。
――収納領域、維持。
――目的座標との照合、不成立。
――外部観測、継続中。
その下に、新しい一行が加わった。
――搭乗者、応答あり。
みさをは、机の縁を握った。
「声は?」
「この回線では、まだ」
海一郎が答えた。
空一郎は、どこかで応答している。
それ以上のことは、まだ分からなかった。
陸一郎は座標の値を見ていた。
「時刻だけじゃない」
俊介が隣へ来た。
「どう違う」
「基準にしていた空間側の値が、一緒にずれてる。場所を移しただけなら、こうはならない」
「観測器の異常は?」
「確認する」
彼は別系統の記録を呼び出した。
海一郎も、搭載機の測定値を重ねた。
二つの独立した記録が、同じ異常を示していた。
陸一郎は、画面の端へ新しい欄を作った。
行き先不明。
その文字を入力する指が、一瞬止まった。
「全記録を保存してください」
俊介が言った。
「元の座標へ戻すための仮説と、今いる場所を特定するための仮説を分けましょう。分からない値は、分からないまま残す」
海一郎は受信を続けた。
陸一郎は転送経路をたどった。
宙結は、途切れる通信の向こうへ、同じ呼びかけを送った。
「空お兄ちゃん。こちらは聞いてる。届いたら、今見えているものを教えて」
みさをは、次の生命記録を待った。
善一は、かつて自分が書いた式と、孫たちが改めた式を並べた。
誰も、装置の電源を切ろうとは言わなかった。
俊介は、空になったポッドの設置台から目を離した。
「空を、一人にしない」
静かな声だった。
「次の信号を、受け取りましょう」
研究所の時計は、いつもと同じ速さで進んでいた。
その針が刻む時間と、空一郎のいる場所の時間が、どのようにつながっているのか。
家族はまだ、知らなかった。




