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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第5章 青年期の研究と才能の開花  情報の器、意志の種


 柊家の食卓から、研究資料が消える日は少なかった。

 ただし、食事中に端末を開かないという規則だけは、みさをが守らせていた。

「続きは、食べてから」

「今、思いついたんだけど」

 空一郎が言うと、母は箸を止めずに答えた。

「忘れそうなら、一行だけ書いて」

 向かいに座る陸一郎は、すでに紙へ短い式を書いていた。海一郎はその式を見て、自分の手元にも何か書き足した。

「二人とも、食べてから」

 俊介が注意する。

「父さんも」

 宙結が、彼の袖の下を指した。

 そこには、開きかけた研究ノートがあった。

 俊介は黙って閉じた。

 三兄弟が高校を卒業するころ、幼い日の実験は、それぞれの専門につながり始めていた。

 それでも、世間が彼らを評価する理由と、家で叱られる理由は、あまり変わっていなかった。

 夢中になると、周囲が見えなくなる。

 食べることも、眠ることも、返事をすることも後回しになる。

 みさをは、賞状より先に、目の下の隈を見た。

     

 陸一郎が時間の研究へ進んだのは、祖父の仮説を信じていたからだけではなかった。

 彼は、祖父の説明に残された曖昧さを、そのまま受け継ぎたくなかった。

「ここで『意識』という言葉を使う必要はある?」

 大学院へ進んだころ、善一の書斎で、彼は古い論文を広げて尋ねた。

「何頁だ」

「二十三頁。観測者の状態が伝送先を選ぶ、とある。でも、それが人間の意識である理由は書かれていない」

 善一は眼鏡を掛け直した。

「当時は、その可能性を考えていた」

「今は?」

「測定できるものから、組み直す必要がある」

 陸一郎は頷いた。

「だったら、僕はそこから始めたい」

「わしの理論を、ずいぶん削ることになるぞ」

「削って残ったものなら、使える」

 善一は少し黙り、笑った。

「アヤと同じことを言う」

 陸一郎は論文から顔を上げた。

 祖母の名を聞くと、祖父は時々、うれしそうにも、寂しそうにも見えた。どちらなのかを、陸一郎はまだうまく判断できなかった。

 彼が後に発表した論文は、『局所閉時間曲線モデルにおける観測系の安定条件』と題された。

 時間旅行の実現を宣言するものではない。

 ある特殊な時空構造が存在すると仮定した場合、そこを通る情報や物体の状態を、どこまで保てるか。その条件を整理した理論研究だった。

 発表後、質問が相次いだ。

「つまり、未来へ行けるということですか」

「この論文だけでは、言えません」

「過去を書き換えることは?」

「書き換えられるかどうかを判断する段階にも、まだ達していません」

 帰宅した陸一郎は、食卓でため息をついた。

「できないことを説明する方が、長かった」

「大事な発表だったんだね」

 みさをが言った。

「できることは、一つしか示していない」

「その一つを、間違えずに伝えたんでしょう」

 彼は返事をせず、少し冷めた夕食を食べた。

     

 Noös Pouch――ヌース・ポーチの構想は、その研究の途中で生まれた。

 時間の異なる二地点を結ぶ前に、まず、空間的に離れた小さな領域を安定して接続する。

 陸一郎は、その試験装置を机の上に置いた。

 外見は、厚みのある小さなケースだった。蓋を開けても、底には何もない。

「何を入れるの」

 空一郎が聞いた。

「今日は、球体」

「何の?」

「樹脂製。識別番号を付けてある」

「もう少し面白いものは?」

「最初から面白いものを入れるな」

 海一郎が記録を開始した。

 球体は、ケース内部の暗い面へ触れ、ゆっくり見えなくなった。

 空一郎が身を乗り出す。

「消えた」

「見えなくなっただけ」

 陸一郎は別の表示を指した。

 接続先の密閉容器に、同じ球体が映っている。

「そっちにあるのか」

「今はね」

「遠くの倉庫に手を入れるみたいなもの?」

「その方が、消えたと思うより近い」

 回収操作を行うと、球体が再びケースの内側に現れた。

 海一郎は識別番号を読み、質量と表面の状態を確かめた。

「一致。損傷なし」

 空一郎が笑った。

「これ、持ち歩ける?」

「まだ無理」

「できたら、工具箱を運ばなくて済む」

「運ばなくなるわけじゃない。別の場所へ置くんだ」

「分かってる」

「分かっているなら、無限に入るとか言わないで」

「まだ言ってないだろ」

 その後、装置は何度も作り直された。

 接続口の大きさ、保管領域の容積、維持に必要な電力。どれも制限があった。

 空一郎が欲しがったのは、掌に収まる道具箱だった。

 陸一郎が作っていたのは、物体を無事に取り戻せる装置だった。

 同じものを見ていても、優先する問題は違った。

     

 試験運用の日、空一郎はポーチへ工具を詰めた。

 帰ってくると、半分以上を使っていなかった。

「何で全部入れたの」

 海一郎が一覧を見て尋ねた。

「何が壊れるか分からないから」

「重さを感じないと、際限なく増やすね」

 陸一郎は端末を空一郎へ向けた。

「取り出す順番を決めて。非常時に探していたら、間に合わない」

「呼べば出るようにできない?」

「名前が曖昧だと、違うものが出る」

「じゃあ、僕が使う呼び方を覚えればいい」

 海一郎が、少し考えた。

「本人確認と、用途の推定を組み合わせる。それでも、危険なものは確認を挟む」

「急いでるときは?」

「急いでいるときほど、間違えたくない」

 こうして、収納装置に支援システムが加わった。

 欲しいと思っただけで道具が現れるわけではない。使用者の指示、認証情報、周囲の状況を照合し、必要な収納区画を接続する。

 空一郎は完成した試作機を腰へ留めた。

「これなら、両手が空く」

 陸一郎は、その手を見て言った。

「だからといって、余計なものまで持つなよ」

     

 海一郎の研究室には、人間の声が多かった。

 ただし、そこに人間が大勢いるわけではなかった。

 端末から、質問に答える声が聞こえる。別の画面では、発話の間隔や言葉の選び方が図になっていた。

 彼の研究対象は、補助脳と人格モデルの接続だった。

 記憶を取り出す補助をすること。

 判断の負担を軽くすること。

 そして、その支援が、本人の判断を勝手に置き換えないこと。

 母のみさをは、最後の点を特に気にした。

「患者さんが迷っているとき、装置が先に答えてしまったら?」

「候補を提示する」

「候補の並べ方で、答えを誘導することもあるでしょう」

「……ある」

「では、迷っていることも、本人の状態として残して」

 海一郎は画面に向き直った。

 処理を速くするだけでは、よい補助脳にならなかった。

 本人が立ち止まる時間を、装置が待てなければならない。

 量子計算系を組み込んだ端末、Q-BRAINは、膨大な神経活動の記録と行動履歴を照合するために使われた。言語モデルや感情推定の機能も加わり、特定の人物の判断傾向を学習できるようになった。

 しかし海一郎は、それを「魂を写す機械」とは呼ばなかった。

「同じ答えを出せることと、同じ人であることは違う」

 彼がそう言うと、善一は、窓辺の銀色の装置を見た。

「そうだな」

 少し間を置き、続けた。

「だが、違うと分かっていても、話したくなることはある」

 海一郎は頷いた。

「それも、なかったことにはしたくない」

     

 空一郎は、実験室にいる時間と、外へ出る時間が、ほぼ同じだった。

 高校時代に参加した航空工学の教育プログラムをきっかけに、操縦訓練へ進み、大学では宇宙構造工学と航行制御を学んだ。

 座学を嫌っていたわけではない。

 計算結果が、実際の振動や風の中でどう変わるかを、確かめずにはいられなかった。

 ある訓練の日、彼は警報が鳴ってからも、試験を数秒続けた。

 帰還後、指導員から長く注意を受けた。

「続ければ、データが取れました」

「中止しても、データは取れた」

「異常が収まると思ったんです」

「何を根拠に?」

 空一郎は返答を探した。

 根拠がなかったわけではない。ただ、それを他人に説明できるほど確かめてはいなかった。

 夜、俊介にその話をすると、父は尋ねた。

「次は、同じことをする?」

「……しない」

「なら、何を変える」

「中止条件を、出発前にもっと細かく決める」

「自分で変えていい条件と、変えてはいけない条件もね」

 俊介は息子のノートを見た。

「式が合っていても、機体が式のとおりにできているとは限らない。現物の方が違うと分かったら、計算を守るために乗り続けるな」

 空一郎は、その言葉をノートの端に書いた。

     

 前腕に装着する作業支援機も、空一郎の試験から改良された。

 握力を補助する外骨格と、距離測定、材質分析、精密加工の機能を備えていた。

 彼はその装置で、岩の表面を調べ、破損した部品を切り離し、仮の修理を行った。

 出力を上げれば、危険な道具にもなった。

 海一郎は、操作系に幾つもの制限を入れた。

「また、確認?」

 空一郎が言った。

「人が近くにいる」

「見えてるよ」

「装置にも、分かるようにして」

 陸一郎は、試験映像を止めた。

「ここの動き、速すぎる。転んだら、先端が自分の脚へ向く」

 空一郎は画面を見直した。

「……本当だ」

 使える道具が増えるたびに、覚えなければならないことも増えた。

 彼は、それを嫌がらなかった。

 未知の場所へ行くなら、最後に頼れるのは、自分が理解しているものだけだと知り始めていた。

     

 宙結が、自分をモデルにした支援AIを作りたいと言ったのは、十六歳の春だった。

 海一郎は、すぐには了承しなかった。

「何を記録させたい?」

「私がどう考えるか」

「それは、かなり広い」

「だから、少しずつ」

 宙結は、兄の研究室の椅子へ座った。

「空お兄ちゃん、装置の警告は無視することがあるけど、私が言うと聞くでしょう」

「聞かないこともある」

「あるね」

「僕の説明も、聞かないことがある」

「長いから」

 海一郎は、少し傷ついた顔をした。

 宙結は笑ったが、すぐに真面目な表情に戻った。

「ただ声を似せるだけじゃ、だめだと思う。どうして止めるのか、どういうときは任せるのか。それを一緒に考えたい」

「君の代わりになるものを作りたいの?」

「違う。私は、ここにいる」

 彼女は自分の胸に手を当てた。

「遠くへ行く兄たちと、いつでも話せるとは限らない。そのとき、私なら気づくことを、少しでも持っていってほしい」

 海一郎は、記録中の表示を消した。

「まず、父さんと母さんにも話そう」

     

 みさをは、計画を聞いて、最初にデータの範囲を尋ねた。

 会話。課題への回答。本人が選んだ記憶。観察できる行動。

 神経活動の記録は、別に検討することになった。

「話したくないことは、記録しない」

 母が言った。

「途中でやめてもいい。やめたからといって、誰かの計画が壊れたと考えないで」

「分かってる」

「それから、完成したものが、あなたと違う答えを出す可能性がある」

 宙結は頷いた。

「同じ材料で育っても、兄たちは違うでしょう」

 陸一郎が、向かいの海一郎を見た。

「それは、確かに」

 俊介は、説明資料に指を置いた。

「このAIが、自分について話すときも、その違いを伝えられるようにしよう。宙結の声を使うからこそ、曖昧にしたくない」

 計画は、段階を分けて始まった。

 宙結は、問題を解いた理由を説明した。迷ったところも、後から答えを変えたところも記録した。

 空一郎の試験映像を見て、いつ止めたくなったかを話した。

 海一郎は、それを学習させ、別の状況でどんな判断をするか確かめた。

 数年後、宙結が成人して改めて参加への意思を確認したころには、モデルは、彼女の口調を真似るだけのものではなくなっていた。

 兄たちが省略しがちな確認を求め、曖昧な指示には聞き返し、根拠のない安心を口にしなかった。

 支援AI、CHUYU。

 携帯型の記録・閲覧端末《Bible》を通して、彼らと話すことになった。

     

 最初の長時間試験で、空一郎は作業開始から五時間、休憩を取らなかった。

《水分補給を推奨します》

「あとで」

 AIは、少し待った。

《あとで、は何分後ですか》

「十分」

《二十分前にも、十分後と回答しました》

 海一郎が笑い、宙結本人は腕を組んだ。

「私、そこまで細かく言う?」

「言う」

 三兄弟が同時に答えた。

 宙結は端末を見た。

「じゃあ、うまくできてるね」

 その夜、彼女はAIに尋ねた。

「私の考え方、窮屈じゃない?」

《比較するための別の自己を、私は持っていません》

「そっか」

《ただし、あなたの記録にない経験から、判断が変化する可能性はあります》

 宙結は、少し考えた。

「そのときは、何があったか教えて」

《共有可能な範囲で、記録します》

 約束のような返事だった。

 海一郎は、二人の声を聞きながら、画面へ新しい項目を加えた。

 更新履歴。

 誰をモデルにしたかだけでなく、何を経験して変わったかも、残す必要があった。

     

 夜遅く、みさをはリビングで俊介の隣へ座った。

 研究室では、まだ三兄弟の声がしていた。

「宙結に、頼りすぎていないかしら」

 彼女が言った。

「本人にも、AIにも?」

「両方」

 俊介は、閉じたノートを膝に置いた。

「そうだね。あの子がよく気づくから、気づく役目を全部渡してしまいそうになる」

「役に立たなくても、家にいていい。それは、何度でも伝えたい」

「兄たちにも」

 廊下の向こうから、空一郎の声がした。

「ちゅゆ、これ――」

「今、自分の課題をやってる」

 妹が答えた。

「……分かった。あとで聞く」

 みさをは、小さく笑った。

「今日は、伝わっているみたい」

 俊介も笑った。

 そのとき、卓上の端末が短く光った。

《明日の試験時刻が変更されました。確認しますか》

「明日の朝にする」

 俊介が答えた。

《通知を保留します》

 表示が消えた。

 みさをは夫の肩にもたれた。

「今夜は、もう研究の話をやめましょう」

「何を話す?」

「次の休みに、どこへ行くか」

 俊介は窓の外を見た。

「遠くないところがいい」

「珍しい」

「家族全員、予定を合わせるだけで、十分難しいから」

 研究室から、また笑い声が聞こえた。

 まだ、全員が同じ家に帰ってくる時期だった。

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